2013年2月19日火曜日

「江分利満家の崩壊」山口正介さん

 山口瞳先生のたったお一人のご子息、正介さんの事実に基ずく山口家の出来事を書いた作品をご紹介します。先生亡き後の新たな悲哀というべきでしょう。ご母堂「治子」様がお亡くなりになりました。誠にご冥福をお祈り申し上げます。奥様からは三年前の年末に、お葉書を頂戴しておりました。正介さんと書きますが幾たびかお手紙も含めて、更に、さほどの事ではありませんが会話もございます。 
 従いまして、正介さん昵懇の間柄とはとてもえません。お父様との距離が近すぎました、とは私の一人勝手な思い込みかもしれませんが。
  瞳先生ご逝去の一報に駆けつけ、先生の枕頭に数十分、何も思いだすでなく、かといって涙も出ないでいた今更ながら鎮魂にして、痛恨の、先生と共有できた二人だけの惜別とその空間があった強烈に思い出ます。その枕頭にご案内下さった「関頑亭先生」に、思い起こせば、唯々感謝の一言でございます。その頑亭先生九十四歳になられるはずですが、お元気です。ただし三年前、奥様の民(たみ)様が、ご家族に看取られるなか、御逝去されました。
 民様がお元気な頃、先生のご自宅を家内とお邪魔したことがございます。なかなかに素敵な雰囲気の設えのお店でして、手作りのお帽子を、勿論、民様手作りのお帽子を取扱っておりました。
 実はその時、民様が「これがいいわね」として三個も家内は、お帽子を頂戴してしまいました。頑亭先生宅を訪問すると、先生は必ず色紙とか、時には出来立ての鯰の絵柄をプリントしたTシャッツ等を下さるのです。申し訳なくて、いささか足がのいてしまいました
かのこ庵、店頭にて 在りし日の山口先生です。

 昨日テレビにて、二月十九日、神田の「やぶそば」さんが火災にて外観だけを残す、という映像を拝見してしまいました。
 ご存知の方は多いと思いますが、池波正太郎先生行きつけのお店でした。ご主人の話として「何が何でも再開します」と、ニュースの中ではお話でしたが、信じたいと思います。
 更にニュースの中で、過日のグアムにおける無差別殺傷事件にて何等の利害もないのに、唐突にその生命を絶たれてしまわれた栃木市在住のお二人のお通夜の場面が報道されておりました。お祖母様とは家内が面識ございました。

 どうも悲しい話題ばかりの書き込みが続きます。
 山口先生の奥様、治子様が瞳先生の時と同じホスピスにて永眠なさったわけですが、しかし、その事はもう少し時間をおいて書きたいと思います。「江分利満家の崩壊」についての感想は、もう少し時間を下さい。二回半も読み返しております。どう表現すべきか、先生亡き後の治子様とのやりとり。そしてあまりにも中途半端にしか知らなかった、又、話すことの少なかった、正介さんのこれまでの私の知らなかった事柄。
 整理する必要が私の心中にございます。
 偉そうに書いておりますが、現在進行形の話でして、酔った勢いで書けることではない、と、思うからです。

 しかし、不思議な因縁とでもいえますか。数日前に俳優の別所哲也さんが、先程書きました池波正太郎先生の足跡を辿って、食を探求する番組がございました。その中で、彼が持ち歩き、時に読み上げる先生の文庫本「日曜日の万年筆」の文中に、私自身深い思い入れを感じたお店や、ホテルが登場してまいります。
 ホテルは、宿泊したことはありませんが、JR 茶ノ水駅からゆるい坂を登った「山の上ホテル」です。よく作家が缶詰にされることでも有名な静かな、こじんまりしたホテルです。このホテルのバーが恥ずかしながら私のお気に入りでして、池波先生だけでなく、山口先生もご贔屓のホテルでした。

ホテル内のバー「ノンノン」です。
 山口先生の十三回忌がこちらで開かれまして、ご案内をいただき出席したことがございます。丸谷才一先生(弔辞の名手、と巷間、有名ですいや有名でした)のお話には感銘を覚えました。が、残念です。皆さんお亡くなりになってしまわれました。
 池波先生の「日曜日の万年筆」を、少し長くなりますが、引用させていただき「江分利家」は近日、続きを書かせてもらいます。

 『人間は生まれでた瞬間から死へ向かって歩み始める。
  死ぬために生きはじめる。
  そして生きるために食べなくてはならない。
  何という矛盾だろう。
   (中略)
  だが人間はうまく作られている。
  生死の矛盾を意識すると共に、生き甲斐をも意識する。
  というよりも、これは本能的に躰で感じることができるように
  作られている。 
  たとえ
  一碗の熱い味噌汁を口にしたとき(うまい)と感じるだけで
  生き甲斐をおぼえることもある。』

昨日の我が家前、巴波川の鴨ですが、ずいぶん増えました。
 生まれ出てたるその時から、既に、何時、如何なる時に死してもやむを得ない生き物としての宿痾を、そして不思議ない時代でもあり、 齢でもあります。誠に昨年後半から、そんな話ばかりが身辺で続いてきました。そこへ持ってきて、実は「中宮定子」の凋落ぶりを書き込む予定だったとは、「少しは明るいことを書けよ」と叱られそうですが、どうも続きそうです。

 しかし趣味の世界ではございますが、過日、國學院大學栃木学園様の図書館館長、太田先生のご厚意によりご本をお借りしてまいりました。読まなければ、いや、早く読みたいとは思っても、この分厚い冊数でございます。仕事も、繁忙期に入りました。ひとまず必読箇所をチエックして時間を見てはコピーの日々となりました。識るは楽しみ、なんて前回書きましたが、いささ頭痛の種にもなりそうな現実です
 全く、貧乏菓子屋のおっちゃんのすることではない
と、自省せなあかんこと承知してはおるのですが。
分っておるつもりなんです 

2013年2月14日木曜日

「お雛様」の季節です。

 一日ごとに陽の長さをありがたく、しみじみ感じる季節となりましたが、桃の節句、三月三日も間もなくでございます。
 明治六年一月一日に改暦されまして、グレゴリオ暦(新暦)により一般的に3月3日となりましたが、昔、つまり太陰太陽暦では上巳の節句として現在での4月頃に、行われておったようです。
 それにしてもお雛様は可愛いですね。
 内裏雛、つまり男雛と女雛の衣装は明らかに平安時代の宮中における装束です。
光源氏が見守る中、若紫が雛遊びをしています。
 源氏物語絵巻には雛遊びをする「若紫」が登場してまいります。雛遊びと書きましたが、はじめは「遊びごと」であったようですが、平安中、後期には川に紙で作った人形を流す「流し雛」や、「上巳の節句(穢れ払い)」として、お雛様は「災厄除け」、「守り雛」として祀られるようになりました。その後、武家社会における身分の高い子女の嫁入り道具の一つとなり、より一層きらびやかな、精緻な雛人形が現れてきます。
 ところで、昨年はあまり深入りせずに書き込みしておりましたが、お雛様の並び順が東西で違うとだけ書きました。

かのこ庵の木目込みお雛様です。
 

 詳しく書きますと、関東では明治以後、文明開化の影響を受けヨーロッパ方式を皇室にて、特に大正天皇が正式に採用するようになり、向かって左に内裏様、右にお雛様をお飾りするようになり、私どもも見習っておるということです。
 一方関西では、日本古来の左を上位とするしきたりを伝統としておりますので、関東とは逆になっている、という次第です。女雛といいますか正しくは親王妃のことですが、髪型が二種類ございます。「大垂髪(おすべらかし)」と「古典下げ髪」と呼ばれる髪型です。五人囃子も並べる順序がちゃんとあるのですが、これ等をご紹介しておりますとキリがありません。
四国や大阪、富山からの商品は男雛は
向かって左側になっています。
 しかし、左右の大臣や、三人官女などの他、「左近の桜・右近の橘」や箪笥、化粧道具、牛車他きりがないほど華やかな飾り物がございます。少し華美になりすぎた気もします。とくに「菱餅」ですが、本来は三色で良いのですが、五色、七色の菱餅のお飾りまで出回っております。
 でも本来の「菱餅」は、下から大地を現す緑、白は雪、ピンクは桃の花を表現しています。つまり春近い季節、溶けかかった雪の残る大地には緑の草が息づき始める一方で、桃の花が芽吹きだしている、という風情溢れた組み合わせなのです。かのこ庵では四月になりますと「お花見団子」を販売しますが、手元から緑、白、ピンクの順に串に刺して作ります。これはまた大地、雲、天上を表現したものとなります。昔から緑はヨモギを使用して色を若草色にしてきたわけですが、よもぎの薬草としての効用から、災厄や穢れを祓うお菓子として食されてきた歴史があるのです。 
 今回は少し深入りしたお雛様と和菓子のお話でした。
 

 話題はガラリと変わりますが、昨日の定休日に県内某所の和食のお店の評判を聞きまして行ってきました。写真を見てわかった方は相当に「通」であると申しておきます。
 流石に店内の雰囲気も料理も先ずは、お褒め申し上げます。しかし、画竜点睛を欠く、とはこのことかと感じました。
 金額の割には盛りだくさんにして、凝ったしつらえなのですが、メインの籠盛りが来る前にお漬物が小皿にて用意されました。これが何処にでもある「刻みつぼ漬け」でして、漬物大好き人間の私としては、この時点で「さほどでもないか」と、思い込んでしまいました。せめて、ぬか漬けとまでは言いませんが、きゅうりの一夜漬けが2~3切れで良いのです。栃木市の近くの高級と言われる割烹料理店も数年前の話ですが、同様でした。それほど手が掛かるわけではないと思うのですが。手抜きです。そして、なぜかどちらも食後はケーキかゼリーにコーヒーです。冷凍のケーキを解凍し切り分けるだけです。手抜きです。お抹茶をなんて思いませんが、美味しい緑茶に今なら「桜餅」とか、夏なら「水ようかん」とか作ってはいかがでしょうか。和にこだわりを持ったお店と推察します。食後のお口直しも和で、とはそんなにも面倒ですか。ドーモ君な気がします。それでも、老いも若き女性たちもその辺、あまり感じることなく楽しんでおるようです。私が意地悪というか、うるさい、又は細かすぎるのでしょうか。
 悩んでいます

2013年2月10日日曜日

「権記」私的にこれが最後から二番目の巻。

 「権記」の中で随分と多くの事柄を学ばせていただきました。かといってどこまで理解したのかと言われますと、素直に先ずは謝ってしまいます。何しろ未だ全巻読了しておりませんし、正直、読み物、つまり物語ではありません。面白い感情表現が随所に、なんてことは極めて少なく、眠くなるような学習参考書です。私めには。

行成筆、「白紙詩巻」
 残せし藤原行成の謹直にして、誠実な、何よりも家系温存のため、そして最大の彼の、私が想像するところの自身の感情を抑えた職掌への忠誠心。
 数回前に清少納言を評しまして、自らの知性を、何故こうまで小さく評価するのか、というシャイな女性、と書きました。枕草子で幾たびも彼女の知性あふれる回顧談が登場しますが、赤面しつつ書き残してきたと、それらについては推察するのです。
 行成が今風にいうなら「イケメン」であったかどうかは全くわかりません。では清少納言はどうであったか。彼女曰く、ちぢれ髪の(当時としては)不細工な女よ、と書き残しています。でも、お似合いの二人であったかもしれません。役職上は比較にならない程の高い地位に上った行成と、単に中宮定子との取次役であった少納言。それでいながら、なんでもわかっているお姉様的、清少納言。行成には奥様がおりました。でも、甘えられる存在の、そして何よりも知的会話、その空間を一条天皇、中宮定子との中で仕事を絡めて往還できた充実感。十分に理解できます。
 ただし二人の間に数回の後朝(きぬぎぬ)があったとしても、熱愛の間柄(その時期はともかく)であったとは思えないのです。少なからずたくさんの交友、というより情愛を傾けた相手は共に、数人ではないかもしれません。
 何とも、男女間の関係がここまであってよいのかと思える時代であったことは事実です。かといって、少なからず行成は実直なタイプの人間ではないでしょうか。浮名を流す、そして貴公子と呼ばれる人物とも思えません。
 「枕草子、第四十六段」に行成と清少納言との親密な空間を感じさせてくれる話が出てまいります。なかなかに面白い会話が紹介されています。又、第六段には「頭弁(とうのべん)」として行成が、犬を飾り立てる、という風流人として紹介されておりますが。
清少納言の絹製ハンカチです。

 どうも、清少納言お姉様も結構出入りの多い方だったようでございます。彼女は二度結婚をしておりますがその間に宮中に出仕しておりました時期がなんとも色々とございましたようです。彼女については藤原実方との件も含めて、じっくりと書いてまいるつもりです。

 「権記」でございました。
 行成については随分と書いてきたつもりですので、今回は藤原実方に関わる箇所だけを拾い読みさせていただき、実方に焦点を移してまいりたいと考えています。清少納言の方が先になるかもしれませんが・・・。
 
 正歴四年(993)二月二十八日の行成の日記に初めて実方が登場します。一条天皇の御前にて、前方(まえかた)、後方(うしろかた)共に二十一名の弓の射手が腕を競う話ですが、後方の先頭に実方の名前が出てきますことは、以前にご紹介いたしました。
 次に、同年四月十五日に「一条天皇は紫宸殿に出御され、祭使の飾馬を、覧られた。大納言伊周卿が天皇の御前に伺候した。『左少将(源)明理(あきまさ)と右中将(藤原)実方が出居を勤めた』ということだ。」と。
 翌、正歴五年一月三日に
 「今日、天皇は東三条院(藤原詮子)〈兼家次女、一条天皇の生母。寛和二年、一条天皇即位に伴い皇太后となる。正歴二年、落飾。東三条院の称号を下賜。天皇と道長との調停役として、更には道長の政権掌握に多大な役割を果たす。以上私の解釈〉の許(土御門院におられる)に行幸された。先例では、御輿が承明門を出る際に、近衛府の将が大舎人を召す。ところが今日は、右中将(藤原)実方朝臣は、未だ門を出ていないのに大舎人を召した。誤りであろうか。」と疑問を呈しております。ま、行成とはもともと肌が合わない、タイプが全く異なる二人であったことは事実のようです。片や謹直にして能筆という文治派、実方は文武両道にして舞上手のどちらかといえば、いささか無頼派的イケメンの貴公子。
 ウマが合うわけございません。

 そして実方、天皇から陸奥国司として赴任、云々の話となりますが、長くなりました。そしてこのことはもっと長くなりそうです。疲れますね、次回でございます。

 私事ですが、十二月某日、家内の、そしてXmas。一月早々には娘の、同月末、孫の、今月早々私めの誕生日と続きまして、和菓子屋らしくない夜が、つまりデコ・ケーキの冬でございます。例年乍ら、嬉しくも無き歳を重ねてきました。

一面真っ白ですが、お届けの時に見えた大平山です。
 ところで、いつからでしょうか、是程までに恵方を気にする日本人になったのは。そりゃ昔は、吉凶の方角や、方違えと称してわざわざ遠回りをして出かけた、なんて時代もありましたが。バレンタインにしても、少なくとも30年前頃には
なかった風習ですけど、世の中が平和な証拠、と傍観することにしてます。
 しかし寒い日が続いております。インフルエンザなる輩たちが繁盛しているそうです。くれぐれも皆様、ご自愛ください。

我が家の眼前にある八重の桜ですが、枝先に赤い芽が出てきておりますことわかりますか?

 

2013年2月8日金曜日

嗚呼、中国。悠久なる歴史のその先で

 めっちゃ複雑なる一見便利な道具は、私にとっては些細な事でいかれてしまうものなんだとしみじみ実感しております。こんなちっぽけなパソコンで、世界がすべて見えてしまう、とは事実でありながら、それが如何に脆弱なるものであるかという事も、今更ながら思い知らされます。
 そりゃあコーヒーをこぼした私が馬鹿です。
 感知しないキーが出てきまして、教えられて別売のキイボードだけが、販売されておりますのを購入しました。安いのは500円程度から買えます。しかし、とりあえずはどうにか通常通りに作動させてはいますが、いつアウトになるか判断が付きません(家電量販店のそのコーナーの担当者がおっしゃることですが)。
 新規の一台がセブンからエイトになりました。これがまたもや誠に厄介でして、このことにかかわっておりましたら椅子に座ったままで日が暮れてしまいそうです。
  
 

 一千年前の事に興味を覚え、深入りしすぎている己を充分承知してはおる積りですが、今回は少し話題を変えます。
 
 大和という国の原型、言語、国家の制度に多大なる影響と恩恵をあたえ続けてくれた中国。つまり、現在までの中国の歴史を充分に尊重しつつ、これから感じていることを書きます。憤りと怒りを込めて。
 映画で戦闘機どうしの戦いの場面などで、敵機を「ロックオン、発射準備OK」なんていうシーンがあります。つまり捕捉レーダーの中に閉じ込め成功、ということです。こうなったら最後、先ず逃れることは不可能になります。自衛隊員の話として「訓練でやられることはあったけど、実に気分の悪いものだ。」との記事がありました。
 そこで我々日本人として冷静に考えれば、これ以上の敵対感情は誠に危険だ、と思います。しかし、何とも気分の悪い状況下にあることも事実であり、日本人の寛容さがこうまでも試されているのか、と深い憂慮を覚えます。
 日本の原発に対する当事者たちの隠蔽体質、原子力村の悲しき依存。この問題も極めて深刻ですが、中国の現況認識には、新しい体制下での試練というにはあまりにも憤りを感じます。人権無視、贈収賄、公害の垂れ流し、北朝鮮のわがままに通底する我利の専横、と言わせていただきます。
 どうにもここは国民一人ひとりが、沈着なままでいながら、発信していくべき大切な時局になっているということを、あくまでも平和的な範疇での行動で示すべき時かと強く感じます。日本とは比較にならない悠久の歴史の中で、幾多の戦を経験してきたはずの国家として、恥ずかしくないのか、と言わせてもらいます。
 

2013年2月1日金曜日

「権記」私的にその6.

 いつまで続けるおつもりですか、といわれそうです。
 あと1~2回ほどにて、清少納言と、藤原実方との接点を求めた新たなカキコミをする予定です。
 ところで今回、発売されたばかりの朝日新聞社による「週刊源氏物語絵巻」に藤原実方の肖像画が掲載されておりました。国立国会図書館蔵ということですので、この肖像画は相当に実物に近いものがあるのかな、と感じますが、ご存知の方には若干違和感を覚えるのではないかでしょうか。
 画像が途中で切れております。正確ではありませんが、四年十二月三日とあります。おそらく長徳四年の頃かと思われます。ただし、同年十月に実方は現在の宮城県名取市笹島にて没しております。どうも四十代とおぼしき面影ですが、気品は明らかに漂わせているな、と感じます。
名取市発行の実方パンフレットより
 しかし、この絵巻物を中心とした週刊誌には本文の解説はもちろんですが、当時の宮中での行事や、官人の仕事の内容、暮らしぶり、そして庶民の日常生活までが細かく解説されています。
 更に、沢山の先生方が解説をお書きになっておりまして、当方誠に勉強になっております。ただその割には、実方の解説がいささか、雑に過ぎないかと思います。編集部の方の解説なのでしょうけど。
 実方贔屓としてはどうも、の記述です。都における青年貴公子の面影が強いものですから。
 でも54部も残り2部となりました。
 

 「権記」でございました。
 前述の長徳四年のことでございます。藤原行成が十月二十二日の日記に「京官除目の儀があった。(略)今日の響宴は御修法(みしほ)の期間に当たるので、精進物を準備すべきである。ところが魚味を用いた。誤りである。」と。
 中々にうるさいことを書いていますが、翌日二十三日には、「丑の刻に除目の儀が終わった。私は右大弁に転任した。(遠慮して書いていますが抜擢であり、若くしての昇進であります)〈左中弁の功労が三年。時に年二十七歳。年齢が未だ三十歳に及ばずに大弁に任じられたのは(略)。〉として二人の名前を挙げて身中の喜びを記しており、その後、奏慶を東宮、左府(道長)、新宰相殿と奏上しております。翌日は早朝から冷泉院、右府、東院(為尊親王室)、花山院、東三条院(詮子)を、また翌日も同様な行動を致します。二十九日には大弁として初めて結政(かたなしどころ)にて仕事をします。

 なぜ今回、このことをカキコミしたかは実は枕草子に起因します。清少納言が残した随想集とでも言うべき枕草子ですが、その第百二十九段に「頭弁の、職にまゐりたまひて、物語などしたまひしに、夜いたう更けぬ。」とあります。頭弁(とうのべん)とは藤原行成のことですが、中宮定子が職の御曹司に住まわれていた頃、定子付きの女房としてその信任を得ていた清少納言が、取次役を一手に引き受けておりました。その一方で「定子サロン」という言葉が残るほどに、定子を中心とした教養豊かな才人、歌人、漢籍に堪能な人物たちが集い当時としては興趣あふれる空間が出来上がっていた、と言えます。
 長徳四年十月二十三日以後の行成が「頭弁」となったことは、彼の日記にて明らかです。ただ残念ながら、この段が書かれた日にちの特定は複数の見解が有り、はっきりとは致しません。でも長徳四年ということは、行成二十七歳、少納言三十三歳、中宮定子二十二歳、一条天皇十九歳の頃でございます。(ついでと言ってはなんですが、実方が陸奥国にて没した年でもあります。)つまり姉さん女房とも言える歳の差が行成との間にはありました。それ故に半ば相談相手としても、さらには親密なそれでいながら教養あふれる会話が弾んだ事と推測します。
 そして早朝、行成云く「今日は、残り多かる心ちなむする。(言い残したことがたくさんあるような気がしますよ)夜を徹して、昔物語も聞こえて(申し上げて)、明かさむとせしを鶏の声にもよほされてなむ(催促されましてね)と、いみじう言多く書きたまへるは、いとめでたし。御返りに、『いと夜深くはべりける鶏の声は、孟嘗君のにや』と聞こえたれば、たちかえり、『孟嘗君の鶏は、函谷関をひらきて、三千の客、わずかに去れり』とあれども、これは逢坂の関なり、とあれば(清少納言が)
 『夜を込めて鶏のそら音ははかるとも
   世に逢坂の関はゆるさじ
  心かしこき関守はべり』ときこゆ。また、たちかえり、
 (行成)『逢坂は人超えやすき関なれば
     鶏鳴かぬにもあけて待つとか』・・・」。
 と、有名な和歌の問答の場面です。
 その後、会話は続くのですが、行成に「かく、ものを思ひしりていふが、なほ、人には似ずとおぼゆる(そこまで物事を分別して仰るとはさすが、凡人とは違う)」とほめられて、「逆にお礼を申し上げたいくらいです。」と書いています。


わかりづらいかも知れませんが、左隅の5と4をご注目。
 いわゆる「職御曹司(しきのみぞうし)」に一時的に中宮定子は住まわされるのですが、この場所は本来内裏とは道一つ隔てた、役所、官人たちが詰める場所なのです。何回か前のこのシリーズ(?)にて書きましたが、定子が、出家を願って髪を落としてしまいます。しかし一条天皇の想い入れは変わることなく、それでも公家社会の体面上から、仮とまでは言えませんが内裏に隣接した職御曹司に住まわされるわけです。内裏に比べますとその窮屈さが、わかります。でも、お公家様たちが始終、出入りしますし、何といっても定子サロンです。用がなくても彼らが話題を求めて集まってきたことが記されております。

 ところで今回は少し長くなりました。歴女と呼ばれる方や、これらのことにお詳しい方には退屈な書き込みでしたでしょうか。
 嗚呼、キリがありませんね。今回はここまで。