2012年9月25日火曜日

「かたぶくまでの 月を見しかな」赤染衛門

 「やすらわで 寝なましものを 小夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」
 ご存知、百人一首に所収されております赤染衛門の和歌でございます。
 一条天皇の后、上東門院彰子(藤原道長の娘)に仕えましたが、紫式部の先輩になります。そんな訳で、和泉式部や、清少納言との交流があったことでも有名です。「栄華物語」の作者とも言われますが、「文章博士大江匡衡」の奥様であり、中古三十六歌仙の一人としてあの時代を過ごされました。おしどり夫婦であったとも云われ、穏やかな知性派の女性でした。紫式部は後輩となるからでしょうか、彼女を清少納言とは違い、お褒めになっています。
 
 何故突然に赤染衛門かと申しますと、話は私の孫のことから始まります。
 孫は中学校への進学のため塾に通わされておりますが、そこで小学生新聞の購読を勧められ、「じいちゃん(私)、お願い」となり、何日か前から読んでおります。どんな新聞かと、ちょっとだけ読ませてもらいましたら、なんと今回の標題の和歌に関しての記事が出てきた、という次第です。しかし、今時の子供はいじめや、勉強、勉強と大変ですね。
 私はどちらかというと落ちこぼれグループに属しておりましたので、少なからず小学生時代に勉強らしきことはしなかったはずです。
 ところで今回は、過日、下野新聞の記事の中で、「栃木県は小倉百人一首のゆかりの地、というか、宇都宮のかつての城主であった宇都宮頼綱(よりつな)によって誕生した」とありました。これはこのブログで取り上げるべき話題だと考えていたところへ赤染衛門でございます。ただし、大口のご注文が続いており、しかも九月三十日(日)は十五夜様が回ってきます。お月見だんごも相当数作らねばなりません。てな訳でして、和歌もこの月に相応しい作品となりましたが、その辺りの事は次回十月に入ってからのカキコミと致します。スミマセン。
 ところで、今回最初の写真は「藤原実方朝臣の墓所、入り口に当時から自生していた『かたみのすすき』です」。すすきの葉が何故か細いのが特徴ですが、一昨年、訪れたときの写真です。
 モジズリの後方の書画は賛が山口瞳先生、絵が関頑亭先生という、当庵の宝物です。
 自室のシクラメン、一輪花芽を出しました。
 詳しくはあれもこれも次回ということで。

2012年9月22日土曜日

暑さ寒さも彼岸まで

 駐車場のコスモスが咲き始めました。その一方ではご近所の垣根の朝顔が満開状態でございます。
 今日はお彼岸の中日でございまして、三時頃まで、お店は、大賑わいでございました。有難うございます。
 朝晩の涼しさは、今までたまりにたまった疲れをかなり取り払ってくれています。
 ただし、気が抜けませんでして、
お寺様の大口ご注文、それも半端ではない数量のご注文が週明けに控えております。お施餓鬼のお供物として、一口は栗入り薯預まんじゅうの二個入りが約一千個でございます。同様なご注文が、何ヶ寺様から同日にございましてして、ありがたいことでございます。例年のことでして、いつまでこの仕事を続けられるか、少なからず、このご注文を乗り切ることが出来そうなうちは働き続ける覚悟です。
 十月の栃木市茶華道協会様の薯蕷まんじゅうも、例年より数量が増えまして、ご注文が入りました。忙しいのは実に素晴らしいことだと思います。誠に大変ですが。
 斯様な次第で、本日はここまででございます。

2012年9月14日金曜日

「礼儀作法入門」山口瞳 著

 直木賞作家にして、お亡くなりになる直前までその直木賞の選考委員をなさっておりました、私が私淑する山口瞳先生ですが、先月末のご命日にて早いもので十七回忌となりました。
 お葬式はご遺言で「自宅内を少し片付けて・・・、ご近所には少し、ご迷惑をお掛けするかもしれないが・・・。」ということでした。しかし、実は誠に大変な人数の方がご弔問にお集まりくださいまして、ご自宅の周辺を幾重にも、列を作っておりましたこと、正直、圧巻でございました。ご葬儀に参列くださった方は、まさに各界の著名人でございまして、中には素敵な女優さん(先生の作品が映画化されたときに、ご出演なさった方たちです)もいらっしゃいましたが、普段はテレビでしか拝見できない方たちばかりでした。何故そんなことが分かるかといいますと、お身内に近い人物との立場として捉えられたようでして、受付や、内部との連絡役みたいな事をさせられておりました。畏れ多くも。
 ご逝去の一報と同時に直行し、枕頭でまだ生きておられるかのごとき先生のご尊顔を拝しておりました。お通夜のお清めの席には、これも大勢の作家の先生達が、静かにも秘めやかにお集まりでした。
 今でもその時の方たちのお名前を思い出します。

 先月末に書き込むつもりでしたが、開高健先生が先になってしまいました。暑さボケと言い訳しておきます。
 さて、数ある先生の作品の中から「礼儀作法入門」という著書をご紹介します。
 『礼儀作法の枢要を占めるのは、なんといっても冠婚葬祭である。(中略)大部分の人は婚礼と葬式から逃れることはできない。(中略)そこで、世間で行われているように、あまり突飛なことではなく、平凡に自然に、慣習に従って結婚式をあげ、葬式を出そうではないかということになってくる。この、平凡に自然に、慣習に従って、というのが礼儀作法の本体であると思われる。(略)小津安二郎さんは、藤本真澄(東宝社長)さんにむかって「人間は少しくらい品行は悪くてもよいが、品性は良くなければいけないよ」と、よく言われたそうだ。私は礼儀作法の要諦はここにあると思う。』
 『礼儀作法は、エチケットは、自然にその人間に湧いてでてくる。上から与えられたものであり、同時に、下から湧き出てくるものである。それは、その人の品性にかかわってくる。私はそんなふうに解釈する。』
 長くなりましたが、恥ずべきことの多い人生を過ごしてきてしまいました。
 
 今回、何故、この作品を取り上げたかには理由があります。
 仕事柄、人様よりも少しばかり早めに仕事場というか、お店に出てまいります。最初の仕事は、開店前の準備というか、軽く掃除をして(あとでパートさんがちゃんとやります)幟旗等を出して、お店の前のごみを掃き集めます。その際、いつも気になることがあります。必ず煙草の吸殻が2~3本落ちています。これを拾うのは別に苦ではないのですが、その煙草のフィルターのところまで燃え尽きた吸殻が必ず1~2本あることです。つまりもみ消さず、火がついたままで捨てている、という次第です。暗くなってから、車で走行中に前方の車から、ポイ捨ての火がついたままの煙草も時々見かけます。一瞬、火花が散りますからすぐにそれと分かるわけですが、なんとも悲しくなります。喫煙者の全てがとは言いませんが、単純なるマナーですら、我が国民はあまり気にはならなくなってしまったようです。
 『山本周五郎先生の灰皿というのがある。必ず灰皿をふたつ用意する。一方に水を張る。それで火を消して、もう一方の灰皿に捨てる。どこへ行っても、そうやっていた。
 たばこについての礼儀作法ということになると、一にも二にも「火災に注意」ということである。これが九十九パーセントである。』
  誠に持って当たり前のことなのですが、どうもですね。
 
 ヘビースモーカーであった先生も晩年は禁煙なさっていました。その数年後に私も禁煙し、現在に至りますが、時に宴会時などで、隣席の知人が吸いますと「一本よこせ」として分けてもらい、年に3本位吸いますか。そして、吸った煙を知人の顔に吹きかける、という困った人物になります。
 同著書の中で先生は書いておられますが、相手の同意なくして煙草は人前で吸うな、と。少なからず成人された方が煙草を吸っているものとしたら、最低限のマナーくらい日本たばこ産業(?)ではもっとPRに費用を割くべきです。
 或いは、どっちにしても肩身が狭い思いをして煙草をお吸いになっておられる方が多いはずです。まさに二十本入りの一箱を千円以上にでもしたら宜しいのでは、と申して今夜は、彼岸の先生を偲び、サントリーのウイスキーをロックでいただくことにしますか。先生は「ウイスキーを水で割って飲むなんて、病人でもあるまいし・・・」とおっしゃっておりましたので。「せめて炭酸で割りなさい」とも(つまり今や全盛の感のあるハイボールのことです)。
 
デジカメ不調につき、今回はノーフォトで失礼します。

2012年9月9日日曜日

どうにも、の政治に一言

 
 政治向きのことは商売する上で、決してプラスにならないことを百も承知の上で書きます。必ず敵がいれば味方がいるように、嫌いな人物も、人によっては好ましい人物、と映っている筈ですし、私がどうも、と思っている人物でも、その政策に共鳴する人がいることも事実ですし、そのことを表明することは、作らなくても良い「アンチかのこ庵主」を作ることにもなるでしょうから。でも書きます。

 通常国会が終了いたしました。
 消費税のアップだけが決まり(本当はその他の政策も、たいした利害のないものは通過はしたのですが)、結果、国民の負担増だけは確実になりました。民自公の合意の結果というわけですが、結局自分達の定数や、歳費の削減などという、自分達のまさに特権とでもいうべきものは何一つ減らすことを決められませんでした。国民の負担はOK,自分達の身を削ることはNOというわけです。
 そして民自の後継選びがメデイアをにぎわしています。
 須らく政策よりも陣取り合戦が全てに優先するという、こんなにも国民不在の政治があってよいのでしょうか。
 もう少しマスコミの取り上げ方も検討されて然るべきと考えます。もっともこれ等の政治屋さんたちを選んだのは私たちですし、国民の民度に合わせた程度の政治が横行する責務は結局、私たちに帰結する訳ですが。

 そこでどなたが、この国のトップになられるかは知りませんが、「大阪維新の会」に人気が集まって来ています。それは現状の、政治に対する不信の表れでもあるでしょうし、閉塞感打破の突破口として当然ともといえます。
 しかし、橋下市長をごひいきする方に一言だけ申し上げます。「維新八策」なる公約を標榜するようになりましたが、そこには「国会議員の定数を半数にする。歳費も大幅に削減する」とのことです。おそらくは、そう遠くない時期に総選挙が実施されると思いますが、維新の会では全選挙区に候補者を擁立する意向だ、との報道もあります。
 分かりませんが、多分このままでは既成政党、特に民主党の落選者が増えて、維新の会の候補者が多数、赤じゅうたんを踏むことになると想定されます。その時、定数半減の公約を守ったとしたら、折角、多大なる費用をかけてご当選なさった方が、又選挙となり、残念ですが多分相当数の維新の会の議員さんも含めて議場を去らざるを得なくなるはずです。当然、もとより定数は削減すべきですが、本当に一発で半減できるのですか、と聞きたい。多額の金銭を使って折角当選なさった方が、そんなに簡単にこの話を進めるとは到底思えません。
 これはどう考えてもポピュリズムである、としか云えないのではと考えます。如何なのでしょうか。出来もしない公約を掲げた挙句、失意を味合わせてくれた政党に熱狂したことを、私たちはもう忘れてしまったのでしょうか?
 しかし話は若干変わりますが、日本人は偉い、といえます。この暑い夏を15%もの節電を行い、電力不足を回避しました。今まで随分と知らないうちに、無駄な電気を使っていたのですね。
 でも、ということは福井県の原発は稼動する必要がなかったのかもしれません。まして、値上げも同様に何とかやりくりがついたのかもしれません。どなたか、政治家の方、是非とも勇気を持って、発言していただきたい。「福井県での
原発は保安要員だけ残して、残りすべての人員を福島県に向かわせろ。同じ電力で飯食っている仲間ではないか。
 福島の事態が解決されなければ、少なくとも他の原発も含めて、稼動するべきではないし、余力となった人員を福島に向かわせる責務があるはずだ。」と。
 原発で潤ってきた自治体の皆さんも、今は昔の夢、とは参りませんか。
 嗚呼、日本には政治家はいないのでしょうか。
 

2012年9月7日金曜日

「東京スカイツリー」おのぼりさんの記

 東武電車で一時間ちょっと、という近いところに「スカイツリー」が出来上がりまして、突然、行ってみないかと誘われました。いずれは一度くらいは上ってみようとは思っていましたが、早くもその機会ができました。
 仕事を早めに切り上げ、3時36分発のスペーシアに乗り込みまして、夕方5時前には入場口に立って、その高さをそっくり返る雰囲気で眺めました。いや実際にはそっくり返って、そしてひっくり返ってしまいそうです。
 何故今回、急に行くことになったかは、夏休みも終わり、更に夕方になると団体客が少なく、当日券の購入にさほど時間が掛からないと聞いたからです。
 その通りでした。展望デッキまでの入場券購入に要した時間は約20分。そのまま、超高速のエレベーターに乗り込みました。そして驚くなかれ、「綺麗なエレベーター内やな」なんて思う間もなく、確か十数秒で地上350㍍に着いてしまいました。感想もなにも、早すぎでございます。
 恐るべき日本人の技術力であると、先ずはお褒め申し上げたくなります。
 しかし、いやはや、いささか始めの内は足がすくむ思いです。とても高所恐怖症の方にはお勧めできません。とも、最初は思いましたが、最初だけでして、まさに眼下に広がる絶景を見ているうちにその眺望のとてつもない広がりに圧倒されている己を発見します。そして千円のチケットを又、買い求め(合計三千円)、「展望回廊」地上450㍍までのエレベーターで更に上を目指します。
 「スカイツリー」についた時間が夕方でしたので、夕焼けを、東京の夜景をたっぷりと拝観(拝見ではなく)させていただきました。荘厳なる心境になりますね。
  夕焼けを受けて富士山もはっきりと確認できました。地上は薄暗く、そして暗くなっていくのに頭上を見上げますと、紺碧の青空が残っております。そして一部、足元がガラス?製の廊下から地上を見下ろす場所があります。これはいささか勇気が要りますね。我が足元に見えるのは450㍍下の地上です。そのガラスの上に足を踏み出すには少し勇気が要ります。
 いやはや、恥ずかしながら、いや堂々と、一度は行かれることを率直にお勧めいたします。ただし個人的には、どなたかが全額持つからご一緒に、とでもなければもう行くことはないと思いますが。
 表現力の乏しい私としては、当初、おのぼりさん気分でしたが、明らかに圧倒されて、冥土への土産を一つ、記念とすることができた、の心境となりました。
 

 隣接する「そらまちタウン」のビル、30、31階がレストラン街になっておりまして、スカイツリーを見ながらの食事は格別なんだろうと思います。いや、余りにもいいお値段でございまして、チラッと覗き見しただけなものですから。
 ランチタイムは少しは違うようですが、デイナーのコース料理は安くて六千円、通常一万円と思ってください。斯様な次第で北千住まで戻りまして、過日訪れたフレンチ居酒屋とでもいうのでしょうか、そちらに向かいました。しかし、相変わらず混みあっておりまして、なんとこちらも30分待ち、とのことでした。予約して飲み屋街をぶらぶらすると、もう一軒、和の居酒屋で、お客様に「今からですと20~30分程
お待ちいただくことになります」というお店がございました。
 よくは分かりませんが、次回のお店はここだなと決めまして、いささか、いい気分で戻ってまいりました。しかし、繁盛店の秘訣は何なのか、正直、色々と反省させられもしたアホなオッチャンたちのプチ旅でした。
 普段は車での移動が多いのですが、電車で、しかもあのスカイツリーです。運動にはなるのでしょうが随分と歩いたことも事実です。只今、腰に鈍い痛みを抱え込んでしまった情けない自身を恥じております。しかし今、自身とカキコミ変換しましたら一瞬「地震」と表示されました。あまり考えたくはありませんが、地球も少し変動期のようです。「今日無事」を常に念頭においておくことも忘れてはいけないようです。
 このブログの一番最初に、着工間もないスカイツリーの写真を掲載しましたが、その際、手前に写しこまれていたのが護国神社です。上記の写真はそのときに撮った場所、つまり隅田川と護国神社でございます。と、思いますが。
 畏れ多くも天空から眺め下ろしております。
 

2012年9月3日月曜日

「枕草子」個人的にその2

 少しだけ、夜風は涼しくなりました。そこで、エアコンを止めまして、クリップ式の扇風機にて外気を自室に取り込むようにしたのですが、馬鹿ですね。タイマーがついていないため、深夜2時頃まで風に当たっておりまして、その肌寒さに目覚め、夏風邪の状態です。目覚めんかったらあの世行きだったかも知れないという、あほなオッチャンとなりました。
 私的解釈による「枕草子」のつづきでございます。
 簡単に主要なる登場人物の流れを記します。勿論、大学の先生や、個人的に相当深くお調べになっている方も沢山おられることを承知の上で書きます。多少の齟齬はご勘弁ください。

 986年、一条天皇、即位します(満で七歳)。
 990年、藤原定子、一条天皇のキサキとして入内します。
 993年、清少納言が定子に仕え始めます。
 995年、藤原道隆の死去等に伴い、定子の華やかだった
      人生が暗転します。
      花山法王暗殺事件起こる。
      伊周達の処遇に伴い、定子達は職御曹司に移転
      させられます。
      この頃から「枕草子」が書かれていきます。
      十月末、藤原実方が陸奥国の国司として下向し
      ます。
 この995年(長徳元年)における時点で登場する、或いは活躍する人物達の推定年齢は次の通りです。
 一条天皇十六歳、定子二十歳、藤原道長三十歳、藤原行成二十四歳、清少納言(生年不詳のため推定)二十六歳、藤原実方(同)三十一~二歳。花山法王二十七歳、
藤原詮子三十三歳(一条天皇の生母、道長の政権掌握に果たした役割は少なからず)、藤原彰子七歳(長保元年999年一条天皇中宮として勧告され翌年、入内する、当時十二歳)。尚、定子は996年女子出産、999年敦康親王を出産しています。
 さて「枕草子」ですが、八十六段(文献や書き手によっては、多少、段数が異なりますがあくまで私の手元にある原文のままの現代活字に変換されたものにて話を進めます)には、そんな不穏にして喧騒状態の中、次の文章が出てまいります。
 『小兵衛といふが赤紐の解けたるを、「これを結ばばや」
 といえば、實方の中将、よりつくろふに、ただならず。
 あしびきの 山井の水は こぼれるを いかなる紐の
   とくるならん
 といいかく。(中略)まして歌よむと知りたらん人の、おぼろげならざらんは、いかでかと、つつましきこそはわろけれ。』
 やきもちを焼いております。
 全てとは言いませんが、定子を信じ、愛し、寵愛も受けた清少納言の、逆境の中にあってもめげることなく明るく振舞った人物像が垣間見えます。

 残念ながら、続きは次回でございます。
 正直、なかなかもう少し時間のある方でないと、といいますか、私には少し頭が痛くなってまいりました。
 本来の、感想はもう少し先になります。
 日没直後の大平山です。栃木市の母なる山といえます。