2012年6月30日土曜日

黙ってはいられない

 このブログの中で、所謂、政治向きの話は本来、何のご利益が有るとも思えませんが、現下の日本の政治にはとても黙ってはいられません。
 長くなりますが某新聞の経済コラムを紹介します。
 「消費増税関連法案の衆院通過にワシントン、ウオール街の友人達は『やったな』と半ばうらやましげに言う。
(中略、以下、世界経済の低迷と信用不安について話が続き、如何に国民に負担を求める決断をし、民意を説得できるか、各国の政治家の力量が問われている、と)
 だから、増税法案衆院通過は、G8で再三決議してきた国際公約を経済大国日本が少なからず果たすことになり、世界経済に大きく貢献する道を開く。
 だが、法案通過は小沢元代表を中心に造反者が出て、政局の不透明さを増幅させた。政治家としての信念を貫いたように映るが、実は『木を見て森を見ず』だ。世界の中の日本という国際感覚に乏しいことを暴露したに過ぎない。造反者の処罰が先決と叫んで、参院での議決をこじらせるようでは谷垣総裁も同罪に陥る。(中略)野田首相に世界経済のためという認識が強かったとも思えないが、事実上の党分裂を招きながらも、結果的には日本の国際的対面を保った。
 何が国民のためなのか。国際的見識を持たない政治家の時代は終わりにしたい。」

 同紙の社説には「「政権交代につながった09年総選挙の公約に消費税増税は無かった。『国民に対する背信行為』のそしりは免れない。だが、野田首相に『約束を果たせ』と言いつのる小沢氏らは財源の裏づけの無い『果たせない約束』を作った責任はどう考えるのか。(中略)『負担増なしに福祉国家を実現できる』と言わんばかりの公約だった。その公約づくりを党代表として主導したのは、ほかならぬ小沢氏だった。『無駄を省けば、増税なしに財源をつくれる』というなら、小沢氏は、具体的にこの無駄を省けと政権に迫ればいいではないか。増税をこころみた菅政権にも野田政権にも、そんな努力をしたとはついぞ聞かない。
 小沢氏自身、増税なしには社会保障の維持さえできないことはわかっているはずだ。
 (中略)いまさら『反消費増税』の旗を振るのは、ご都合主義が過ぎる。(以下略)」

 誠に零細の商店にとっては、今回の増税には実にやりきれない思いが、いや増すばかりです。しかし、多くの国民はこのままで良いなんて、思ってはいないはずです。
 マリナーズのイチロウとは比べたくもなき人物のあの横柄な顔はヒール役にぴったりでありますが、格好だけつけて離党に時間をかけているのも、これ以上許せない。更に離党届を元代表に預けた議員達の自覚も、国会議員としての尊厳の無さにも情けないの一言です。
 まさに東京電力同様、自己中も立場をわきまえろ!と、言いたい。ともかく、国民は滅茶苦茶に怒らねばならない時です。グローバル社会には何の関係も凡そありえない和菓子店の主人にとってさえも、現職国会議員の不誠実、不勉強、不遜、口先だけの言い訳や保身は、はっきりと見えています。猛省し国民目線に立て!
 ついでに加えるなら、「今年一年、原発ゼロでやってみましょう」と宣言したらどうですか。このような事をカキコミしている私は左翼と見られるのでしょうか?
 と、まで書いて今日はここまで。
 

2012年6月29日金曜日

「花山天皇」(968~1008)

 早いもので今年も、半分が終了しようとしています。
 平安時代、「物忌み」に相当する国家レベルでの「祓え」として、六月の晦日と十二月の晦日がそれぞれ「国の大祓え」として定着していたようです。「六月の晦の大祓え(みなづきのつごもりのおおはらえ)」、と「十二月の晦の大祓え(しわすのつごもりのおおはらえ)」となりますが、天皇を初め宮中に仕えている人々の、半年の間の災いや穢れをまとめて祓いやる儀式などをさします。祝詞を奏上し、祓え物に罪を移し、その祓え物を大川に流す。祓え物には刀・人形(ひとがた)等が使われ、天皇はこれ等の祓え物に息を吹きかけ災いを移した、そうです。今で言うならお盆とお正月の様な物かもしれません。実際に「権記」にはどの年も六月と十二月の晦日の数日は、あのまめな藤原行成にして、なんらの記述がないのです。
 陰陽道全盛期の時代ということですか、人の死や血を見ることは穢れとして大いに忌嫌われました。

 花山天皇の即位は十七歳となっていますが、これは数え歳でのことでして現在で云うなら十五歳のときでした。
 前回、花山天皇の後継となった一条天皇を「理論派、正等派とするなら、花山天皇は直情径行派、浪漫派、色情過多でありながら仏法への帰着心の強い人物であった。」と書きました。わずか二年の在位にして、出家しますが、これにはかなりの訳ありでして、今では有名な陰謀による出家の強要が言われております。しかしそれだけではない、花山院(出家後や、退位以後は・・院、と名乗ります)自身の強烈な性格もあってのことでもあります。即位式が行われたその日「大極殿の高御座(たかみくら)の上で、儀式進行の合図の前に・・・」つまり即位式の最中に、その高御座の中に女官を引き込み何を致してしまった、というツワモノとでも云えばよいのでしょうか?
 多感にして過激にして持て余すエネルギーの所産とでも弁護しておきますが、そんな彼も一途に想いつめた女性がおりました。藤原為光の娘、忯子(きし、と読むのでしょうか)という女性ですが、並外れた情熱でもって愛するのです。そして懐妊するのですが、当時妊婦は穢れた身とされ妊娠三ヶ月くらいで里下がりをさせられるのですが、彼女への愛情止みがたく手元から離さなかった。結果、悪阻のひどい状態の彼女は、里下がりを得たときには最早息絶え絶え状態で、直ぐにお亡くなりになってしまった。
 
 

 花山天皇(当時)が退位、出家する、いや、せざるを得なかったその動機の一つがこれ等の出来事プラス、彼の知人や肉親が相次いで出家します。当時十八歳の天皇には、まして多感な彼に、厭世感がおきたとしても不思議はありません。愛欲の悲劇的結末、政治の行き詰まり(彼を退位させることで権力を得られるものがいた)、宗教的な意味合い、つまり、当時、妊娠中や出産時に死んだ女性は成仏できない、とする「浄土信仰」
 彼はさまよえる彼女の魂を供養するため、信仰にのめりこみます。花山寺の阿闍梨厳久(あじゃりごんく)を侍らせて説教に聞き入りますが、そして、出家となるわけですがこの厳久なる人物が実は天皇引き落としの共犯者でした。
 しかし、若さという特権、それでなくても特権が全く無くなってしまった訳ではない花山院のその後。同じ世代ということ以上に、藤原実方などが花山院との親密な交際があったのには和歌をたしなみ、楽しみ、かつ、性格の類似点や高級貴族としての品行ではない、品性に有った、と思わざるを得ません。
 それにしても、昔から英雄色を好む、といわれますが、天皇やその時代の中心人物が、色を好むことは決して悪とはいえません。責務として血筋を残さなければならない立場にあっては、生まれた子の生存率の低い時代にあって、それは中傷すべき事柄ではないといえます。でも、室町時代に作られた『尊卑分脈』には、嵯峨天皇に、皇子二十二人皇女二十七人。仁明天皇計二十四人、文徳天皇計三十四人。花山、一条両天皇の祖父にあたる村上天皇には計三十人もの皇子皇女がおったそうです。それでもこの数はわかっている範囲のことでして、所謂、御落胤となるとこの数字には出てこない方も当然おったと見るべきでしょう。どうにも現代の私達には想像もつかない世界といえます。源氏物語が、姦淫のそれも近親相姦や、不倫、果ては淫行までも含めた物語であることも事実です。

 花山天皇のためにまだ書き加えます。
 退位して後、彼は沢山の恋をしますが、その一方で、仏道への帰依も強いものがあり(「何の矛盾もない」、という長渕剛の歌がありました)西国三十三箇所の巡礼地をめぐる旅の原点は彼が作りました。でも、出家して後の余りにも奔放な女犯には、決して戒律云々がゼロであった訳は無くどうも、己の力のコントロールが出来ない性質のお方であった、と結論します。
 実はまだまだ花山院に絡んで、書きたき事が沢山ございます。でも、こんなことに興味を持ってこのブログを読んで下さる方は、私の知る限り身辺には思い当たりません。でも、この時代を探求なさっていらっしゃる方が身近にいないだけであることも事実として承知しております。私のこのカキコミなんて「誰でも知っていることよ」といわれそうな気もします。ですから、まだまだ書き続けます。

 本当は、かのこ庵のご近所の庭に、突如として姿を現しましたお庭の中の建屋についても書く予定でした。
 何しろ、お客様から随分とお問い合わせがありまして、先日、許可を得て写真撮影をし、その一部を公開する予定でしたが、「花山院」が長くなりました。次回でございます。
 又更に、「葛焼『蛍』」の新製品も完成しており、七月二日より販売開始の予定ですが、このアピールもしなければなりません。頭の中は、このブログのことで半ば以上に占拠されているのですが、最近、書き出すまでに時間が掛かるようになってしまいました。どうも、どこかネジが緩んだままのようなのです。花山院のパワーを少しいただく必要が有りそうです。別にこの歳で人倫の路を踏み外す・・・なんてわけでは有りません。何よりも、お相手がございません。
 残念なことでは有ります。今回、カキコミの最後は「花山院御製『千載和歌集』所収の和歌で締めくくります。
 「なべて世の 人よりものを思へばや
                               雁の涙の 袖に露けき」  

2012年6月23日土曜日

「木のもとを すみかとすれば おのづから 花見る人と なりぬべきかな」花山院

 栃木市太平山の麓にございます、六角堂から太平山神社までの狭い参道は、通称「あじさい坂」と呼ばれ、只今五分咲きだそうでございます。かなり遠方からもご覧になる方がいらっしゃいます。
  「修行中の身だけど、このまま花咲く木の下に居続けたら私はただの浮世人になってしまうかもなあ」との意かと解釈いたします。ただし、この場面での花は桜花かと思います。間違っていたらごめんなさい。
 さていよいよ花山天皇に迫ってまいろうかと、思ったのですが、いやいやどうにもなかなかな人物でございました。
 少し、まとめて、このブログ上にカキコミするには、未だ少々脳煮え状態が続いております私には、整理する作業が必要なようです。言い訳では有りません。
 ただし、一条天皇と花山院の間柄というか、親密度について知りたかったのです。そうすることで結果として、藤原実方と花山院との深いつながりも透けて見えるかな、と期待したわけですが、やはりなかなかでして、こちらも時間を下さい。ただし、「権記」の中で、花山院が熊野参詣を行おうとすることに対し、長保元年十一月十五日に「花山院御幸を諫止」としてストップをかけています。その数日前から何度か一条天皇と花山院との間を行成が往還しては、帝の意向を伝えるのですが、花山院が受け入れないわけです。結論から言うならば、花山院の熊野行きには時期がまずいというわけですが、一条天皇を理論派、正統派とするなら、花山院は直情径行派、浪漫派、色情過多でありながら仏法への帰着心の強い人物であったといえます。実方とは相性が合うはずですが、一条天皇とは肌合いが違いすぎますようです。又、改めて書きます。
 

 ところで、本来の私の本業がどうもいまひとつです。この件にだけ没頭しても、いられません。実は、又しても画期的な新作、創作和菓子が頭の中では出来上がりまして、材料も手に入りました。    
 明日、試作の予定です。
 乞うご期待、と申し上げておきます。
 

 台風が通り過ぎた翌日の
秋の気配を感じさせる雲の動きです。
 現実は蒸し暑さを感じさせる梅雨時真っ最中の気温と湿度ですが。

2012年6月19日火曜日

一条天皇(980~1011年)

 遡ること、1001年前の寛弘8年(1011年)6月13日に、一条天皇は病のため、三条天皇に即位します。同月9日出家、22日に崩御なさいました。昨年六月(旧暦)は一千年忌となります。980~1011年の短い生涯でした。
 関心のない方には、誠にどうでも良い話かもしれませんが、藤原道長全盛期の天皇として、又、御歳七歳で花山天皇から即位し、31歳でなくなる直前まで天皇として活躍した方でした。平安王朝全盛期の宮廷貴人の頂点に立ち、紫式部や清少納言、和泉式部を始めとする沢山の歌人や作者、書家が活躍した時代を駆け抜けました。
 当時の記録(つまり、私にとってのネタ本でもある「権記」藤原行成の日記による、知識の披瀝でございます)によりますと、一条天皇の御世ほど、宮廷文化が花開いた時代は日本史の中でも極めて稀有な時代であったと思います。
 一方で、流行り病が毎年の如く繰り替えされた時代でもありました。当時、医学らしきものもない時代にあって、阿倍清明(はるあきら)を始めとする陰陽道がそれらに変わるものとして確固たる地位を得ていたことも事実であり、そのための天文学までもが、長足の進歩を遂げた時代でもありました。
 長保二年(1000年)三月一日に日食が有ったそうですが、「権記」には従前から当然の事実として周知されており『三月一日 戌寅。日蝕が有った。そこで結政所(かたなしどころと読むそうです)に参らなかった。左府(道長)の許に参った。』(中略)結政所とは、いわば国会のような存在と思いますが、『日蝕の日は、廃務とするのが通例である。』
ところが何名かが出仕していたので『左少弁(藤原朝経)が
云ったことには「陰陽寮が中務省に申したのですが・・(中略)、そこで私が重ねて云った事には、この日蝕は諸人が知るところである。(中略)中務省が上申を懈怠したという違例によって結政の儀を行うのは、如何なものであろう」と』。
「中弁以下は、答えるところはなかった。丞相(道長)がおっしゃって云った事には「この事は尋ね問うべきことであろうか」と。しばらくして、院(藤原詮子)の許に参った。召しが有って御前に伺候した。退出した。』。
 一日の行動が、しかも仕事をしなくてもよい日に、行成は
あっちに行ったり、道長の下に二度も行ったりしたことが記されています。笑っちゃうというか、よくもまーと言うか、実に几帳面にして、こまめにして、フットワークのよい人物であることが分かります。この日記の全てがこのような形で 
進行します。 

  何ゆえこのような事を調べるというか、読み込んでいるかといいますと、全ては「藤原実方」に原点があります。今日、書いてきた一条天皇の前の天皇、即位後は花山院(かざんいん、と読みます)となりますが、彼と一条天皇との間柄というか、つながり方に興味を持ったからです。花山院が熊野参詣を何度も繰り返しますが、そのこととは別に
藤原実方との間に、沢山の詠み交わした和歌が残されており、親密なる友情関係が有ったことが推測されるからでもあります。
 

 台風4号が近づいております。外は風雨が強くなってきました。今夜、これからホテルサンルート栃木様の納入業者による協力会の総会があるのですが、出席者数が心配です。役員をしておりまして、色々と深く関わっておりますので「廃務」とはいかないのです。
 スミマセン。次は2~3日中に書き続けさせてください。
 もっとも、こんなことに興味を持ってくれる方は少ないですよね。平安時代かぶれの、可笑しなオッチャンのしょうもない日記でございます。ですが、書き続けさせてください。

2012年6月15日金曜日

草臥〔草臥れる〕

 山口瞳先生、晩年の俳号、とでもいうのでしょうか「山口 草臥」と名乗っておりました時期がございます。
 

 何とか無事にイベントが終了いたしました。
 残りましたものは、疲労感、倦怠感、徒労感に一抹の哀愁感プラス達成感ですか。

 しょもないオッチャンが、力みすぎやで、ほんまに。
 各店舗分のオリジナルな捨て看板つくりから、チラシやポスターの配布など、何で一人でお前がそこまでやるねん、と、自省の日々です。確かに、作業分担すべき点は多々有りました。しかし、全員のスタッフの温度差が分かっていると、そんなら説得する前にやっちまおう、ということでした。
 役所などは何回も足を運び、そのたびにお菓子を少々。
 他の誰が出来るかいな、と、言うのはわちきが間違っています。やらせれば良かったのです。今頃、しょもない話ですが。
 ともかく、最終日の午後から、やたらと体調が悪くなり、翌朝は点滴、一昨日は「タイ古式マッサージ」の日を過ごしました。
 でも、お祝いや、お土産などをお持ちくださる方もおりまして、何はともあれ盛会にて終了いたしましたこと、この場をお借りいたしまして、ご来場くださいました方々に厚く御礼申し上げます。
 それでは、ご来場いただけなかった方のために、せめて写真だけでもご紹介いたします。
 あれだけ広かった会場が
実にファンタジーを感じさせてくれるアートな空間となりましたこと、実感いただけると存じます。
 その日の、終了間際に撮りましたので、いささか閑散としております。「午後3時までにご入場ください」とは少し早すぎたようです。お勤め帰りの方のためにも、スタートを遅らせて夕方6時位まで開場しているべきだったかなとは、欲張った話かもしれません。

 疲れていますので、次週は沢山カキコミを、再会いたしますが、本日はこれまででございます。

2012年6月4日月曜日

「とちぎ物造り工房」いよいよオープンです。

 日頃からごひいきいただくお客様のためのおもてなし。
 そして、街なかの空き店舗を活用しての、異業種ながらコラボしての「とちぎ物造り工房」が間もなくオープンとなります。
 前回の反省点をクリアー致しまして、3倍に広くなった会場でのイベントでございます。正直、一寸驚く空間が仕上がるのではないかと、開場前に自負しております。
 既にこの会のための打ち合わせを何回開きましたでしょうか。それぞれの、仕事が終了してからの打ち合わせ会ですので、毎度夜7時半スタートにて、スーパー等で買出しした、お弁当を食べながらの深夜までの打ち合わせでした。
 其々が其々のプロであるという事は、例えば概ね納得のいく事柄でも、納得できない者も出てくるわけでして、それらの一つ一つを合意に持っていくのは、多分、今の国会議員さん達のやっていること以上に困難な作業の繰り返しであったことを報告しておきます。正直、私にはこれが最後の、責任者としてのコラボだろうといえます。    
 始まる前に疲れました。
 と、得意のぼやきが出ておりますが、三日間、私は会場につめております。当日券も、お土産はつきませんが、ございます。
 お散歩がてら、お時間が取れますようでしたら、是非お立ち寄りください。

 ところで、本来でしたら、匿名でのコメントに対しては、返答すべきではないのでしょうが、余りにもしつこいのと、間違った解釈をされていますので、この場にて二点だけ、返答しておきます。ただし、今後も匿名でしたら一切無視致します。コメントはお止めください。
 栃木市指定第二十七号として、「一、種別 天然記念物  栃木市吹上町 二、名称 さしも草」が、昭和三十六年に指定されております。ただし、国の指定天然記念物となると、それなりにかなり細かい調査の上での指定となるのでしょうが、市の指定ということは多少ゆるさがないとはいえないとも思っております。が、事実は事実です。一千年以上前から、吹上町に「聖観世音、伊吹山善応寺」というお寺がございます。その境内に自生していた蓬が、少し他の所の蓬とは形状が違う、ということです。
 そして、私のお店での「草餅」はこの「さしも草」を百㌫使用して仕上げており、お客様から好評いただいている、ということです。味も香りも蓬そのものでなかったとしたら、虚偽の原材料を使用しての販売となってしまいますし、好評を得ることは不可能です。
 残余のことは、ご自由にご研究して下さい。

 イベントのためのポップ(午前中、半ば自作による会場前のパネルの貼り付けをしました)や、肝心な商品作り、メデイアとの取材応対等、多忙を極めております。滞りがちなカキコミ、お許しください。