2011年7月29日金曜日

「柏木」 源氏物語より

夕立や時に雷を交える日が、もう何日も続いています。
昨日、今日と随分と長雨が、その割りに晴れ間も有ったりして、なんともすっきりしない日々が続いています。いささか涼しいのはよいのですが、逆に夏風邪を引いてしまいました。遠因がありまして、水曜の定休日に、我が家の庭のちょっと大き目の水木に毛虫が発生し、鋸で主な枝を切り落としました。随分とすっきりはしたのですが、その枝を更に細分化し、一斗缶の空き缶で燃やしました。丁度晴れてもいて、始まると徹底的に綺麗に燃やし尽くす性質でして、かなりの
大汗をかきました。
途中でめまいがし、急いで水分を補給したりしたのですが、歳ですか、いささか疲れが残って
しまいました。朝のうちだけ仕事を何とかこなし、自宅のベッドで休養を取りました。漸く今現在は何とか治まってきたようです。時々目覚めては活字を拾っていたのですが、そこで読みかけだった、「王朝貴族物語」山口博著を又、眠れるようにと開いていたのですが(失礼)、源氏物語の時代を、貴族たちの日常を、色々と教えて下さいました。その中で「柏木」の極めていけない恋というか、行為をなんとも深くは気付いていなっかた自分を知りました。まだまだ勉強せねばと。

「柏木」はこともあろうに光源氏の「女三宮」に恋焦がれてしまいます。光源氏四十歳(今で言うなら還暦に近いと言えます)、三宮十四、五歳の頃のことです。随分とおおらかな時代であり、幾多の姦通、淫行、近親相姦が許容された時代と認識していましたが(話の途中ですが、だから君はその時代がうらやましくて調べていたのだな、とは、いささか考えすぎです、コホン)、手を出してはいけない相手もあるのです。在原業平の高子との姦淫も同じです。ところで、随分と君は暇なんだねといわれそうですが、この本の中から、「柏木」の段の締め括り方が気に入りましたので、一部をご紹介します。
少し長くなりますが、興味の無い方は見過ごしして下さって結構です。

「『源氏物語絵巻』の柏木巻の絵は、瀕死の床にある柏木と彼を見舞う夕霧を描く。
山水を描いた美しい大和絵の屏風と襖、控える女房の色とりどりの衣装、全体が実に
色鮮やかであるのだが、そのことが一層柏木の死を哀れにしている。
華麗な生活を送りながら、不倫によって崩れさる男、まさにセックスの暴力に振り回された
男の生涯であった。
柏木は権大納言という高官であり、父は先の太政大臣。柏木が将来大臣になることは確実に
約束されている。生きがいの一つの、官位の点では人もうらやむ絶頂を極めえるはずである。
だが作者は、女という面で柏木を崩壊させた。
繁栄の陰の苦悩と崩壊、そこに物語の面白さがあるのだ。喜びの中の悲しみを、安らかさの
なかの悩みを、透明さの中の生臭さを、純愛の中の不倫を、信頼のなかの裏切りを、繁栄の
中の崩壊を、血と汗とスペルマの臭い、それらを「源氏物語」は描く。現代の読者を満足させて
くれるのは、その点である。柏木の危険な情事に、読者は思わずため息をつくのである。」

さて、中途半端が一番いけません。雨のち、曇りのち、晴のち、雷雨なんて日が続いては、商売に影響無しとは参りません。大道で、あの寅さんのようにお天気に左右されそうもない和菓子屋ですが、そうでもなくて、結構、客数に現れます。勿論、大雨ではいけません。今日も店の前を通過する車の数はいつもより明らかに少ないのです。やむを得ませんか。それにしても雨足が又、強くなってまいりました。今日はこれにてお店も閉店と致します。自転車通勤も休みます。
 


2011年7月25日月曜日

「『みんな直人が悪いのか』 風知草」

 このコーナーは、私の好きなことを、考えていることを自由にカキコミしてよいコーナーだと解釈しています。そこで、前回に続いてやや政治向きのというかマスコミについてカキコミをします。
 私は自宅と職場、合わせて新聞を三社購読しています。
 お店では「毎日新聞」を30年近く購読してきましたが、今回ほどあきれたというか驚かされた「コラム」を拝見したのは始めてです。
 「毎日新聞」の2ページ目、最上段に毎週土曜日は「近聞遠見」として岩見隆夫氏が、月曜日には「風知草」のタイトルで山田孝男氏が其々に主に政治向きのことを執筆しています。
 7月23日付、岩見氏のコラムのタイトルは「『管嫌い』では、と言われて」でした。
誰某がよっぽど菅さんとは相性が悪いのでは・・・と言われて反論の形をとってはいるのですが、
結局は管批判を堂々と開陳しています。管総理さえ辞めれば全てが解決する風な論調でした。
 二日後の7月25日付の山田氏のコラムでは、「ベトナム原発」問題を論点の中心におき、原発リスクについて書いていました。ベトナムから2基の原発を受注したそのトップセールスをしたのは、管総理であるが、曰く、自民党の議員がこの点を追求し、現在の総理の考え方との論点整理を要求していたが、それでは、「自民党はどうすべきかについて自身の意見を述べていない」。リスクについて大政党は一言も触れず、共産党と社民党だけが取り上げている。
 「経済技術大国=輸出立国主義」路線の調和は歴史的な課題である。として、「もしも野田首相や、仙石首相や、谷垣首相であれば、この問題に対して明快な説明がなされるというのか。そうはいくまい。首相の顔を代えれば答えが出る問題ではない、と。 「原発災害は、テストできないので発生の確率が読めず、最悪の規模も損害も見当がつかないからだ。被害は空間的、社会的のみならず、子孫の遺伝子を傷つけて時間的にもひろがる」。「原発推進派は『安全性を高めればいい』と言うが、そもそも何を基準とし、何をもって安全と見るのか。
 使用済み燃料の処分、展望なき核燃料サイクルをどうするか。
 管首相はもう少しで辞めると思うから、野党は本論より揺さぶりに精を出す。
 管より原発リスクを論じてもらいたい(途中、各所で略してます)」。

 関東地方を含めた、そして何よりの被害者の東北地方の方々。
 この世に絶対はないのです。有るのは生死だけは間違いなくありますが、安心安全に100%はないのです。正直に書きますと、かのこ庵は「地産地消の推進店」として認定されていますが、栃木県産の小麦粉を使用しています。栃木県では、県として「栃木フードバレー構想」として、各種の食材のアピールをしていますが、牛肉の次は何が出るかいな?という不安の日々です。

 そんな大変な思いをし、実社会においても苦労しているこの時に、岩見のおっさん、少しボケが
はいったんとちゃうか、と、突っ込みたくなります。もっと書かねばならないことがあるでしょう。自己弁護にあれだけのスペースを提供するマスコミ、特に毎日新聞さん。反省して下さい。前回に続けて同じ事を書きます。菅さんが好きとか嫌いとかでは無く、議員さん達が、評論家と言われる方達が、今すべきことを直ちに実行して下さい。将来が見えないまま、読めないまま、大変な借金を抱えたままのこの国の舵取り役は、誰がやっても誠に大変なことだと思います。
 国会議員定数削減、脱原発、増税、しっかり議論して速やかに実行して下さい。お願いします。(お断りしておきますが、私はいわゆる無党派と呼ばれる立場の人間にて、どの政党とかは無関係です)
                                
                             水田の生育は順調なのですが・・・。
用水路の水の流れは冷たく澄明です。 

店の前は、花盛りです。
お店の駐車場に咲いた花と、いま少しでいっせいに咲き出しそうな百合です
前回、画像がゼロでしたので、今回はちょっと多めに、です。

2011年7月23日土曜日

「遂に行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」 

 又しても中途半端な知識の披露で恥ずかしいのですが、以前に少しだけ書いた「在原業平」の
話です。『伊勢物語』を残し、プレーボーイとして浮名を残し、歌人としても高名な彼の辞世の和歌なのですが、法事の際の御住職による説教に、あの時は、フムフムとうなずいていました。が、
この世に生を受けて、当時としては止むを得ない年齢といえるかもしれませんが、彼は五十六歳にて亡くなりました。人間、いずれは黄泉の国に旅立つものなんだよ、というそんなに難しくない
というか、分かりやすい和歌だと思っていました。確か御住職は「もう、色恋なんて関係なく、この
世を去る日が眼前に来てしまった」風な解釈をなさっていました。決して間違いではないのですが
もう少し和歌の本意は違うところに有ったのでは、と、思います。
 彼の最終官位は従四位上右近衛権中将兼美濃権守で、蔵人頭を兼ねていました。
 近衛中将と蔵人頭を兼ねた人は頭中将(とうのちゅうじょう)と呼ばれます。「源氏物語」に登場
する光源氏の親友も、頭中将としていわゆる軟派好きな人物として登場してきますが、「公達」と
呼称される高位に当たります。参議の一つ手前の位でした。若い時に流した浮名によって、陸奥下向等もあり、官位が上がり始めたのは、彼が五十歳代になってからでした。遠の昔に色恋は殆ど関係なくなってからの事になります。何故、出世が出来たかは、若いときにしてはいけない相手としての藤原高子が、皇后の立場になっていたからというのが真相のようです。
 しかし、あと少し生きながらえていれば、現在で言うところの閣僚という立場に立てたということ
です。
 業平没後、一年半後に彼の後輩が、参議になっています。 そこが見えていたのに病没して
いく己の嘆きを、主体として詠んだといえます。悔しかったんだろうと思います。
 今も昔も、律令制度の世も、民主主義の世も、己の地位は常に高きを望んで立ち回った事が、
特に、昨今の政治を見ているとより鮮明に感じられます。

 「酔眼日記」という場で何が言いたいか。極力政治向きのことは、商売には差し障りも多いので
避けるはずでしたが、栃木県産の牛肉についに放射能の影響が報じられました。だからというわけではないのですが、政治家さんは勿論、評論家も含めて、俺が、俺が、というのが余りにも目に付きます。菅さんの方向性に余り間違いはないと私は思っています。脱原発、増税、もう一時も余裕はないはずです。菅さんを支持するしないに関わらず、国民の半数以上の方が止むを得ない
ことと覚悟を決めているのに、何故、国会は一つにまとまらないのか不思議です。民主党政権を
選んだのはわれわれ国民です。とりあえず後継候補がはっきりしない現状では、民主党を中心に、一時も早い対応を心から願い、前に進めなければと痛感します。

 いずれは身を引きます。あの世に行きます。ならば、生ある今、働ける人は働きましょうよ。
 悔いが残らないように。

 今回、写真は無しです。

2011年7月19日火曜日

「青竹筒水ようかん」お蔭様で好評です。

 このブログをご覧くださって、ご来店下さり「青竹筒入り水ようかん」をご購入のお客様が、少なからずいらっしゃることを、この場にて先ずは御礼申し上げます。
 お蔭様で猛暑の影響も有り、お饅頭や通常の商品が苦戦を強いられている中で、この夏に、
これだけ販売しようと想定して準備した竹の本数でしたが、7月の中旬で売り切れとなってしまいました。
 まだ多分、この暑さはあと残り2ヶ月は続くと思われます。急遽、追加発注致しました。業者というか、竹筒を切り出す方はかなり迷惑そうでしたが・・・。何しろこの暑さと、藪蚊の中での作業となりますから。 私には出来ない作業です。
 お一人で10本、15本とお買いの方が多く有り難い事でした。
 ただし、1回の発注でかなりの本数が入荷します。50本100本での発注とはいきません。
 毎日、仕込んで行きますので皆様の一層のお買い上げをご期待申し上げます。実は、この青竹の色を保持するためには、この竹が食用では無いにも関わらず、冷凍保存しなければならないのです。かのこ庵のそんなに大きくもない冷凍庫のかなりのスペースが、この竹筒で狭くなってしまいました。何事も、皆様が思う以上に眼に見えないところでそれなりの苦労があるという、内輪話でございます。
 
 しかし、前回書きましたが、放射能を浴びた稲藁を食べさせた食用牛が、かなりの範囲で出荷されています。1ヶ月前の生の牛肉の問題と違い、この事態は深刻です。
 昨日は市内の牛丼店で、お昼を済ませてきました。祭日ということもあり、子供連れのお客もおりまして、それなりに客数はまずまずと感じましたが、今朝の新聞では、焼肉店に影響が出てきていると報道されていました。
 他人事では有りません。いつ我が店に似たような話が飛び込むか、なんともやりきれない雰囲気を感じてしまいます。どなたが、その時に損失をカバーしてくれるというのでしょうか。
 極論ですが、多少の不便は我慢しても「脱原発」は進めるべきでしょう。今現在、沢山の方が、
そして、これからも更に当然の如く被害者(表には現れない方を含めて)は増えるでしょう。更に極論ですが、今迄の原子力政策を推し進めてきた方々、そして、何よりも東京電力の高給を取ってきた過去に遡っての役員は江戸時代でしたら「全員、獄門の上、磔」の極刑に値するとは言いすぎでしょうか。

 「なでしこジャパン」。心から感動させてくれました。実は、私個人は大のラグビーフアンでして
およそ日本男子のサッカー選手の顔も名前も知りません。しかし彼女たちの「あきらめない」には
鼻の奥がきな臭くなるのを禁じえませんでした。本当に良くぞやってくれました。

 話題が飛びます。
 超大型の台風が四国沖に来ています。今現在の栃木市は、早朝から激しい雷雨が続いています。たまたま、かのこ庵は連休に入っていまして、木曜日には通常どうりに開店します。が、早く何事もなく、通り過ぎて欲しいと願っています。そして何処の地にも被害が出ません事を願います。

 ほぼ一ヶ月前から、朝晩の通勤、ちょっとしたお届けや外出には自転車を利用しています。
 流石に、今日のこの天候では無理ですが、朝の内の涼しい中での出勤は、途中に我が両親の
菩提寺もあり、黙礼して通過するのに何となく気持ちの落ち着きを感じさせられます。いささか(
自分ではそう認識していますが)せりだしたウエストのためにも、と。

 以前にご紹介した、
たまにしか行けませんが
自治医大近くの
フレンチレストラン
「ルポザンド」店内です。
小さめなお店と、
静かなクラッシックの流れる
その雰囲気が
気に入っています。
リーズナブルなランチには
ご予約を、と
申し上げておきます。
この日は早めの時間帯故か
より一層静かでしたが。

2011年7月17日日曜日

怒る。疑う。嘆く。憂う。嘲る。嗤う。騒ぐ。鬱屈する。・・・・

 この書き出しで、作者が誰かお気づきの方は、少なくないと思います。
 一日の中で、このところ、私も表題のような繰り返しを続けています。私は、関係ないか。

  「爽やかなジンとビールの香りがひきしまった縞をつくって漂っている。顔なじみのボーイに、
   わざわざ、唇が切れるくらいシャープな、と註をつけてドライ・マーティ二のオン・ザ・ロックを
   たのむ」
 
 「珠玉」の一節です。
 
 どうも「世事悠々」とは正反対の日々が続いています。
 馴染みの店にも随分とご無沙汰しています。
 「一日が過ぎれば一日が減っていく君との時間・・・」。
 私の場合は「一日が過ぎれば一日分赤字が増えていく心の鬱屈」となりますか。

 連日の猛暑で、午後は静かなもんです。
 節電には極力協力したいのですが、クーラー人生、何十年になりますか?
 勿論、設定温度や扇風機の使用などは行っていますが、この東日本の現状では、何となく
控え目モード(ムードではなく)になりますよねー。西日本ではどうなのでしょうか。少なくとも、
焼肉やさんでは影響無しとはいえないでしょう。一体、こんな日本に何故なってしまったので
しょうか? 焼肉やさんに限らず、風評被害は実はその裾野というか、その広がりは、とても
広いものがあります。今の政治屋さん達には想像すらつかないでしょう。それにしても、その
マイナスを、誰かが保障してくれるのでしょうか。無理ですよねー。

 昨晩はやや赤みを帯びた、多分、満月の光が、暗くした自室の奥までを照らしていました。
 酔眼の状態で、遣る瀬無い、やり場の無い雰囲気をストレートのウイスキーで飲み込んで
いましたけど、身体に良いわけないですよね。

今回、写真の解説は致しません。  
 











 
  

2011年7月14日木曜日

「白玉や 人づきあいを 又嘆き」 中村汀女

 毎度、中村汀女様の作品を拝借してます。
 合併前のもっと以前の旧栃木市内は、7月がお盆でして、ちょっと忙しい日々です。
 更に、お線香を上げに行かねばならないところもあり、あわただしさが募ります。
 どうして、白玉なのかよく分かりませんが、実によく同感させられる季節です。
 しかし、節電の夏にして、猛暑の夏がもう随分と続いています。
 白玉ぜんざいを作る予定でしたが、今年はパスさせてもらいました。
 それにしても、これは個人の好みの問題ですが、この季節の例えば夏祭りとか、
人が沢山集まる場所に出て行くのが昔から苦手でして、つまり、汗をかいた腕と、
腕が触れ合うのがいけません。夏の人ごみは大好きな女性とならともかく(おりませんが)
今年で言うなら、我が家で少し薄めのハイボールを「くーー」と言いつつやるのが、目下の
楽しみです。でも、おやっと思わせられる人からのお誘いが、あるいは、以心伝心するならば
出かけることはやぶさかではありません。ひらりと現れるのをひたすら待ちましょう。
 
 向田邦子さんについて少し書きます。
 まさに才女でしたがあっという間にお亡くなりになりました。
   杉浦直樹さんが彼女への追悼文の中で
   「私の好きな男のやさしさは、あまりかっこよくない
   不器用な、少々こっけいなやさしさです」。と、彼女が話していた事を書いていました。
   「『男のやさしさ』を知っていた」との短文です。
   山口瞳先生は、彼女の才能をいち早く見い出し、直木賞受賞に力添えしたことは有名な話
  です。その山口先生が、向田邦子さんの告別式で弔辞を読み上げています。
   「(略)
    向田邦子さん。
    あなたは、自分にとって最大のお祭りであるのに本人が参加していない、それがお葬式
   ですと言っていましたね。しかし、私には、あなたが、いま、ここにいるような気がしてなら
   ないのです。
    向田邦子さん。
    あなたは茶目っ気のある、好奇心の強い方でしたから、ご自分のお葬式に誰が来てい
   るかを知りたいでしょう。(略)みんな来ていますよ。あなたが愛していた方々は、みんな
   来ていますよ。また、あなたのことを愛していた人たちもみんな来ていますよ。(略)」
 1980年7月17日に向田邦子さんは直木賞を受賞しています。
 あれから、31年も経ちます。その翌年8月22日、取材中の台湾での飛行機事故で亡くなり
 ます。51歳でした。 
  山口先生や向田邦子さんから「男の美学」について、間接的に随分とご指導頂きました。
  と、いっても私が「男の美学」を何処まで分かっているかは自分では分かりませんが。

 梅雨入りも早かったですが、梅雨明けも早く来ました。そして節電の夏に、猛暑が続いてい
ます。せめて、涼しさも早く訪れてくれることを、今夏は特に強く思います。心にやさしい、爽や
かな風が吹いてくれますようにと。
 ところが、数日前の雷雨の写真です。もう少しでかのこ庵の作業場が床下浸水になるところ
でした。日本も地球も少しおかしくなっているのを実感します。ゲリラ豪雨の後の雲の切れ間に
のぞいた、上弦のお月様の写真も併せましてご覧ください。 

2011年7月8日金曜日

「人間は何にでも慣れられる。」

 ロシアのというよりも世界的な作家、ドストエフスキーの言葉だとされています。
 「人間は何にでも慣れられる。それが恐ろしいのだ。そしてそれが人間の特徴なんだ。」と。
 3-11以来、被災された方たちは、この蒸し暑さの中、例えば避難所暮らしに慣れたでしょうか。
 一向に先の見えない、つまり、何時まで我慢すれば状況が変わるのか。そこが見えてこない中
での生活は、まさに悲惨の一言だと思います。何も手助けできない私の現実は、ただただ一日も
早い復興を祈るばかりです。ともかく、厳しい季節になってしまいました。体調の管理にくれぐれも
ご配慮下さい、と申し上げておきます。

 何処の商店、スーパーマーケットに行っても、「節電」ということで天井の照明は3割程度、消灯
されています。かのこ庵も同様ですが、別に不自由なく買い物は出来ます。今までが余りにも、
電力を当然の如く使いすぎていたのです。こういう事にはもっともっと慣れなければと感じます。
 
 ところで、相変わらず生半可な知識のカキコミですが、ドストエフスキーが流浪の旅に出たことは有名です。同じロシアの文豪、トルストイも漂白の旅にでて、そのまま帰らぬ人となっています。
 旧聞になりますが、昨年の十一月はトルストイが亡くなって丁度100年目でした。奥さんとの不仲による、82歳の偉大な作家の家出が漂白の原因です。82年の生涯の終焉の地は、名もないというか名前はちゃんとあるのでしょうが、ちっちゃな駅舎のベンチで眠るように死んでいたそうです。だから偉いというつもりはありませんが、結構、最近各種の家庭内の悩みも含めて諸問題を抱えている我が身としては、旅に出るゆとりの無さに、正直、愕然とし、いささか落ち込み中という日々です。
 実は、六月中に旅に出るべく、十分にして綿密なスケジュールまで作成してはいたのです。予定では夜行バスにて先ずは大阪の中央市場から北部市場、そして京都で菓子屋めぐり、最後に、昔大変お世話になった名古屋の京極食品さんの会長さんと昔話を・・・。てな具合で。
  
 ドストエフスキーの没年は1881年、トルストイ1910年。話はもうちょっと変化して、遡ります。
 「月日は百台の過客にして、行き交う年も亦旅人なり」。ご存知、松尾芭蕉「奥の細道」の書き出しです。「松島の月、先ず心に掛かりて・・・」。(月日は旅人である。人生も旅人である。いにしえの人も沢山旅に出でて、旅の中で死んでいった。私も物に憑かれたように旅に出たくてどうしようもなくなってきた。松島の月が脳裏に浮かんできてしまう・・・)。1689年3月に陸奥に旅立ちます。旅先で死んでも、それはそれで本望だ、と。1694年大阪への旅路で亡くなります。
 更に遡って、意味合いはそれぞれ違いますが、藤原実方も、在原業平も陸奥に旅立っていますが、この辺りの所は徐々にカキコミしていきます。
 
 しかしどうも、いい歳になっているのに思うようにならない己が情けないったらありゃーしない。と
しみじみ思う、どんよりした梅雨空の昨今です。
 得意のボヤキが、本日は絶好調です。

 もう一つボヤキです。
 昨日から、ショウケースの上の冷たくしてお召し上がりいただく商品群を、竹のすだれをしきまして、店の業務用の冷凍庫で作った透き通った氷を、アイスピックで砕き敷き詰め陳列しています。今、更に、検討中ですが、どうも結構な努力の割りに、お客様の反応が感じられないのです。もっと、涼感あふれる演出が必要なんでしょう。アピールの方法を研究します。
 
 上生菓子の「緑陰」、少し手直ししました。「さしも草」を茹でてみました。又、四葉のイメージに修正です。その日によって少しづつ変化していくのも、ちっちゃなお店の利点ですね。
                          店内ポップ用に「伊吹山」写真撮りしました。

2011年7月3日日曜日

「もうすぐ夏至だ」 その後

永田和宏教授の「もうすぐ夏至だ」からは、何かと考えせられることの多い書籍となりました。
私より二つほどお若いのに、ご自分では「ノンポリの学生時代」と書いていらっしゃいますが、
あの時代に、あの当時の世情に無関心でいることは、現在では考えられないほどに騒々しく、
従って、無関心ではいられなかったと思います。ですが、いままでの自分を置き換えて考えて
みても、表現はちがっても、結果として私も概ねノンポリの人生だったといえるかも知れません。
一時の熱病みたいな学生運動だったと振り返ると、そうなります。本当は、今日のこの日本の
現実に、政治に半ば怒りをもって考え、行動しなければいけないのでしょうが。
世代に関係なく、無関心ではいられないことが、この日本では進行中だと思えるいうことです。
六月二十二日が夏至でした。今年は例年よりほぼ半月も早く梅雨入りとなり、その割りには、
38度を超える猛暑の日も何度も有り、そして今日も今は晴れてはいますが、湿度の高い、重い
空気の中を彷徨している気分の日々です。だからというわけか、実はこの一週間体調不良にて
何をする気ににもなれず、仕事には毎日来ていましたが自分の仕事が終わると、ただただ己の
机で臥せっていたというのが現状です。歳ですか、急な暑さと諸問題を抱え込み、少し風邪気味
にもなり、今朝は頑張って早起きをし(通常でも早いのですが)江口内科で点滴をしてもらいました。
今現在はいささか楽になり、こうしてパソコンをいじっていますが。

教授は「こんなことさえわかっていないのだと気づかせるのが、本当の意味での大学における
教育であろうと、私は考えている。
しかし『わからないこと』をわかってもらうためには、どこまでわかっているかをしって
おいてもらう必要がある。極言すれば、知識はそのためにだけ必要なのである。(略)
『こんなことさえわかっていない』ということを・・・」
大学に入学するにしても、社会人になるにしても、その立場に必要というか、知っていて当然と
思うことがらを、あまりにも「知らないままに」その立場にいる、あるいは労働としての対価としての給与を当然のごとく受け取っている若い人のなんと多いことか。勿論これを指導せねばならないのは、上に立つものの責務ではありますが、それにしても、とも思い悩むのです。
『何がわかっていないのか』を教えたい」とあります。
成績抜群の生徒たちを前にしてさえ教授が思う事柄ですから、一介の菓子屋にはここだけの
話になりそうです。

ところで、歳だと書きましたが、我が家も歳のようでありまして、キッチンが壊れガス周りを取り替えたばかりなのに、三日前に、今度はお風呂のボイラーが、駄目という次第で、これだけで三十万円弱との事。又、寝込みたくなってまいりました。この陽気という事もあり、決して順調な商いをしているとはいえません。
重き荷を背負いて、まだまだ、先の見えない道を、まだまだ下り坂にならない道を歩いています。
とぼとぼ、よろよろと。 
 この前の休日に、特段に何かを求めてという訳ではなかったのですが、惣社町の「大神神社(
おおみわじんじゃ)」、「下野国庁舎資料館」、「下野風土記の丘資料館」等を 覗いてきました。
「大神神社」では「茅の輪」が丁度、六月中だけということで大鳥居に掛けられており、「茅の輪く
ぐり」をし、参拝いたしてきました。今のところ、よからぬことばかりの日々でして、期待する方が
いけないのは承知の上ながら、ちょっとは愚痴の一つも、とは・・・。ウーム。
下野国庁舎跡地前は遠めには整備されていたかのように見えたのですが、・・・。ウーム。

本日、店の前の、何とも、遅咲きの紫陽花です。ウーム。