2012年7月30日月曜日

『ポ・ト・フをもう一度』 開高健

 早速ではございますが・・・。
 
 私が敬愛し、私淑した直木賞作家、故「山口瞳」先生の文学碑が、先生がこよなく愛された国立市の谷保天満宮にございます。石彫家「関敏」先生の作になりますが、裏面に私の名前も刻まれております(恥ずかしながら)。
 その山口先生が寿屋(現在のサントリー)の宣伝部に入社するときに面接、対応なさったのが、あの芥川賞作家、故「開高健」先生です。
 野球が好きで上手でした山口先生が、野球のチームを社内に作り監督をなさったことは、お好きな方なら有名な話です。名づけて「東京トリス軍」と申しました。そのことが昨日書込みいたしました開高先生の最新作『ポ・ト・フをもう一度』にショートエッセーにて登場してきます。
 嬉しくて、ここに採録いたします。

 「ボクの最良のメイ試合
一、プロ野球には全く興味ありません。球団の名も選手の     
   名もほとんど知りません。
二、『ああ堂々の東京トリス軍』が岩波書店の精鋭と石神 
   井の毎日グランドでヤッたとき、その輝かしい午後に
   小生はみごとな二塁打をとばしました。
   この一打によって小生は味方の絶望とテキの憫笑を 
   一蹴したのですが、三塁からホームに帰るとき転倒
   し、正確に百八十度回転しました。ルールがよくわか
   らないものだから、その無知につけこまれたのです。
   悲劇的な封殺でした。その壮烈さは戦艦シュペー号の 
   自沈に似ていると、その後永く噂されています。
三、『ああ堂々の東京トリス軍』の名誉選手。一塁手。ユニ
   フォームと薬箱を持っています。
   スパイクもあるのです。
   背番号は1番(開口一番のシャレです)。
   名誉選手ですから相手が強豪のときにだけタノまれて
   出場します。」
 昭和38年「文芸春秋漫画読本」のアンケートに答えてのお話でございます。

 「石についての寸感」という作品の一部には、先生ならばという表現が出てまいります。以下、抜粋です。
 『そして外界に挑むことに挫折すると、すぐさま庭の黒土に眼をやり、調和をはかる。その予定調和の感性の美学のなかでは、時間ははじめもなく、終わりもなく、茫漠と流れ、拡散するばかりである。・・・』
 この抜書きでは意味が分からないかもしれませんが、その雰囲気を感じていただきたく、ご紹介しました。実に素晴らしい表現力とユーモアに頭が下がります。もう少し。
 『いま、人間は精神のダイエットを
  忘れているんじゃないですか。でも精神のぜい肉が
  ふえる一方で、実は本物を求める要求は
  強くなっているような気がする。そして、ものみな
  過剰生産の時代に読者をダイエットさせるのが、
  文学ではありますまいか。』

 如何ですか、1989年に没しております。が、今でもその慧眼に新たな驚きを禁じえません(月並みな表現ですね)。下の写真は腰巻の裏面です。書籍には、表紙の概ね3分の1程度に記載内容を紹介した、帯が掛けられております。これを、腰巻と、業界用語でもなくなりましたが、呼びます。「腰巻大賞」なる賞まであります。その次の写真は、当時の寿屋宣伝部、一世を風靡した「洋酒天国」その「アンソロジー」を発刊してのお祝いでのスナップです。柳原良平先生もご一緒です。新聞に掲載されましたものの切抜きです。
 
 

2012年7月29日日曜日

盛夏の中、売れてる商品をご紹介します。

 いささか、本業を忘れ「平安物」に埋没しておりました。
 反省してます。趣味の話はまた、近いうちに、です。
 ただし、自分なりに色々と調べていきますと、沢山の方が、熱心にご研究なさっていることを知りました。そして己の浅学を自覚させられました。半分は推測の域を出ない事柄でも、周りの、その他の記録等をつき合わせていくと、結局、答えは左程遠からずの結論が出ているようでして、私が如何にも理解しているかのように書いていたこと。その、恥ずかしさを感じてしまいます。ですから、歴史上の事実はそれとして、結局自分として、何が言いたいのか、自分にとっての新たな発見や驚きは何だったのかを中心に、次からはカキコミさせていただくことと致します。

 暑さ真っ盛りの中、水分を補給するだけではなく、体力も落ちているはずです。塩分も必要ですが、さっぱりとして喉ごしの良い和菓子はこの時期、必須であると申し上げておきます。そこで今回は、かのこ庵でこの時期、一番のお勧めというか売れております商品をご紹介いたします。
 何よりも先ずは、「青竹筒入り水ようかん」、そして「あん豆腐」でございます。「あん豆腐」は一年中売れるようになりましたが、漸く商品のよさがご理解されて来ていると実感します。
つまり、もともと水ようかんも糖度は低いのですが、更に糖度を、つまり、かのこ庵で一番、糖度の低い商品といえます。葛粉と寒天がメインにして、皮むきこしあんを使用した喉ごし満点、さっぱり涼感がお楽しみいただける美容食ともいえます。
 

 「青竹筒」も涼感たっぷりですが、
店内正面に、本物の氷を敷き詰めた上に鎮座しております「水ようかん」と「青柚子あん入り・くず桜」も好評です。ビニールの桜の葉っぱが普通は使われておりますが、かのこ庵では全て本物、つまり生の桜の葉を使用しております。ただし、生の桜の葉に害はありませんし食べられますが、美味しくはありません。よく分かっていない調理人が「あじさいの葉」を利用したりしていました。あれはいけません。人間にとって毒を含んだ葉っぱでございます。ご承知の程。
 残念ながら、関西からの仕入れ商品となりますが、実に可愛くて、綺麗な「極上ようかん」と、お安くは決してないのですが、とても売れております商品で「しあわせトマト」というトマトゼリーが実に好評でございます。

 「ヨーグルトゼリー」や果実がたっぷり入った「この時期のご進物」もお悩みになるほど取り揃えてございます。ご進物は次回にご紹介申し上げます。
 
 お盆でのご利用に最適ではと、次回でございます。
話題は一寸変わりますが、本年8月1日初版との表示がございます「開高健『ポ・ト・フをもう一度』」が手元に届きました。単行本初収録という次第でございまして、暫くは至福の時間がいただけそうでございます。

2012年7月26日木曜日

「源氏物語の時代」 (3)

 少し涼しかった一週間前が、懐かしい遠い日の出来事であったような気がします。
 昨日は定休日でしたが、起き出して来ますと、既に小6の孫プラス2人の友達が待っておりまして、殆ど強引にプールへと出かけさせられました。しかし何はしなくとも、流れるプールというのは、ただ身をゆだねたままのようでいて、これが結構、疲れが残りますね。

 藤原定子の続きでございます。
 それにしても、本日の「天声人語」には、源氏物語の夕顔が引用されておりました。「心あてに それかとぞ見る 白露の 光添えたる 夕顔の花」(もしかして、その方ではないかしら、とお見受けいたします、置く白露にいっそう光を添えた夕顔の花、夕ぐれのそのお顔はもしや光源氏様では)。「寄りてこそ それかとも見め たそがれに ほのぼの見つる 花の夕顔」(もっと近くによってこそ、誰なのか確かめられるでしょう、「誰そ彼」という、誰とも見分け辛い夕ぐれに、ほのかに見た花の夕顔を・・・」。
 儚くも激しく燃えて、光源氏の用意した二人だけの隠れ家で悲劇は起こります。六条御息所の怨霊により、夕顔は朝には冷たい身となってしまいます。掲載させていただきました絵巻は、室町時代の土佐光信筆による「夕顔」の場面でございます。

 花山天皇(当時)に於ける「忯子」、激しく愛され最初に妊娠したキサキですが、その愛の激しさゆえに息を引き取ります。その時の花山天皇は一途でありすぎました。これが花山院としての出家の理由の一つともされる訳ですが、以前にカキコミした如く、いささか奇矯な振る舞いもあり、その一方で仏道への帰依も半端ではなく、熊野参詣を始めとして、西国三十三箇所霊場めぐりの礎を作っています。しかしその一方で風流を旨とし、詩歌の世界でも、また、恋の道でも沢山の浮名を流します。
 ところで、ネット上に花山院についてのカキコミが結構多く見受けすることが出来ます。その一部に「平安時代の好色一代男」とのブログのカキコミがあります。どうも一方的な決め付けではと感じます。ご落胤を含め、その血脈を残すことは当時の皇族や貴族にとっても、いわば一つの仕事(?)でもあった、とは、私個人の意見では有りません。多くの先生方が書き残しています。何人もの女御を孕ませた先人も、後の世でも、その名は数え切れないはずです。
 それも淫行はあり、不倫、近親相姦あり、男色ありの世界が現在よりは堂々と行われてきた、ということでしょうか。
花山院だけが、好色とはいささか抵抗があります。
 定子の話の前書きが長くなりました。
 といいつつ、まだ花山院の話が必要なのです。実は「花山院暗殺未遂事件」が起こります。
 藤原実資の日記「小右記」には、長徳二年(996)正月十六日、「花山法王・内大臣伊周・中納言隆家が故一条太政大臣の家の前で出くわし、乱闘事件発生、法王側の童子二人が殺害され、首を持ち去られた・・・」とあります。
 何故ここでこの話が必要かは、藤原伊周が現場にいたことにより、回りまわって定子にも大きな影響というか悪しき方への出発点にもなるから、と書いておきます。

 この事件の発端は、女性をめぐる勘違いが起こした事にて、さほどの問題になることではなかったのですが、伊周がいけません。本来なら、道長と争ったとして、摂関家長男筋の正統性の有る、そして現、一条天皇との繋がりや、懇篤な間柄(漢詩を介しての仲の良さなど)から、このような事態を引き起こさなければ、そして騒ぎ立てなければ、なんらその地位に問題は無かった事件でした。が、これ以前からの小さないさかいもあり、さらに藤原実資が現在で言うところの、警視総監役のごとき検非違使の長官をしており道長の命により事の処理に当たります。結果として、流罪となってしまいます。その間にも、一条天皇生母の詮子が伊周による(?)呪詛にて死を覚悟するほどの自体も出来します。定子は折りしも懐妊することができており、そんな中での一連の流れは、しかも仲のよかった伊周の失脚は彼女を出家へと気持ちを動かしてしまいます。
 自ら鋏を取ってのことでした。
 平安時代の都人に自殺、自害という概念はありませんでした。その意味で出家は心の自殺とも言えます。「しかし一条の待ちに待った第一子は、女ではなくなった妻、名ばかりの『中宮』と呼ばれる尼によってうまれることになった」。
 
 
 その間、清少納言は定子つきの女房達の陰口もあり、出仕をせずに鬱々たる日々を過ごしていたのですが、定子は山吹の花を添えた手紙を秘かに送ります。
 「山吹の 花色衣 ぬしや誰 問えど答えず くちなしにて」(古今和歌集より 素性法師)(くちなしでこたえられないのね)。「心には 下行く水の 湧き返り 言はで思ふぞ 言うにまされる」(心の中には秘めた思いが湧きかえる。口に出さずに想う気持ちは口にするより強いのよ)という意図がこの歌への連想となります。
 定子の清少納言への信頼は厚かった、といえるこの話は「枕草子」に出てまいりますが、いい話です。往時の栄華は見る影もありませんが、定子サロンは健在でした。
 

 妊娠しているとはいえ、定子の立場はあくまでも出家の身です。いつまでも後継のいないままでの天皇とは問題が有りますが、定子別離後二カ月で義子入内します。
 定子は相変わらず不幸が続きます。母貴子を冬になくし、流罪中の伊周が定子のもとに上京、隠れていたのですが密告され再逮捕されます。度重なる心労のために出産は遅れに遅れますが、何とか皇女を産みます。
 脩子と名づけられますが、詮子にとって初孫となります。
 尼の子ではありながら詮子の胸は祖母としての愛情が湧いたことは想像されます。そのような時間の経過の中で、伊周への恩赦が何とか決まり、一方で定子と幼子との対面が行われ、出家の身の定子を一条は復縁してしまいます。定子は内裏外側、道一つ隔てただけの「職御曹司(しきのみぞうし)」という建屋に人目を忍びながら住まわされます。定子は、清少納言達との宮廷での、窮屈ながら生活が戻ります。

 さて、もう少しこの話は書き続けますが、今回はここまでとします。ただし、書いていて思うことは、賢帝、聖帝等と呼ばれた過去の、例えば村上天皇にしても全てとは言いませんが、こと女性に関してやはり我慢が出来ないというか、自らを律することが難しかった。いや、時代の要請が有ったとしても、これは許容されることなのでしょうか。
 一条には三人のキサキが存在するのです。愛情の濃淡はあれ。
 
 

2012年7月21日土曜日

「源氏物語の時代」 (2)

 昨日の続きとなりますが、少しづつカキコミしていく予定です。

 「権記」。藤原行成の、実にこまめに記された、彼の日記ですが、長徳元年(995)八月二十九日に、彼は「藤原輔公(すけきみ)が召しに応じて一条天皇の御前に参った。還り出た。『あなたが蔵人頭に補されました』ということだ。すぐに畏れ多いということを奏上させた」。
 そして「九月十三日、蔵人頭に補されてから、初めて内裏に参った。」と記され、彼の仕事が一度に増えていきます。
 行成二十四歳、一条天皇十六歳、藤原道長三十歳、藤原詮子(一条の生母)三十四歳、藤原定子二十歳の時です。

 この年、政治向きの話としても、内裏内での権力争いにしても、貴族同士の反目も甚だしいと言えるほどに、色々な事件、事態が出来します。細かくは記しませんが、そのような中で一条天皇は「かつて摂関家の天皇には政治的実権は無かった、と言われたことがあった。今も何となく彼らを『お飾り』と見る眼が残っているように思う。だが一条は、それが違うということを私達に教えてくれる。彼は明らかに、政治的判断を下す天皇だった。そして定子の兄であり、私的にはあれほど心を許している伊周に対しても、公の問題では決して馴れ合い的ではなかった。私情に引きずられること無く、峻厳な態度で公務に当たろうとしていたのだ。」
 山本淳子様ご指摘の如く、かくも若き一条天皇の英明さが伝わってきます。
 その一条のキサキ、定子。一条からの一途な愛を受ける中で、後宮での清少納言を含めた定子サロンにも、華やかさが溢れていたことが、この時点ではまだ、書き始められてはいませんが、「枕草子」の随所に登場してきます。
 清少納言の知性は、この時期に新たな感性をプラスされ「枕草子」に繋がったといえます。例えば書き出しの「春は曙・・・」で表わされるような新鮮な、そして鋭くも柔らかい感性の表現(一般的には桜を愛でたりしそうなものです)は、この時期に定子や伊周などの影響を、濃厚に受け継いだ結果であるといえます。
 しかしその一方で、道長を含めた権力争いも激しさを増します。当時、疾病が京の都の中を吹き荒れており、公卿の中でも上席を勤めていた者や、その席に近いもの達が、次々と亡くなっていきます。関白道隆は持病ですが四十三歳で、左大臣源重信、右大臣道兼、大納言朝光、同済時、権大納言道頼は二十五歳で亡くなっています。
 そんな中、生き残った次席程度に相当する人物が、伊周と藤原道長の二人です。「道長は平安貴族として最も有名でもあり、最高権力者になるべくしてなったように思われている面がある。しかし実際は、こうした異常事態があったからこそ浮上した幸運の男だったのだ。」
 伊周と道長の闘争は、花山院に起こった事件を、又、一条天皇の生母詮子を巻き込んでのこととなり、清涼殿の栄華の中にいた定子の運命に暗い影を落としていきます。
 

 ところで話が少しそれます。
 本日、書き出しの「権記」長徳元年八月に行成が蔵人頭となると書きました。その翌月、九月二十七日にあの、そうです、「陸奥守藤原実方、罷申(まかりもうす)」として出てまいります。「戌剋、陸奥守実方朝臣が、赴任するということを奏上させた。(中略)別に天皇の仰詞(おおせのことば)があり、また正四位下に叙された。禄を下級され、また仰詞を承って退出した。(以下略)」
という次第です。
 実方の件は、この続き物の中では最後に触れる予定ですが、そんな訳で本日は実方登場で終わりでございます。しかしこんなにカキコミしている私は、実に暇な奴だなあ、と、思われているはずです。でも、自宅で鉛筆を舐めはしませんが、下書きをしてのカキコミであること、付記しておきます。
 

2012年7月20日金曜日

「源氏物語の時代」山本淳子 著 (1)

 本日、80歳を過ぎたかと思われるお客様が、いらっしゃいました。栃木県真岡市からとのことでして、拙著をお求めにわざわざ出かけてこられた、とのことです。誠に恐縮の極みというか、汗顔の思いでございます。一月ほど前には、宮城県名取市の「藤原実方朝臣、墓前献詠会」の実行委員をなさっていらっしゃる方からのご依頼で、残り3冊の内の一冊を謹呈し、従って残り2冊になっておりました。しかし、又しても差し上げてしまいました。「2年ぶりで、やっとこの本を買い求めに来ることが出来ました」と、おっしゃられてはいけません。しかし、流石にこれで終わりです。せめて、自作本一冊は手元に置いて置かねばなりません。

 その、拙著のあとがきで、「DIG」というジャズ喫茶店の事を書きました。そこに通う中で先輩から「DIG」とは「掘る」という意味だが、ある地点を人力だけで直径1mの穴を掘るとしたら、周りの土が崩れ、目的の1mを掘り終えたときには、同じくらいの広さの穴が出来ているはずだ、と。
 「一つのことを探求して行くと、それに従って色々と知識が増えて行くものなんだよ」ということでした。
 平安時代に関する本を色々と(自慢するほど沢山読んでいる訳ではありませんが)拝読していると、脇道に、とも思いませんが、本来の目的とは違うけれども、実に興趣に溢れた歴史の事実、人物達に出会います。

 今回のカキコミは、24歳で亡くなるまでに、女性としての最高位を得ながら、余りにも浮き沈みの激しい、余りにも短命での生涯を送られた「定子」について、でございます。
 一条天皇と花山院の周辺を調べていく中で、浮き沈みの激しかった、そして、かくも一条天皇から愛された「定子」という女性の存在を、赴くままに書いて参ります。ただし、私しめの書くことでございます。余り期待はしないで下さい。

 花山天皇が、はかりごとの結果として、剃髪、出家し退位なさったために、一条天皇の御世となりましたが、そのとき一条天皇、数えで七歳、現在の満年齢で言うなら六歳の誕生日を迎えたばかり。即位された天皇として、この時点では最年少記録となるそうです。この一条即位を図った中心人物は「蜻蛉日記」の作者で有名な道綱母の夫、藤原兼家です。
 
 一条天皇は正歴元年(990)正月、元服。満で九歳と六ヶ月の成人男性となり、その月末に兼家の長男道隆の娘、定子と結婚します。一条最初のキサキとなります。一条の母は道隆の妹なのでいとこ同士にあたりますが、時に十四歳。厳密には一条より三歳年上でした。
 この結婚は、まさに政略結婚そのものでした。しかし二人の歳の差がそうさせた面もあるでしょうが、姉さん女房として、勿論二人の性格や資質が第一ですが、純愛小説さながらの一途な仲の良さでした。二人の結婚期間は十年しかありませんが、その間は勿論、定子の死後までも一条の想いは続きます。「彼にとって、憧れ、悲しみ、引き裂かれても求め続けずにいられなかった女性、それが定子だった。」
山本淳子様は「源氏物語の時代」で以上のように、そして又、以下のように描いております。我流に略しておきますが。)
 定子を育てた家庭は、藤原摂関家の道隆と国司を歴任した高階成忠の正妻、貴子の当時としては最上層貴族で有ったといえます。感性、品性、教養、知性と美貌、いい意味での奔放さを持った、明るく開放的な両親に育てられた、といえます。それらの環境の中で教えられ、育ち、キサキ史上まれにみる漢文素養を持った女性が定子でした。
 


 正歴四年(993)冬、定子付き女房に清少納言が加わります。新米の彼女を期待を持って育て上げます。とはいえ、清少納言、推定年齢二十八歳になりますので、色々と気後れする面があったと推察します。しかし「わずか十七歳の女主人だというのに、『枕草子』を見るかぎり定子には女房指導の基本精神が一本しっかりと通っていて、ぶれがない」。「いうなれば、清少納言は定子に認められ自信をつけて才能を伸ばし、ここからやがて『枕草子』作者になっていった・・・』。

 まだまだこれからが本題というか、私の「定子」感に入っていくのですが、長くなりそうです。少しづつ(でもないか)
書き続けさせていただきます。


2012年7月15日日曜日

「衣更へて 遠からねども 橋一つ」中村汀女

 高橋睦郎様「季をひろう」(朝日新聞土曜日版)、今週は『更衣(ころもがえ)』でございましたが、汀女様の作品が所収されておりました。
 
 「『更衣(ころもがえ)』とは、もとは夏の始めにあたる旧暦四月一日に、それまでの綿入れを脱いで袷(あわせ)に更えることをさした。」との書き出しで始まりますが、「現代の更衣は初夏の袷より梅雨明け後の単衣(ひとえ)の趣」としています。
 しかし、昨晩の蒸し暑さ、そして九州地方を襲った連日の豪雨は一体どうなっているのでしょうか。日本中、被災地ばかりの様相です。

 ご無沙汰でございます。
 先週末に、あれ、これは少しやばいかな、と思った腰痛が
週半ばから本格化しまして、何とか仕事だけ、こなしたという、そして今も、やや前傾姿勢にてカキコミしているという状態です。昔、椎間板ヘルニヤで大手術をし、4ヶ月もベッド上での拘禁生活を送ったという、いわば、腰に爆弾を常時抱えた身でして、以来、ゴルフ等は出来ない身体となっておりました。寝てれば良くはなるのが分かっているのですが、実は旧栃木市内ではお盆様でして、それなりにご注文もしっかり入っておりました。つまり栃木市ではお盆様が二回、あるわけでして、正直な所、お客様の立て込み具合が振り分けられます。稼ぎ時の和菓子店には有りがたい、といえます。が、辛い七月のお盆となりました。

 広辞苑からの抜粋でございます。
更衣 ①衣服を着替えること。ころもがえ【更衣室】。
    ②平安時代(どうしても話がその時代に飛んでいくよ        
      うでございます)、後宮の女官の一。
                女御の次位にあって、天皇の衣をかえることを
      つかさどり、天皇の寝所にも侍った。                        
   
衣更え①衣服を着がえること。
     ②季節の変化に応じて衣服を変えること。
      平安時代以後、四月一日から袷を着、寒ければ    
      下には白小袖を用いる。五月五日から帷子(かた
      びら)、涼しい時は下衣を用いる。八月十五日か 
      ら先絹(すずし)、九月九日から綿入れ、十月十
      日から練絹(ねりぎぬ)を着用、江戸時代から四
      月一日、十月一日をもって春、夏の衣をかえる日
      とした。
       ③男女がたがいに衣服を交換し、共寝をしたこと。
 
      催馬楽(さいばら)、更衣。

催馬楽  雅楽歌曲の一種。馬子唄の意。或いは前張り(さ
      いばり)の転ともいうが定説はない。奈良時代の
      民謡を平安時代に至って管絃の影響によって歌
      曲としたもの。

 どうでもいい事のような、でも勉強にはなりましたでしょ。
 ただし、どうして衣再えの最後に、催馬楽が出てくるのかよく理解できないのですが。
 「なつごろも ひとへに西を おもうかな うらなく弥陀を
           たのむ身なれば」  権僧都源信
 

 当初は先週前半に、盂蘭盆会について薀蓄をと、考えていたのですが、八月にします。もっとも、誰も興味を示してくれないかも知れませんね。
 しかし、一千年前も昨今とあまり変わらない気候であったとしたら、流行り病だけでなく、熱中症でばたばたと人が死んでいったことでしょうね。平均年齢が三十代というのも理解できます。
 今はひたすらコスモスの咲き乱れる日々を待ち焦がれる日々でございます。 
 

 話題は変わりますが(基本的には変わりませんか)、源氏物語を楽しく読むことができたのは、光源氏が栄華を極めた三十代前半頃まででした。私はどうも、中年の彼は今で言うところのオッチャンと変わらんやんか、過去の色々なことが結局、因果応報みたいにして繰り返されるわけでして、
早い話、気はあれど身体や世間が許さない。
 私の身辺のあれこれも、結局は薬局で南極が放送局みたいなものでして、過去の己が道程の反映ではないか、と思い知らされています。今頃気付いたか、なんて言わないで下さい。     
       

2012年7月6日金曜日

「セント オブ ウーマン」夢の香り

 平安時代を離れまして、今回は暫くぶりで銀幕ネタ(古い言葉ですね)でございます。
 もう大分以前になりますが、アル・パチーノがアカデミー主演男優賞をとりました作品です。暫くぶりに見る機会がございまして、改めて感動を思い起こさせられました。
 5年前に現役を引退した盲目の陸軍中佐を演じる訳ですが素晴らしい完成度の高い作品として紹介します。
 色々なシーンの中で、盲目の彼の瞳は開いたままなのですが、一度たりとも揺らいだり、視線が彷徨う事の無い完璧な演技でした、が、作品の内容が実にいいのです。
 全寮制の優秀なハイスクールの、全校生徒が集められた講堂で、一人の若者が窮地に立たされるのです。そこで、スレード中佐としての役を演じる彼が、若きソルジャーとでも表現すべきでしょうか、彼のスピーチにて危機を救うという結末です。そのスピーチが素晴らしい。「彼が進んでいる道は、彼の品性を養う信念の道だ!」、と。ご覧になった方はかなりいらっしゃるはずですので、あえて結末まで紹介しちゃいましたが、作品半ばで、彼がレストランの中央ホールにて踊るタンゴが又、実に好い。お相手をした「ドナ」役のガブリエル・アンウオーの可愛らしさ、美しさ。スレード中佐のジョークに上品な笑い声を出しますが、彼曰く「ビュウテイフル ラーフ」と誉めます。
 ついでに書くなら、終わり近くのシーンの中で、端役ですが、政治学を教えるダウンズ教授役のクリステイン・コンロイが、私好みの、夕日の中で輝いている、素敵な熟女役でございました。
 余韻の残る名画は、そんなにめったに出合うものではありませんが、未だ、ご覧になっていない方、一度はご覧になった方にも、もう一度と、心よりお薦め申し上げます。
 

 話題は変わりますが、今週前半に、結構深い付き合いをしております仲間のお父様がお亡くなりになりました。よくご一緒にお話をしたこともあり、寂しい限りでございます。
 お届け等のある時、よく通る道筋にあるお寺様の裏門にいつも感心させられる箴言(しんげん)が張り出されておるのですが、今週の箴言は「人間一生、酒一升 あるかと思えば あとわずか」、と、掲出されておりました。
 私も、いつ、何が有ってもおかしくない年齢になってしまいましたが、それに致しましても、このブログをご覧いただく皆様の「今日無事」を、今回は切に乞い願う次第でございます。
 メル友というよりも、歴史物の師匠とでも言うべきでしょうか、若き牧様より頂戴いたしました自家製カレンダーには、各月に相応しい和歌が所収されております。
  七月のページは、「『ありとても たのむべきかは 世の中を 知らする物は 朝顔の花』 和泉式部」 でございました。
 波立つ心の中をこの時代の和歌が、落ち着かせてくれているのを、しみじみと感じさせられます。 
  (結局、平安物で落着です)

2012年7月2日月曜日

あっと驚く、ご近所の東屋?

 かのこ庵の前の通り越しに、その交差点の角に、あっと驚く東屋が出現いたしました。早速、お客様から尋ねられますこと、お一人やお二人ではないのです。
 もともと、かなり凝った、手の込んだお家を新築なさった方なのですが、お庭の中の交差点寄りに東屋、という次第です。ただし、これが誠に風変わりというか、風流というのとも少し違う、趣のある建屋がまさに出現いたしました。
 目の前のご近所様ですので、かのこ庵に奥様がお買い物にお見えになります関係で、お住まいにも上がらせていただいてお茶をいただいたりしております。そこで詳しく、
東屋を拝見し、写真もしっかり撮らせていただいて、ご説明を受けました。又、奥様はこの私のブログをご覧になっておりまして、「いいわよ、カキコミしても」と、許可を受けての掲載でございます。
如何ですか?
 ご通行の方は立ち止まって、信号待ちの車の中からは、皆さん覗き込んでは首をひねっております。元来、通行量の多いところですのでこれ以上のカキコミは、いたずらの元になっては困りますので、詳しいご紹介はここまでです。
さて、過日の「とちぎ物造り工房」のスタッフによる        打ち上げ会が某ホテル屋上のビヤーガーデンにて開かれました。流石に其々が大役をこなした喜びと安堵に包まれた阿呆面をしておりますのがお分かりいただけますでしょうか。誠に好評を得ましたことを併せてご報告いたします。しかし、次回につきましては、只今の時点ではそこまで考えられない、と申しておきます。ところで、連日のカキコミとなりますが、決してねじの錆を落としたわけではありません。お店がすっかり落ち着いてしまっているということですね。困りました。

新発売! 和三盆黒蜜使用 『葛焼 蛍』

 このところ和菓子に関するカキコミが少ないじゃないか、と、ご注意をいただきました。政治向きの話や平安時代かぶれの話題ばかりでございました。スミマセン。
 でも私めの事でございます。
   本当は、季節に合わせた新製品をしっかりと仕上げておりました。その名も『蛍』でございます。
   和三盆は四国でしか作られていない純国産のお砂糖ですが、その作業工程の中で、つくられるのが和三盆黒蜜でございます。和三盆のお菓子は、お客様の中で「京都のお菓子屋さんでよく見ますね」と、おっしゃられる方がおりますが、全て四国の和三盆製造業者に委託して自店の商品として販売しているのが実情です。表示をよく見ていただくと分かるのですが、「製造者」ではなく「販売者」となっているはずです。そうでなかったら単に表示違反を堂々としているだけです。
 ともかく一度、和三盆のお菓子を召し上がった方ならば、
その優しい甘さと、硬そうですが口に入れると、とろけるが如き食感に驚かれると思います。
 お砂糖にも沢山種類がございます。用途によって菓子店は使い分けるわけですが、和三盆の風合いと甘味度は世界一と評しておきます。
 ただし、お安くございません。この和三盆を材料として、和菓子をお作りのお菓子屋さんは、私の知る限り関東でも数軒ではないかと承知しています。
 その黒蜜を使用し、葛を練り上げ、羊羹舟に流し、一時間近く蒸上げて、冷ましてから切り分け、上南粉をまぶし上下を天焼し、寒天の黄色を少しつけて・・・という手間のかかる商品を発売しました。書いているだけで疲れます。
 ところで、今度は「上南粉」でございますが、多分ご存じない方が多数だろうと存じます。簡単にご説明いたします。
 もち米を細かく砕いたものが道明寺種と申しますが、このもち米を蒸して、干しあげてより細かく砕いて、色がつかないように煎りあげた物、通常、寒梅粉、焼味甚粉と似たような食材となります。疲れますね。
 是非、一度ご賞味ください。庵主の自信作でございます。

 話は変わりますが、先日、私が自費出版いたしました拙い冊子とでも言うべき「栃木の歌枕と藤原実方考」を三冊欲しいというお客様がいらっしゃいました。残念ながら自宅にある分を含めて最早三冊しか残っておりません。一冊だけ謹呈させていただきましたが、お話を伺うと、お母様が宮城県名取市の方でした。名取市はご存知のように、昨年の災禍によって大変な被害にあわれました。そんな中、不幸中の幸いとでも言うべきでしょうか、「藤原実方の墓所」があるのですが、無傷で残ることができました。そして今年十月、実方の命日に毎年行われておりました「藤原実方朝臣墓前献詠会」が開かれ、その実行委員をお母様が担っていらしゃる、とのことでした。
 この本の中で、名取市を取材した時の事を書いておりまして、名取市の市長さんには拙著を謹呈致しました。市長さんからは丁寧な感状を頂戴いたしましたが、その辺りからの話かと推測いたします。献詠会へのお誘いもありました。何はともあれ有りがたくも、いささかお恥ずかしいというのが率直なところでございます。お伺いできるかどうか、現段階ではなんとも分かりませんが、嬉しいお話としてご紹介いたしておきます。墓前献詠会だけでなく、色々と茶会や催し物が準備されているようです。被災された皆様方へのためにも、時間を作ろうかなと、前向きに考えております。参加はどなたでも自由、ということで十月十七日(水)十時開式だそうです。ご興味をお持ちの方はご参加ください。