あと1~2回ほどにて、清少納言と、藤原実方との接点を求めた新たなカキコミをする予定です。
ところで今回、発売されたばかりの朝日新聞社による「週刊源氏物語絵巻」に藤原実方の肖像画が掲載されておりました。国立国会図書館蔵ということですので、この肖像画は相当に実物に近いものがあるのかな、と感じますが、ご存知の方には若干違和感を覚えるのではないかでしょうか。
画像が途中で切れております。正確ではありませんが、四年十二月三日とあります。おそらく長徳四年の頃かと思われます。ただし、同年十月に実方は現在の宮城県名取市笹島にて没しております。どうも四十代とおぼしき面影ですが、気品は明らかに漂わせているな、と感じます。
名取市発行の実方パンフレットより |
更に、沢山の先生方が解説をお書きになっておりまして、当方誠に勉強になっております。ただその割には、実方の解説がいささか、雑に過ぎないかと思います。編集部の方の解説なのでしょうけど。
実方贔屓としてはどうも、の記述です。都における青年貴公子の面影が強いものですから。
でも54部も残り2部となりました。
「権記」でございました。
前述の長徳四年のことでございます。藤原行成が十月二十二日の日記に「京官除目の儀があった。(略)今日の響宴は御修法(みしほ)の期間に当たるので、精進物を準備すべきである。ところが魚味を用いた。誤りである。」と。
中々にうるさいことを書いていますが、翌日二十三日には、「丑の刻に除目の儀が終わった。私は右大弁に転任した。(遠慮して書いていますが抜擢であり、若くしての昇進であります)〈左中弁の功労が三年。時に年二十七歳。年齢が未だ三十歳に及ばずに大弁に任じられたのは(略)。〉として二人の名前を挙げて身中の喜びを記しており、その後、奏慶を東宮、左府(道長)、新宰相殿と奏上しております。翌日は早朝から冷泉院、右府、東院(為尊親王室)、花山院、東三条院(詮子)を、また翌日も同様な行動を致します。二十九日には大弁として初めて結政(かたなしどころ)にて仕事をします。

長徳四年十月二十三日以後の行成が「頭弁」となったことは、彼の日記にて明らかです。ただ残念ながら、この段が書かれた日にちの特定は複数の見解が有り、はっきりとは致しません。でも長徳四年ということは、行成二十七歳、少納言三十三歳、中宮定子二十二歳、一条天皇十九歳の頃でございます。(ついでと言ってはなんですが、実方が陸奥国にて没した年でもあります。)つまり姉さん女房とも言える歳の差が行成との間にはありました。それ故に半ば相談相手としても、さらには親密なそれでいながら教養あふれる会話が弾んだ事と推測します。
そして早朝、行成云く「今日は、残り多かる心ちなむする。(言い残したことがたくさんあるような気がしますよ)夜を徹して、昔物語も聞こえて(申し上げて)、明かさむとせしを鶏の声にもよほされてなむ(催促されましてね)と、いみじう言多く書きたまへるは、いとめでたし。御返りに、『いと夜深くはべりける鶏の声は、孟嘗君のにや』と聞こえたれば、たちかえり、『孟嘗君の鶏は、函谷関をひらきて、三千の客、わずかに去れり』とあれども、これは逢坂の関なり、とあれば(清少納言が)
『夜を込めて鶏のそら音ははかるとも
世に逢坂の関はゆるさじ
心かしこき関守はべり』ときこゆ。また、たちかえり、
(行成)『逢坂は人超えやすき関なれば
鶏鳴かぬにもあけて待つとか』・・・」。
と、有名な和歌の問答の場面です。
その後、会話は続くのですが、行成に「かく、ものを思ひしりていふが、なほ、人には似ずとおぼゆる(そこまで物事を分別して仰るとはさすが、凡人とは違う)」とほめられて、「逆にお礼を申し上げたいくらいです。」と書いています。
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わかりづらいかも知れませんが、左隅の5と4をご注目。 |

ところで今回は少し長くなりました。歴女と呼ばれる方や、これらのことにお詳しい方には退屈な書き込みでしたでしょうか。
嗚呼、キリがありませんね。今回はここまで。
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