2014年7月29日火曜日

暑中お見舞い申し上げます。実方論入口です。

 先程、ご注文のお届けにて車に乗りましたが、ぎらぎらする太陽に照らされて、ハンドルが熱くて握れません。流石にこの時期、連日の猛暑が続いております。この歳になりましたら、昨日の疲れが抜けません。以前でしたら、一晩寝れば回復したものですが。

 このブログをお読みくださる皆様の体調が気になります。
 熱中症対策は勿論、万全なる体調管理にも怠りなく「今日無事」をお心掛けください。

 ところで、ここしばらくは近、現代ものばかりで「藤原実方」はどうなったの、と言われそうですね。気にはなっているのですが、どうも源氏物語や、清少納言に更には、開高、山口両先生に関し、随分と時間を割いてしまいました。

 所謂、平安時代物は書いてはいますが、実方像についてそろそろ書き出さねばなりませんですね。どうしてそこまで実方に感心があるかについてだけ、今回その理由の一端を書いておきます。
 

 当初は栃木の歌枕について、「伊吹山」や「さしも草」を調べ始めていく過程で、「藤原実方」に興味を持ちました。そしてネットで検索していくと沢山の方がいろいろと書いていらっしゃるのに気付きました。しかしその殆どが、実方の陸奥下向に関し左遷論を中心に展開しているのです。しかもワンパターンの。

 國學院大學栃木短期大學の図書館には驚くべき程の平安時代当時の蔵書、研究書がございました。誠に館長様のご好意で随分と詳しく調べ上げることが出来ました。

 その結果、これは私が実方贔屓というだけでなく、実方の陸奥下向は決して左遷ではない、という結論が導き出されたのです。その事実や詳細を明らかにすることが私の使命のように感じてしまいました。
 宮城県名取市に藤原実方の墓所がきちんと整備されて残されていますが、それでも名取市民の方でさえ実方に関しあまりよくご存じではないところも見受けました。まして、栃木市に於いて実方像をお考えになっている方がほとんど見当たりません。

 偉そうに思われそうですが、その辺が何とも気になって仕方なく、それ故それらのための伏線として、源氏物語や枕草子から迂回して入ってきたような次第です。名取市の実方に関するパンフレットには「光源氏のモデル」として登場してまいりますし、ネット上での時代お宅の方も随分とその様に描かれたりしております。しかし、残念ながらその事実はついに見つけられませんでした。勿論1千年以上前の事柄というか人物です。明確に実証するには時間が経過しすぎてしまいました。私が導き出した結論も、その殆どは傍証でしかありません。この事実とこの事実を合わせて光源氏のある時期のモデルと呼べるのかな、程度かもしれません。

 ただし陸奥への左遷説には明確に反論できると思います。
 それをこれから少しづつ書き込みして行こう、新たな実方論を展開しようという訳です。
 

 お暇な方はお付き合いください。

2014年7月28日月曜日

「寿屋のコピーライター 開高健」坪松博之 (その2)

 うんざりする猛暑日の続く日々ですが、私めにとりましては誠に快事とでもいえる嬉しい出来事がございました。表題に関してのブログの書き込みを、作者であられる坪松様がご覧になっておられました。
 礼状(いただけるほどの事をした積りはございませんでしたが)かたがた、二冊も坪松様が寄稿なさっているご本を頂戴しました。当然、開高健、山口瞳両先生に関するものでして、殆ど全作品を所持していたつもりですが、欠落しておりました垂涎の本でございます。

 前回も書きましたが坪松様はサントリークオータリーの編集に携わっておりました時期がございました。開高先生存命中は先生の、その後は山口先生の担当編集者としていつも行動を共になさっていた(幸せな方だなあ)方です。一冊は茅ヶ崎市美術館発行(2010年11月発刊)の「生誕80周年 開高健 いくつもの肖像  開高健とトリスな時代 ~人間らしくやりたいナ」という記念本です。表紙は開高先生の娘さん道子さまがお描きになった開高健像です。

 そして、昭和史にその名を残したサンアド時代のスタッフのスナップです。仕事半分の中での事かもしれませんが、角瓶のストレートを手にしています。
 隣のページからは同じく茅ヶ崎在住であった画家であり、大阪時代からの盟友でもある山崎隆雄さまとの合作の作品が続きます。14点もの作品が一度に発見され所蔵者の好意で公開されたものです。
 

 こちらの写真は1988年ロンドンにおけるCMロケからの一枚です。(嗚呼… 決まってますね。)

 



 2冊目は「小説新潮臨時増刊 山口瞳特集号」です。
 この表紙と、本文中における坪松様がお書きになったページの一部をご紹介させていただきました。
 この特集号のラストには「山口瞳『最後の日記』」からとして「どうやって死んでいったらいいのだろう」がございます。奥様治子様の日記も交え、坪松様がしばしば登場してまいります。
 先生の「私は病院の悪口は言わない」はともかくとして、ご臨終までの先生のまさに苦痛の連続は、鼻の奥がきな臭く、又、当方の胸がつぶれそうな思いがこみ上げてきます。


 それにしましても、このお二人にはあと十数年は最低でもご活躍をお願いしたかった、と、つくづく感じさせられます。

 私事ながら、このブログ上にて改めて、坪松様のご厚情に御礼申し上げます。

2014年7月18日金曜日

神吉拓郎

 何とも梅雨入り以降、気の持ち様が少々弛緩してしまいました。 
 書き込みの滞りお詫びします。


 昨日、直木賞と芥川賞作家の発表がございました。第151回になるそうですが、65歳になられる黒川博行さんの直木賞受賞は近年続いていた若手作家群を押しのけての受賞でして、快挙に近いものを感じます。早速、読ませていただきますか。


 ところで、この2週間ほど、第90回の直木賞受賞者の「神吉拓郎」様の作品を中心に読みふけっておりました。短編小説の名手として、又、食に関する叙述の素晴らしさを美食を堪能するが如く味合わせていただいておりました。
 情景の異なる連作短編集でありながら、各作品それぞれの趣向を凝らしたストーリーにスーッと入り込んでいけるその力量に感心します。
 直木賞受賞作「私生活」、「夢のつづき」、「ブラックバス」、「洋食セーヌ軒」・・・。キリがないですね。本棚から引っ張り出して一冊読み始めたら、止まらなくなってしまいました。

 それにしても、例えばある料理に関しての叙述には、今のテレビに登場する俳優さんたちのグルメ評のボキャブラリーの貧困を何とも苦々しく思い起こさせられます。
 開高健先生の食事に関する記述には、徹底した透徹の眼差しと、その語彙の沸騰に作家としての格闘的な、挑戦的ともいえる表現を感じ取ってしまいます。それはそれで大好きな一つの大きな要因でもあるのですが、神吉拓郎様には、短編ゆえにそぎ落としていながら、その味わいの奥深さを感じます。どちらかといえばあまり得手ではない牡蠣フライですが、「洋食セーヌ軒」の牡蠣フライは試してみたくなります。
 作中の話ですから現実には無理ですが。
 もっとも、当時実在するモデルのお店があったとしても30年近く前の小説ですし、神吉様は今から丁度20年前の6月28日に65歳にて早世しております。でもそのエッセンスとでもいえる文章の一部を以下に記して今回の書き込みは終わりです。


 『牡蠣フライは、揚げたてでもあり、揚げ具合も頃合いにできていた。
 かりっとした熱い衣の下から牡蠣の甘い汁がたっぷりとあふれ出てくる。それがレモンの香気や、刺激的なウースター・ソースの味と渾然として、口いっぱいにひろがる。思わず、目が細くなるようだ。
 それが十年前の味と同じなのかどうか、よく解らないが、確かに鎌田好みの牡蠣フライの味であった。ラードの匂いが高く香ばしい。金茶色の、少し濃すぎる位の揚げ色はもう数秒で揚げすぎという位のきわどい手前で、上々の仕上がりになっている。それでいて、なかの牡蠣の粒は、まだ生命を残して、磯の香をいっぱいに湛えている。
 うまいな、と、鎌田は、心の中で呟き続ける。
 次々と牡蠣フライが、のどを過ぎ、胸を下りて行く。胃のあたりがすっかり温もって、まるで春の日差しを浴びているような気がする。』
 作中の主人公、鎌田が10年ぶりに思い出して食べに行った洋食屋の牡蠣フライの場面です。

 又、少しづつ書き始めます。