その一方で、日本の何処かでとてつもなく激しい雨量を観測している地点があるという、ざわついた今夏です。
誠に、過去にこれという異常気象による被害の少ない栃木県でしたが、どうやらここ数年、県内各地に被害が出るようになってしまいました。特に竜巻と思われる被害が続出してます。しかし、いかにケータイ万能の世とはいえ、気象情報を一日中チエックしている訳にもいかず、突然の強風と大雨には自然の営みの猛威を実感させられます。狭小な存在なんです、人間とは。
栃木市の教育委員会主催による「とちぎ文化講座」なる催しがあり参加してきました。色々なコースが設定されており、「遺跡、史跡コース」や「文学コース」「美術コース」「栃木市ゆかりの偉人コース」と別れております。
「遺跡、史跡コース」の二回目のタイトル(全四回)が、「古代~中世の栃木市」となっており、奈良時代から鎌倉時代あたりまでの事を中心とした講座が開かれました。講師の先生は公益財団法人とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センター副所長(長すぎます)にて栃木市文化大使を兼務なさっている方が二時間に亘ってお話しされました。
これは私としては聞き逃せないかと思い、夜七時からでしたが、聴講してまいりました。40名以上の聴講者がおりました。
結論から言いますと、二時間で700年代から1400年代までの事柄を話していただくには無理があります。更に講師役の方にも得意な専門分野がおありだろうと思います。ザーッと総論を流して終了でした。得意な分野に絞ってお話をお聞きしたかったなと、今は思います。又、資料の中の写真や、文字が不鮮明なことおびただしく疲れました。
勿論、私が関心を持っている「東山道」や「下野国庁舎」、「薬師寺」に関してのお話もございましたが、どうしても物足りなさだけが残ります。
今回の講座を企画なさったことを否定するものでは決してありませんし、有意義な事と思います。私が勝手に物足りなく思ってしまっただけの事にすぎません。ただ、そんな意見もあった、とご理解いただきたいのです。
栃木市の市民には「東山道」よりも「日光例幣使街道」の方が身近にしてなじみがあります。何しろ、片方はいまだ明確な道筋が確定された訳ではなく、一方は現在も市の中心部を通過する主要な道路として、日頃から話題にもなったりしています。
つまり「重要伝統建造物群」の指定も受けている町内を通過していますので。
それにしても、講師の方もちらっと触れていましたが、遺跡等の発掘調査が栃木市に於いては何とも歯がゆい程に行われておりません。東北自動車道佐野ジャンクションから関越道まで抜ける北関東道がありますが、佐野田沼ICを作る際、なぜにあれだけの工事をしておきながら、あの一帯を発掘調査しなかったのでしょうか。同じ北関東道の上三川IC周辺の発掘調査では大変貴重な東山道跡の出土や遺跡の発掘調査が進められました。管轄外からなのかもしれませんが、市の教育委員会等が中心となって、多少なりとも発掘調査すべきでした。東山道が特定されたかもしれないのです。
何しろ、すぐそばには、平安時代随一の学僧として高名な天台座主、慈覚大師円仁の大師堂がある「大慈寺」や「村檜神社」が今現在も荘厳さをもって存在しているのです。
勿論、推論としか言えませんが、東山道はこの地点を通過して「下野国庁舎」に向かったであろうと考えています。
更に周辺には、何か所もの歌枕の地名が冠せられた場所が点在しています。
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勿論、各地の資料館にて当時の資料から分かる範囲でのことをお聞きし、それなりに独自に調べはしたのですが、何一つ裏付けてくれるものの存在を確認することは出来ませんでした。
少なからず、1000年前の事象や特定の人物の足跡を追いかけることはきわめて困難を伴うわけです。それ故、私は悠久の浪漫として、半ば夢を見る思いで追跡している、ことになりますか。
しかし、実方の和歌を集めた「実方集」(桂宮戌本より)には
「みちのくににて、北の方うせ給いてのち、つつきみに、はかま
きせ給とて
いにしえをけふにあはするものならはひとりはちよをいのらざら
まし」とあります。
妻子を伴っての陸奥下向でした。
当時、例えば花山天皇退位後の花山帝に矢を放って左遷された藤原隆家や、源氏物語の中で光源氏が須磨に自発的に蟄居するくだりがありますが、左遷で京を離れるものが妻子を伴うはずがないのです。
随分と長く書いてきてしまいました。でもこれはまだ入り口にすぎません。次回も、もう少し書きます。
何しろ私の時間が無くなりました。商いに戻ります。