2014年10月31日金曜日

「とち介」せんべい 新発売です。

 全国各地にご当地自慢のゆるキャラがございます。
 栃木市も遅ればせながら今年から「とち介」なる、ゆるキャラを登場させました。これが中々に可愛くて、今年度の「全国ゆるキャラグランプリ」に参戦いたしました。結果、今現在は国民皆様からの投票は終了し、暫定となりますが、全国にて第7位となっております。
 かのこ庵としては、街おこしに少なからず関心を持ってはおりました。
 結果、少し悩んだのですが、大阪のお菓子メーカーからの勧めがありまして作ってしまいました。いわゆる「麩焼きせんべい」という塩気の無い、絵柄を砂糖にて仕上げたおせんべいに「とち介」を登場させました。固有記号と、栃木市からの絵柄使用承認書と、その番号を表示しまして発売開始となりました。つまりかのこ庵は販売者となります。

 かのこ庵だけでなく、市内の東武百貨店様やヨークベニマル様を始めとして市の観光協会、更に市内のホテルさんも取り扱っていただいております。
 まあ、正直なところ、私がゆるキャラ「とち介」の販売のために走り廻り、商売につなげるなんて、つい2か月前には考えてもおりませんでしたが、あっという間の出来事となりました。
 それにしても、何か知らないうちに在庫が少なくなっております。つまり売れているのですね。決してお安い価格設定ではないのですが、人気があるということですか。
 あくまでも栃木市内限定での販売です。
 お取り寄せも可能ですが、栃木市以外の方に売れますでしょうかね?

 それにしても、いささか私が、ゆるキャラの販売とは、若干の違和感と滑稽感を感じております。自虐的に。


 話題はがらりと変わります。広島から堂畝様ご家族が来栃いたしまして、寺社仏閣等をご案内させていただきました。
 歌枕に詠まれた「三毳山」から「大慈寺」、「村檜神社」を経て途中、太平山六角堂手前にありますパスタの店で昼食(個人的な私のイメージはあまりパスタ、てな雰囲気はないのですが)。そして太平山神社を拝観、更に足を延ばして「下野風土記の丘資料館」と周辺の散策。前日は木枯らし一号が吹いておりましたが、誠に穏やかな快晴の秋晴れの下、少しはのんびりしたプチ旅となったのではと思います。
 それにしても、広島からお車での来栃。
 お疲れの様子も見えず私と歳の差を感じました。ご満足いただけたかどうか、でも楽しい時間を共有できたと思っています。
 それにしても、三毳山公園や風土記の丘公園にて、桜の花が5~6分先でして、そういう種類の桜なのでしょうが、一寸驚かされました。

 
 
 

2014年10月28日火曜日

「高野山の名宝」サントリー美術館

 早起きし(いつもの事ですが)朝の内に一仕事しまして定休日でしたが、その足で東武電車に乗って六本木です。向かった先は、六本木ミッドタウン内にあるサントリー美術館です。
 「高野山の名宝」展が開かれておりまして、国宝の運慶、快慶作の仏像群を拝見してまいりました。やや急ぎ足で…。
 

 午後2時にどうにも不調続きの冷凍庫の入れ替えを行う予定が入っておりまして、時間を気にしながらの「名宝展」でございます。

 「高野山開創千二百年記念」という事でして生涯現役を念頭に、がつがつ働いている我が身としては、多分訪れることはないであろう「高野山」故のプチ旅となりました。


 会場に入って先ず「弘法大師座像」が等身大よりやや大きめに鎮座してます。お像の御尊顔が少しだけ左を向いています。
 
 
 通常は正面を向いて黙想状態が多いのでしょうが、ある行者が三十年、約一万日にわたりこの像に参詣していたところ、一夜夢の中に大師様が現れ、行者の功を愛でて東を向いた。夢から覚め、像に詣でると、お像のお顔が左を向いていた、という、いわくあるお像です。穏やかなそれでいて尊厳なる表情を拝見できます。次に空海二十四歳の時の直筆が展示されております。国宝に指定されていますが、その若き時の勢いを感じさせられる筆致に圧倒させられます。
 次から次にと、ご紹介したき展示品の数々ですがキリがございません。しかし、今回の「名宝展」のために八体の「八大童子象」が揃って公開されています。「運慶」作の全て国宝なのですが、一体一体それぞれに思わず両手を合わせさせられます。
 目の輝きが活き活きとしており、実際の童子を見ているかのごときでありながら、それぞれの内面性を具現的に、理知的に、緊張感あふれる、又、肉感あふれる豊かさも感じられます。今回の傑出した御仏(みほとけ)群像でした。
 誠にキリがないですね。東京では12月7日まで、大阪では「あべのハルカス美術館」にて、明年1月23日より3月8日まで開催が予定されています。関心がございましたら是非お出かけ下さい。

 本日、藤原実方同盟(?)の堂畝様が再訪下さいます。
 堂畝様のブログ「花林 ~小枝の音色に誘われて~」で随分と勉強させられましたが、お若い歴女様でございます。お子様とお母様を伴っての「吉川英治記念館」に於ける写真展での銅賞受賞を好機としての来栃でございます。話題豊富、話が盛り上がるのではないかと、今から期待しております。
 しかし、全くの他人とは言えませんが、彼女のブログ上にて己が登場してきます事、いささか照れますね。実は、CATVの〔突撃インタビュー〕で今週いっぱい、市内の和洋菓子店4店が紹介されてまして、私が登場しているのです。更に12月には同局の「うらら」の取材申し込みもあり、毎年何らかの形でTVの画像に出没してますが、これも結構老いを感じる昨今、ほろ苦くもあります。
 恥ずかしさも感じております、本当は。

 ところで、色々と写真を掲載しておりますが、知的所有権や、肖像権等の問題がございましたらお許しください。悪意などはこれっぽちもなく、ただただ、ご紹介したかったのでございます。

2014年10月13日月曜日

藤原実方と清少納言

 こんなにも、何の役にも立ちそうもないことを追い求める私は、かなりのヒマ人と思われそうです。しかし益々深みにはまっていく己を、いささか持て余し気味でありながら、やめられそうにありません。忙しいのにねー。

 平安時代、陸奥に下向する前の青年貴公子「藤原実方」の詠みし和歌の数々は「実方集」に登場してまいります。
 今回は「実方集原型甲本の形態と編纂意図 ―清少納言との関係―」との表題による仁尾雅信様の評論より「そうか、そういうことだったのか」という引用でございます。
 
 「実方集」といっても伝本が沢山ございまして、「宮内庁書陵部蔵『実方中将集』」を中心とした甲本の伝本群と「群書類從所収の『実方朝臣集』」等の類従本の伝本群があります。
 このような中で仁尾様は甲本の伝本を中心に清少納言と実方との関係を活写してくださいました。

 「枕草子」という、いうなれば名エッセー集とでもいうべき作品を残した清少納言ですが、何度か実方に関する記述が出てまいります事、このブログをお読みになっていない方でも、ご存知と思います。
 歌人としても武人としても高名であった実方ですが、『古事談』に「一条院御時、臨時祭試楽、実方中将依遅参不賜挿頭花・・」として臨時の試楽に遅れてきた実方が呉竹の枝を当意即妙に冠物にさして舞を務めた話があります。この時の実方を清少納言は離れた場所で見ていたことが書かれています。舞人実方に対する憧憬が読み取れます。又、枕草子第三十五段「小白河といふ所は」にて、今度は歌人としての実方を高く評価しております。いずれも未だ深い仲になっていない頃のあこがれの人、実方の事です。

 少し、話を飛ばしてまいります。
 仁尾様曰く、「原型甲本の巻頭部は、清少納言とのゆかりの詠草群である。(中略)巻末部にも第二章で詳述した如く清少納言との贈答歌が収録されている。このように原型甲本は、清少納言関係の歌を巻頭巻尾に収録するという清少納言を念頭に置いた編纂方針がとられているのである。原型実方集は先学諸氏のご指摘の如く長徳元年陸奥赴任の際にそれ以前の歌稿を纏めたものであろうが、実方は、その原型実方集を祖型として、清少納言に贈呈するするため原型甲本を編集したのではなかろうか。」

 「清少納言は実方が陸奥へ下る直前まで(恐らく下向以降もそうであったと思われます)実方を恋慕っていた事を窺わせる惜別の歌が異本『清少納言集』に所収されている。
   実方の君の、陸奥国へ下るに
 床も淵 ふちも瀬ならぬ なみだ川 そでのわたりは あらじとぞ思う

 清少納言は実方の下向に同伴することを約束しながら、何らかの事情でそれが果たせなかった。・・・」

 枕草子、最終章段
 「まことにや、やがては下る」といひたる人に
 思いだに かからぬ山の させも草 誰かいぶきの さとはつげしぞ

 が、ございます。

 実方の有名な和歌として小倉百人一首の第五十一番目(これは名誉ある順序なのです)には
 また、人に、はじめてきこゑし
 かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしもしらじな 燃ゆる思ひを

 この歌は実方が清少納言に初めて贈ったプロポーズの歌であるとしています。やはり二人の仲は親密なものがあったといえますが、それを表には出したくなかった事情もありました。

 そして、陸奥下向の前に「実方集」として清少納言に贈った、と思われるのです。
 「思ひだに」の清少納言。「かくとだに」の実方。この類似性は否定し得るべくもありません。


 仁尾様は「実方を彷彿とさせる実方ゆかりの歌で三巻本「枕草子」を完結させたのは、やはり、実方を偲ぶ思いがあったからであろう。そして、それは、実方から贈られた原型甲本が自分と交わした贈答歌を巻末に置き、また巻頭にも変わらざる思いを訴えた歌があり、実方の自分への恋心が窺え、清少納言もその実方の真意を理解し、その原型甲本に唱和しようとしたからではないか。」


 「結び」として(前後は略しますが)「実方は、自分の不変恋を清少納言に訴えようとして、下向の折にこの原型甲本を編纂し贈ったのであろう。」「枕草子は(中略)最終章段に実方を彷彿とさせる歌を収録して完結させたと思われる。」とし、これらの考察は、実方の陸奥下向の理由を解明する一環としてのものとしております。

 次回は実方没後の熊野の事、「実方院」、そして何故、歌枕としてだけでなく陸奥が問題なのかを書きます。

2014年10月4日土曜日

藤原実方の和歌を今回は中心に。

 又しても大変なご無沙汰となってしまいました。すみません。
 それにしても何とも忙しい今年の九月でした。
 月初めに一日休んだだけでございまして、我ながらこんなに働いた記憶がございません。お店は昨年並みでしたが、何しろ当方が忙しいときは量販店さんもお忙しいわけでして、其処の所が些か私の考えが甘かった、ということです。うっかり「特設コーナーを設けますから…」の話に乗ってしまい、よくここまで体力が持ったものだと、我ながら感心してます。その間にも色々と仕事以外の時間を取られることもあり、半分自分にあきれさせられつつ、褒めてもやりたくなります。その割に、儲かっているのかどうか心配もありますが…。

 寝室に入り、ぐっすり眠りたいがために(いけないのですがね)「『実方集注釈』竹鼻續」先生の著書を少しづつ読み進める日々でした。ただし、同じページを何度か読み直したりしてましたが。

 平成五年初版、日本古典文学界監修、貴重本刊行会の発行による、お足の事をいっては何ですが二万円近くもする本でございます。私が読むには、勿体ないご本です。

 藤原実方の詠いし和歌を中心に、その背景、実方の人物像や、当時の諸相を書いております。誠に開眼させられることの多い著書でした。残暑の無かったかの如くいっぺんに秋も深まっていく感じですが、十月六日は十三夜でもございます。その辺にちなんだ実方の和歌を先ずはご紹介します。


 「吹く風の 心も知らで 花薄 空に結べる 人や誰そも」
 返し
 「風のまに 誰結びけむ 花薄 上葉の露も 心おくらし」

 仲の良かった命婦が、「ススキを結んだのは誰かしら、不風流な事をなさる方ね」と詠います。ススキを結んだのは風でススキがなぎ倒されないように、との配慮なのですが、和歌の世界が横溢していた時代です。風と薄の関係を知らなくてはなりません。それに対して実方が返歌をします。
 「風の吹き止んでいる間に、誰が花薄を結んでしまったんだろうか。薄の上葉の露でさえも風に遠慮して置いているらしいのに」と

 深養父集に「花薄風になびきて乱るるは結び起きてし露や置くらん」他、がございます。
 親密な関係にあった内膳命婦が、「和歌における風と薄との関係を踏まえて詠み送ってきた歌に対して、実方の歌では風と薄と露の三者による複雑な関係にして、即座に詠み返しているところに、実方の才気がうかがわれる。」と評しています。


 女に
 「いつとなく時雨ふりぬるたもとにはめずらしげなき神無月かな」  
 対の御方の少納言ききて
 「大空のしぐるるだにもかなしきにいかにながめてふる袂そは」

 (いつということもなく常に時雨が降りかかったように涙に濡れている袂には、特に時雨の降る十月も、いつもと違った感じがしないことですよ。そして清少納言です。対の御方にお仕えしていた少納言がこの歌を聞いて。大空がしぐれるのさえ悲しいのに、いつも時雨に濡れているというあなたの袂は、どのように長雨の降るのをもの思いながら過ごした袂ですか。と)


 実に簡略化して書いていますが、竹鼻先生は誠に微細に、そしてかなりの行数を要して、その前後の経緯や時代背景を解説なさっております。 
 この解説の終段に「そして、この贈答歌は清少納言が為光家の家女房に転じていた寛和二年の事実と思われるが、対の御方という前歴によって紹介しているのは、清少納言との交渉の事実を秘匿しようとしたためであるといわれている」

 歌意もそうですが、当時の青年貴公子、実方があちらこちらの女性と懇意なる付き合いをしていたことも偲ばれます。

 又、いつ終わるともわからない実方考が続きます。
 

 実はこの忙しい最中に、我が家では傷んできた屋根の改修工事がありました。平成のお金ばかりがかかる大修理となってしまいました。