2013年3月30日土曜日

「花盗人」と「和泉式部」の恋

 唐突かもしれませんが、中宮定子や清少納言等を勉強してゆく過程で、少しだけ和泉式部に触れてみたくなりました。赤染衛門に就いても気になる存在ですが、まだまだここに書きこめる程に、調べてはおりませんのでだいぶ先の事になりそうです。
 でも「栄花物語」を赤染衛門が、かなりの部分をお書きになった方だったとしたら、無視はできません。
 かくして残り少なくなってまいりました、私めの人生ですが、平安物の文書に押しつぶされながらあの世まで引きずってゆきそうな雰囲気でございます。

 藤原公任の「公任集」と「和泉式部集」とに、敦道親王と和泉式部が公任の住む白河山荘を訪れ、手折った花をめぐっての贈答歌が残されております。この季節に合わせた訳では無かったのですが「花盗人」の語呂がよろしいようでして。
 公任集では

 帥宮(そちのみや、敦道親王のこと)、花見に白河におわして
 『われが名は 花ぬす人と たたばたて 
   唯一枝は 折てかへらん』
 とありければ
 『山里の 主に知らせで
       おる人は 花をも名をも おしまざりけり』

 和泉式部集にも全く同様に残されております。
 白河山荘の花があまりにも素晴らしいので、花盗人の名が付いてしまおうが構わない。それよりも一枝折って帰り、二人でその花の美しさを愛でよう。との趣旨の和歌ですが、留守だった、白河公任からの返歌を含めやりとりが続きます。この山荘は小白河にあったとされ、春になると花見に殿上人たちがおとずれる名所だったようです。
 
 以上のことは、長保五年(1002)以降のこととなりますが、それは和泉式部が、敦道親王との溺愛状態になり親王の住む南院に移り住んだ年から推定されるわけです。何首もの花を愛で、花盗人としての名前が上がっても、それを恥じぬ風雅さが興趣をそそられます。

 和泉式部とは、和泉守、橘道貞の妻となり、任地に同行していたことからその名がつきました。しかし帰京後、別居状態となり、冷泉天皇の第三皇子為尊親王との恋愛状態に入りますが、長保四年六月に親王が崩御。しかし、一周忌もすまない翌年四月十余日からは、為尊親王の弟、敦道親王と熱愛状態に入ってしまいます。
 寛弘元年四月十七日の道長による「御堂関白記」には、年ごとに華美になる「賀茂祭」のその華美を禁じる言葉が伝えられています。しかし、その言葉に逆らうかのような敦道親王と和泉式部の行動が残され大きな話題を京都中に撒き散らします。
 「大鏡」(巻四)に、和泉式部と帥宮敦道親王が同車し、華やかな衣装で賀茂祭に出かけたときのことが詳しく記されています。
 「車の正面の簾を半分に切り、親王の方は巻き上げ、和泉式部側は簾を降ろしてはあったものの、彼女はそこから袖を長く出す、と供に紅色の袴も地に着かんばかりに垂らしていた。」と。又更に人々の目をみはらせる行動に出ます。「袴に物忌みを示す赤い大きな色紙をつけていた・・・」。
 「栄華物語」(巻八)には、帥宮、花山院など・・・」として、その日の華美を競うかの如き振る舞いを、見物人達が驚いて見ていたことを記しています。花山院が彼らしく、ここでも登場してまいりますが、今回は和泉式部がメインです。
 彼女が、当時としても自由奔放に、好きな男の元へと向かったのか、いや大事にしたい女性であった、ことは事実なのでしょう。というよりも、貴人たちから愛されるタイプの存在だったというべきでしょうか。いるでしょう、誰からも可愛がられるタイプの女性が。
 しかし、彼女の幸せは長くは続きません。
 寛弘四年十月、敦道親王がお亡くなりになってしまうのです。親王二十七歳の時でした。
 ここでおさらいの意味も込めて、私にとって当時の主要な人たちの一部推定となりますがその時点での年齢を記しておきます。
 前述の賀茂祭は寛弘元年(1004)の事と思われます。
 当時の道長達の年齢です。道長39歳、和泉式部28歳、敦道親王25歳、一条天皇25歳、彰子17歳、行成30歳、清少納言39歳、紫式部28歳のようです。生年が明確ではない方もいらっしゃいますので、多少の誤りはご容赦のほど。
 「御心の少し軽くおわします」と評された、為尊や敦道に和泉式部を含めて軽率な点があったことは事実でしょう。それにしても花山院の行動には、時の権力者に対する、華美なることの禁止等も含めて反抗心もあったと推察されます。一方、式部たちの行動は、世間の常識を覆し、二人の中を周知させるという思い切った行動に出たものと考えられます。赤い色紙を見せびらかすことにより、為尊親王との決別というか、区切りを、そして敦道との恋愛関係を隠蔽するよりも積極的に明らかにする、という意図を感じます。
 しかしそれでも和泉式部の多情なることは、打ち消し様はないようです。
 ところで本来の夫である道貞ですが、この寛弘元年正月の叙目にて陸奥守として陸奥に下向することが決まり、三月には京の都を離れます。実方の後任の後任となるわけですが、何か因縁を感じます。和泉式部は北の方の立場のままでした。
 道貞は陸奥下向の途次、当時尾張にいた赤染衛門のもとに立ち寄り、歌を詠み交わしていることが「赤染衛門集」に出てまいります。どうも陸奥に向かう方達には、業平を含めて何か鬱屈したものを感じてしまいます。道貞もそのようでした。

 話は少しそれますが、先程の主要人物の年齢を見ると、清少納言の年齢と紫式部や、和泉式部達の年の差を見出せます。多少の誤差があったとしても、十歳は離れています。和泉式部も、紫式部も現実には、一条天皇后彰子に仕えたことにもなっているのです。それゆえに宮中内での女房の話として、これまで名前を挙げた方達の噂話と言いますか、参内なされる方たちのことは頻繁に、秘めやかに、ゴシップとしてやり取りされたであろう、と想像できます。
 
 長くなりました。もうすこし、本来書きたかったことを、次回に書かせていただきます。尚、今回の書き込みは「平安文学論究」より井伊春樹先生の『公任集覚え書き』を参考にさせていただいておりますこと、付記いたします。
 
 

 左程に、お付き合いがあったとは決して言えませんが、45歳になる女性がその若さで、病に勝てず亡くなりました。些か、その御歳から顧みてショックを感じています。全くこのブログからは、別儀ながら、ご冥福を祈念し、人知れず見守っていた者がいた事を記しておきます。安らかなることを…。 

 ところで、今回の写真は全てご近所のお花さん達ですが、これでは私の「花盗撮」ですね。

2013年3月28日木曜日

「それでも飲まずにいられない」開高健編

開高先生の編著になる表題のご本がございます。

 性懲りも無く、相変わらず飲酒について逃れることができずに、遂には、全く我が身のだらし無さをさらけ出すような、本を読んでおります。

 宿酔いに関するエッセーが多いのですが、池田弥三郎先生の作品から『酒がかわいそうだ』と、しまして『酒好き、というよりは大酒飲みだったわたしの父は、生涯をただ一人の市井の人として過ごしたから、別に改まった「庭訓」のようなことは言い残しもしなかったし、叱る時でも文句を言うのではなくて、ただガーンとどなるだけだった。あっさりしたものだった。
 その父が、何か怒鳴ったあとで、ぶつくさ言っているので、聞いてみたら、何かしくじった知人が、あやまりに来たのはいいけれども、「酒の上のことだから」勘弁してくれ、と言ったのが、気にいらない、というのである。「酒の上のことだから」なおさら勘弁できない、失敗の原因を酒に持っていくなんて、酒飲みの風上にもおけない、それでは「酒がかわいそうだ」と言った。「酒のせいにするのは酒がかわいそうだ」というのは、いい台詞(せりふ)だと思って、今に忘れない。』そうです。
 長くなりましたが、酒飲みとはそういうものです。
 コップにお酒の類を少しでも残して、その場を去るなんて事は、なかなか出来難いものなんです、呑んべいには。
 山口瞳先生の作品も当然ながら、三作も登場します。
 曰く『<宿酔の特効薬>は会社で真面目に働くことです』とか、 『つらくても<あいつは休まない>というところを』。
 又、 『井伏鱒二先生は、ぬるい風呂に入られるそうだ。その湯を少しずつ熱くしてゆく。そうすると、さっぱりとして、宿酔がなおってしまうという。
  ある人が、先生、それからあとどうなさるんですかとたずねた。
井伏先生は、妙なことをきくなという顔で答えられたそうだ。「きまっているじゃないか。また飲みはじめるんですよ」』と。
 パスカルは「真理の発見は、酒を飲みすぎてもだめ、酒を飲まなくてもだめだ」と、又、ユーゴーは「神は水を作った。人は酒を作った。」
 キリがないのでここまでにしますが、「酒なくて、なんで己が桜かな。」と思います。他にたいした楽しみがあるわけじゃなし。ただし他人様より少しだけ酒量が多いのですねー。

 
 昨日は孫と、その友達二人の合わせて四人でハンターマウンテンを楽しんでまいりました。
 実に細かい霧雨状態でして、かなり濡れてしまいました。いよいよシーズンも終わりですね。  それにしても、疲れますねー。   
 
 もう明らかに歳です。
 しかし、山の頂は雪がたっぷり残っておりましたが、下界は桜の花を含めて、春花繚乱の如くです。あちこちのスナップをお楽しみください。
新緑ですよ。もう。
今朝、悠々たるもんです。





 
 

 
 次回は「和泉式部の熱情」をテーマに、少しだけ脇道に入り込んでみます。




2013年3月21日木曜日

「ふたたびの男女となりぬ春の泥」時実新子

 ひとまず未だお彼岸中ではございますが、ピークをなんとか、昨年を上回って乗り切ることができました。卒業、卒園式なども重なり、それなりの繁忙期でした。しかし、この春の陽気には驚かされます。今日はストーブをつけていますが、ここ一週間ほどの暖かさというか、昨日までの夏日と言える気温には驚きを通り越しており呆れます。栃木市での桜の名所はあちこちにございます。     概ね、今年は4月5日(金)から桜祭り開催が予定されておりますが、既に開花が始まってしまったとの話が聞こえてまいります。
 嫌な予感となりますが、今年の夏はひどい猛暑となりそうな雰囲気です。

 先月末に「山口瞳が好きだ」というブログを開いていらっしゃる方からコメントと「山口瞳通信」という冊子を頂戴いたしました。山口先生のフアンの方の集いが存在しておりますこと、それとなく承知はしておりました。しかし、所詮は地方の和菓子屋でございます。一人で勝手にこのような場にて、好きなことを好きなように、悲しき事は、偽らずに書き込みする一人の私淑していた者がいた、それで十分と思っております。ただ、このブログが目に止まってしまったようでございます。
 お店の中には関頑亭、敏両先生の書画に山口先生の讃が入りました作品や、新聞の切り抜きなども展示しております。時期により色紙等は入れ替えたりしますが、それほどに作品を抱え込んでおります。お客様から「どういうご関係なの」と随分聞かれますが。
 さらに何よりも店内正面には「おかげさまで 今日無事 ありがとう」と大書していただいた書が鎮座しております。
 ご覧頂くだけで結構です。北関東にお出かけの節はお立ち寄りください。和菓子の自信作同様、自慢できる展示品でもあります。

 今回のタイトルとしました川柳は、コメントなしでございます。ただし、詮索無用でもございます。
 

 何が言いたいのかわからない、それでいて簡単なカキコミとなりました。少し疲れております。ご容赦の程。

2013年3月15日金曜日

「酒呑みの自己弁護」山口瞳

 初版が昭和48年ですから,今から思うと随分と旧作になります。通勤に電車を利用するなんてことありませんので、いまでも「夕刊フジ」という新聞が残っているのか全くわかりませんが、その当時、注目の好評連載エッセーが、一冊の本になりました。
 どうして今頃懐かしい作品を、と、お思いでしょう。
 二日前に、私の主治医の江口ドクターから、強く節酒の勧めを説かれました。その数日前に馬鹿なおっちゃんです、呑み過ぎてしまいました。原因は分かっております。ただ、結構今回はしこりというか、悔いが残る酒となってしまいました。そんな時、昨晩自室の本棚から偶然に山口先生のこの著作が眼に入ってきたのです。
 しかし先生はショートエッセーに関しても、誠に不動の巨星と言えます。
 パラパラとページをめくっておりましたら、「泰然自若」というタイトルのページがありまして、又しても反省しきり状態に陥りました。
 『何が厭だと言って、酒を飲んでガラッと態度が変わってしまう男ほど厭なものはない。』として、説教癖、『困るのは、彼の言うことは、いちいちもっともで、正論であることだ。』
 又、『ダジャレを飛ばす人がいる』とか、『猥雑になってしまう人である。具体的に言うと、女性に対する態度が粗暴になる人である。』
 どうも我が身のことをさておいて、批判するのはいけないのですが、上記何項目かに当てはまる男と呑んでしまいました。少しづつイライラしてきている己を感じながら、ピッチが確実に上がっておりました。

 本書には全てのページに「山藤章二」様のイラスト、というよりもそれ自体が、ひとつの作品になっているとも言える素晴らしい出来具合の物語を読むような挿絵が掲載されております。実に楽しめる作品でして、よろしかったらご一読ください。
 少しだけ平安時代物から離れます。私自身が、もっと吸収しなければならないものがあると物凄く感じてしまったのです。
 中宮定子を少し書き、清少納言をじっくりと、観察し、「藤原実方集」の私見を開陳する。
 の、予定でしたが、手元の書籍だけではあまりに表層的ですし、残念ながら繁忙期でございます。お勉強は少し時間がかかります。G/Wでも過ぎれば別ですが、現状は無理でございます。


一進一退の春です。

 来週水曜日はお彼岸の中日です。当然、仕事です。更にその次の週の定休日には孫との約束にて、スキーに出かけます。スキー板をはくことはあきらめてはいますが、地獄の2週間とならないことを皆様、見守ってやってくださいです。
それにしても10日程前から、ついに花粉症の症状が出てしまいました。暫く、薬を飲みつつ我慢の時節でございます。

2013年3月11日月曜日

「知る人もなき別れ路に今はとて心細くも急ぎたつかな」中宮定子

 「江分利満家の崩壊」という、私にとりましてはショッキングな内容の、ご本の書き込みをいたしました。
 私淑する、直木賞作家「山口瞳先生」のご子息、正介様がお書きになったお母様のご逝去までの顛末が、淡々と細やかに記されております。
 その書き込みの中で、山口先生とは懇意な中であった池波正太郎先生が残せしエッセイ文を書きました。
 再掲します。
 『人間は生まれでた瞬間から死へ向かって歩み始める。
  死ぬために生き始める』と。
 こんな時代というか、世の中です。何時、何処で、どの様な死に方をするかを想像することは困難なことです。がしかし、丸二年が経過いたします。病を得て死を間近に感じ、辞世の詠を残せるものならば、残して死にたいものです。
 しかし、唐突に己の死への覚悟をする暇もなく、もがき、苦しみ、命を奪われる、絶たれる。ただただひたすら、安らかに、としか表現できません。そして残されし被害に遭われた方たちの心情。
 また、少なからず日本中の人も何がしかのトラウマを背負わされたはずです。
 しかしここ数日、震災関連の報道が続いておりますが、どこまでハード面での復旧は進んだのか(その進捗状態には憤りを感じます)。残されし人たちへのケアはどうしてこれほど進まないのか。
 話は少し変わりますが、数日前に栃木県から「栃木県産食材の安全、安心について」というタイトルのアンケートが送付されてきました。その中に、放射能に関する風評被害についての項目もありました。「栃木県産、食材の安全性は、全てチエックされており心配はありません。」とあります。最後に何かご意見は、ということで書かせてもらいました。「通販での売り上げはわずかですが、中部地方以西の国民にとって、栃木県は北関東の最北、つまり福島県民には失礼ながら、お隣の県でもあります。さほど大差ない所、として見られておるはずです。もっと、東京より西の方たちへの発信を強めるべきです」と。
 それにしても確実に原発の再稼働はタイムスケジュールに組み込まれてきています。地震国日本、どこもかしこも活断層のこの国で、それでいながら、誰ひとり責任を取るわけでなく、その一方記憶の薄れることの早い日本人。
 この国民性あっての現状、とは理解したくありません。
「梅一輪二輪三輪千万輪」一晩で満開です。
 忘れてはならない心の傷を日本人すべてが背負い込んだ、今回の大災害です。と書きながら、何も出来ないでいる自分に少々苛立ちすら覚えます。せめて、「ならぬことは、ならぬ」と忘れずに発信し続けることが、重要にして私ができることだと思います。

 栄華物語鳥辺野巻に中宮定子の遺詠が三首出てまいります。
 その評論を私がここで書く事は場面としても、器としても自分で疑問を感じてしまいます。いずれ少しは別な角度から書きたくは思っておりますが・・・。

 3.11。忘れてはいけない日にちです。
 「季をひろう」高橋睦郎様は3.11忌として、正確には季語にはなりませんが『この場合の無季は季を超えているというべきか。』として、お二人のまさに絶唱とでもいうべき俳句を
掲載しております。
 宮城県在住の高野ムツオ様という方の俳句には
  「みちのくの今年の桜すべて供花(くげ)」、
  「春天より我らが生みし放射能」。言葉を失います。

 なんとも固有名詞の多い割には内容がバラバラの書き込みでした。すみません。

2013年3月5日火曜日

「権記」藤原行成、これが最後の巻。

 著者、倉本一宏先生は「国際日本文化研究センター」の教授をなさっております。平安文化に誠に造詣の深い方でございますが、藤原道長の「御堂関白記、上・中・下」、全三巻の現代語訳も出版なされております。何とも、私如き浅学の者には正直、驚きと共に少なからず、かなりの熱情が無ければ成し得ぬ事と感心いたします。

 長徳元年(995)九月二十七日、行成の日記です。長くなりますが、お許しください。  
「季御読経結願/陸奥守藤原実方、罷申(『本朝世紀』にもあり)
舞人としてのかざしを忘れ、笹の葉を使うという實方です
季御読経が結願を迎えた。戌剋、陸奥守《藤原》実方朝臣が赴任するということを奏上させた。先ず殿上間において酒一、二巡を勧めた〈内蔵寮が肴物を準備した。重喪人であるので、精進物を準備した。〉。その後、天皇は昼御座に出御された。蔵人(藤原)信経が、天皇の仰せを承って実方朝臣を召した。実方朝臣は召しに応じ、孫廂の南第一間に伺候した。       
 次に蔵人頭(藤原)斉信朝臣を召した。(中略)別に天皇の仰詞があり、また正四位下に叙された。禄を下給され、また仰詞を承って退出した。重服であったので、拝舞をおこなわなかった。」
 陸奥国の国司として、当時、現在の宮城県多賀城市にあった陸奥国庁舎の最高責任者の立場として都を離れる藤原実方を記しています。行成とはそりが合わないはずの二人ですが、几帳面なる行成の性格故に天皇との直接の謁見の記録が残されました。
 実方の父定時はその定時の弟、斉時が侍従となっており、定時も侍従になっていたはずですが、それ以後の記録がなく没したと考えられます。実方の出生年次は正確にはわかりませんが、天徳二、三(958~9)年頃と思われます。正直、沢山の研究者がおられるのですが、推測の域をでません。母は左大臣源雅信女ですが、やはり父同様早世してしまいます。小一条家の大将でもある斉時の養子となりますが、祖父は師尹であり藤原四家の内の小一条流の祖であり、娘芳子は村上天皇に入内、寵愛を受けます。正二位摂政左大臣を勤めた師尹、斉時、そして定時と良家の母を持つという、血筋としては相当な家系の出自となります。唯、早くに両親を亡くした経緯から、実方の人生に少なからず屈折した影響を及ぼしたのではないかと、実方を探求なさる先生方のご意見が多く拝見されます。
 「権記」からは離れてしまい、実方の事が中心になっておりますけど、行成はもういいでしょ。行成が残せし「権記」からの抜粋でもお分かりと思いますが、何しろ実方のことが書きたくて正直ウズウズしていたのです。ただし、行成の人物像も、結構ご紹介は出来たと思います。実方への書き込みへの伏線として必要であった、ということです。そして漸く、とはいきません。陸奥に赴く実方を、そして同時代に生きた清少納言や、中宮定子に関する知り得た知識の中での書き込みを暫くさせていただきます。

 実方の和歌には、何とも言えないリズムを感じさせるものがあります。武人として、舞人として、歌人として、何よりもいささか影をもった貴人というべきでしょうか。紫式部の源氏物語の中の「青海波」を舞ったモデルこそ、実方であったと勝手な憶測で書きます。イケメン貴公子、實方。
三月七日の梅一輪二輪のかのこ庵でございます。

 『恋しとも えやはいぶきの さしも草
     よそに燃ゆれど かひなかりけり』
 徳植俊之先生の「実方の和歌」との評論文に、「実方は既成の歌句を転用しながらも、それを単なる模倣の歌で終わらせずに、独自の表現として再生しようとしていたのであり、『えやはいぶきの』は、そうした実方の試行錯誤の痕跡をとどめたものと、見ることもできるのである。」
 さて、ここまで専門的な事柄の書き込みは、正直、私も疲れます。まして何等関心のない方には、又、私を知る人達には、もっと和菓子に打込みなさい、と、叱られそうです。
 
 しからば、有難きことでございますが、過日のお茶会における「お雛様」の上生菓子が何とも好評だったようでして、直接、間接に大変なお褒めのお言葉を頂戴していること、自慢話として書かせていただきます。
 須らく、「手抜きです」と書いた手前、これからもお勉強致します。

2013年3月2日土曜日

ご無沙汰というか、繁忙期でございます。

 いやはや、突然、毎度のことながら仕事に追われる日々となってしまいました。明日はお雛様、三月三日の節句でございます。
 昨日は県立高校様の卒業式がございまして、市内六校のうち、四高から来賓のためのお茶菓子のご注文がございました。全て納品時間が朝の八時半という、せわしなさです。
お茶会用の上生菓子です。
 その他、大口のご法事もありました。さらに明日、お茶会の上生菓子が数百個、明後日はある専門学校様の卒業式にて「紅白鳥の子餅」の大口ご注文、ここまで書いてきて、それだけで疲れがたまってしまいます。
 明日の、お節句のご注文分の準備が未だ終わっておりません。
 
仙台の友人が栃木に来ましたので、その時の何です。
 須らく、書きたき事はあるのですが、今しばらくは、仕事の鬼となります。少しお時間をください。
 たくさん写真を入れましたが、これにてご容赦の程。
 

 こちらのお雛様はご近所に年代物がお飾りしてあるとお聞きしまして、早速図々しく上がり込みまして拝見、そしてパチリ、という次第です。実に精巧な小道具類が立派でして、圧倒されました。
 今回はここまでです。