2013年12月29日日曜日

「春華 花びら餅」、よいお年をお迎えください。

 誠に一年の月日の速さに圧倒されます。
 年々歳々、せわしなさが身に沁みます。
 来春で山口瞳先生がご逝去なさった、年齢に達してしまいますが、庵主はそれなりに健在でして、もう少し働き続けさせていただきます。  
 
 本日の餅つきは11臼でしたが、明日はその倍以上とだけ書いておきます。よくぞ力仕事をこなしてます、と自分を褒めたくなります。昨日は体調が思わしくないというか、持病に近い胃のもたれが残る中での今日よりも多い餅つきでした。
 これだけお餅に付き合っていながら、ちゃんとお正月にはお雑煮をいただきます。見飽きるほどなのですが、美味いものは美味いのです。

 お店には三日前から、「春華 花びら餅」と、一個で紅白に仕上げました「笑窪薯預万寿(えくぼじょうよまんじゅう)」がメインの場所に並びました。お正月用ですが、お客様から「お作りになっていたのですね」と以前仰られまして、それ以来クリスマス以後にはそんなにまだ売れませんが、顔見世として披露興行(?)をしております。
 この「花びら餅」ですが、本来は宮中でのみ供されてきたお菓子ともいえない形での縁起物でございました。それも平安時代の新年行事「歯固めの儀式」にて供された誠に伝統あるお菓子なのです。当時の形態は何よりも長寿を願い、お餅の上に赤い菱餅を乗せ、さらにその上に山海の猪肉や大根、塩漬けの鮎、瓜等を乗せて包み込み、お公家さんたちに配られた、という記録が残っております。


 長い時代を経て、かなり簡略化され、明治時代に入ってようやく私たち庶民も新年の縁起菓子として食べることがかない、現在の形になりました。でも、その明治時代では、初釜といわれるお茶席で裏千家のみに許された和菓子でした。
 しかし、かのこ庵でも決してお安い和菓子ではありませんが、デパート関係での価格を拝見しますと、価格が倍以上になっています。確かに手間のかかった品物ですが、いいですね、本当うらやましい限りです。かのこ庵の価格は、それなりに原価計算をした、適正な価格だと申しておきます。


 羽二重粉で作りましたお餅の中には、白味噌あんと、蜜漬のごぼうが入っています。その時にもよりますが、1月15~20日頃までの商品です。未だお召し上がりになったことがないお方には、ぜひ一個程はお味を見ていただきたい商品です。全国どこの和菓子店でも取り扱っている商品ではございません。
 断定はできかねますが、市内でも製造販売しているお店は決して多くはありません。多分2~3店かと思います。更に量販店さんでは、恐らく取扱いきれないはずです。逆に食べ比べいただいてご評価いただけないのが残念ですが、価格が倍以上する「花びら餅」に決して負けていないことだけはお約束いたします。

 今年最後の書き込みとなります。
 それにしても、最近の日本丸の操船はかなりいけない方向に向かっている、としみじみ思わせられます。普段の私たちの生活には関係なさそうですが、オッとドッコイでございます。
 まだ私たちの年代での、年金受給者は幸いなのかもしれません。それでも年金は減るは、介護保険料他は上がってくるは、消費税も、でございます。そして何等の反省もなく、原発や、特定(?)秘密保護法や、近隣だけでなく諸外国からの非難をあびての参拝等々、少なからず右傾化が甚だしいとは思いませんか。 
 時々、長生きしていくことの薄幸を、いえ、あまりいいことなど益々なくなりそうな世の中に、焦燥感を感じる年の瀬ではございませんか。

 そんなことを書いておきながら、おかしいかもしれませんが、ですから尚更、皆様の新年が、少なからず幸多かれと、そしてウマく行く年となりますこと、ひたすらご祈念申し上げ、2013年シャットダウンでございます。(大晦日は夕方5時まで仕事してますが。)
 

 かのこ庵は元日だけ休みにて二日からちゃんと営業いたしております。お年賀品は「花びら餅」同様、和菓子が原点なのですね。
 

 成人式もございます。お赤飯等のご予約はお早目にお願い申し上げます。
 

2013年12月22日日曜日

「草餅、さくら餅」販売開始です。

 お待たせしました。
 庵主自慢の「招福・金箔草餅」と「春香・さくら餅」、「道明寺製・さくら餅」の販売が始まりました。
 今月に入ってから、お客様からまだですか、と結構お問い合わせがございました。不思議ですね。寒さが厳しくなると同時にお召し上がりになりたくなるようでございます。
 「日本の伝統ある食文化」の一翼を担っていると思いますが、この商品作りが始まりますと、和菓子屋は繁忙期となります。
 その一方で残念ですが、今年もよく売れました「新栗たっぷり栗蒸し羊かん」が終売です。何しろ小さな店です。ショーケースの上も限りがございまして、ただ何でも構わず陳列すればよいとはまいりません。

 しかし、大手量販店さんへの納品も商品が選定され、一月からスタートとのことです。他人事のようですが、どうもどれほど売れるのか見当もつかず、結果、現状では何とも想像が出来ませんのでこのように表現させてください。
 バーコードというのはご存知だと思いますが、個々の商品に添付しなければなりません。幸いシールの発行機はございましたのですが、手間取っています。かのこ庵のお店だけで販売しているだけでしたら、表示シールも「生菓子は原則として不要」なのですが、これらも含め、シール機との格闘が続いております。

 お正月用お餅の注文も毎日入ってきてます。
  ともかく、体力勝負の月でございます。特に本日は木枯らしと言いますか、冷たい風が吹き荒れています。皆様も体調維持にくれぐれもご配慮ください。
 山口瞳先生から頂いた色紙の中に「冬の夜 風が吹く」というのがございます。暖かいうちは気にはなりませんが、凍てつく寒さの中の強い夜風は、いささかの恐怖感を運んでくるような気がします。


 年賀状も斯様な次第で、自宅に帰ってからの作業となり、予定の3分の1も終わりましたか。住所録を見るたびに溜息が、何てことではいけませんね。当初は、全て手書きでと思っておりまして、インクジェット用ではない年賀は葉書を必要数買い求めたのですが、断念しました。こればっかりは、来年時間が取れたら書きましょう、という代物ではないですからねー。
 本当は喪中ハガキをいただいた方に「寒中お見舞い」と思い、無地の葉書も用意したのですが、ごめんなさい。どうもそこまで時間が取れない、というかもうすでに遅すぎますね。
 この場を借りまして、改めてお悔やみ申し上げつつ、寒中お見舞いもさせていただきます。
 何度か、喪中ハガキを出したこともありましたが、年に一度だけ、消息を伝え合う方達もおります。そんな方とのつながりが切れるのは寂しいものです。

 
 自室のシクラメン、夏の間は葉っぱの一枚もなかったのですが、ご覧の通りです。愛着以上のものを感じます。さらに「君は偉い」と褒めたくなります。

 さて、今年の書き込みはもう一つだけ後日、書き上げて終了の予定です。「春華・花びら餅」について、多少の薀蓄を添えて書き上げます。読んでやって下さい。

 

2013年12月12日木曜日

師走です。

 寒さが本格的になってまいりました。

 流石に、南極でのマイナス94度には驚きましたが、寒暖の程度がどうにも甚だしいようでして、これからしばらくの間、辛抱が必要なようです。
 お陰さまで、大手のお店への売買契約等の手続きも完了し、ほっとしておりました。ところが、作業場への立ち入り検査があったりし、又、納入予定商品の選定と、その商品の原材料表示や、賞味期限等のシールを作らねばなりません。表示シールは、このPCからラベル印刷機にて発行できるのですが、商品が1~2品ではありませんでして、結構時間を取られてしまっています。
文句を言ってはいけないのですが、和菓子作りとは違う、別な回路での作業となり疲れます。

 年賀状もそろそろ仕上げていかねばなりません。
 少し、このブログの書き込みは滞ってしまいそうです。

 お正月用の「お供え餅」、「のし餅」も注文が入ってきてます。
 ただし、今年産糯米の生産量が少なく、需給の関係で若干値上がりしてます。その他、諸々値上がりしている中で、現状維持はとても無理でございます。昨年からは、わずかですが、価格の変更をさせてもらいました。それでも、昨年お求めのお客様からは、概ね昨年同様ご注文が入ってきており、ありがたく思ってます。

 話は変わりますが、10月に大きな和食のお店がオープンいたしました。先月末に、「とちぎ物造り工房」のイベント報告会を兼ねて忘年会をそちらで開きました。人づての話ですから真偽の程は分かりませんが、「従業員を百名募集したところ、50名しか集まらなかった」そうです。もともと、すぐに辞めてしまう人もおり本来は50名集まればOKの予定だったそうです。半数近くの人員が、続かないことを見越しているわけです。
 結果、人手不足のままでの営業開始となったようでして、我々が行った時もそうでしたが、大変な混雑ぶりでした。焼酎をボトルで、烏龍茶で割ってというわけが、焼酎は来ました、烏龍茶が、コップがそして氷が、という具合にこれがそれぞれに時間が経っても揃わないのです。昼時には、ランチの客で相当混みあっているそうですが、入口のレジ前に貼り紙がしてあったそうです。我々は予約済みでしたので、部屋には直ぐに案内はされました。
 私は気づきませんでしたが、曰く「従業員が不慣れなためご迷惑をおかけしておりますこと、お詫び申し上げます」と。
 一寸、文言が違うのではないでしょうか。チエーン店ですから、当然、他店からの応援を仰ぎ、当面の混雑に対処すべきです。
 近隣のスーパーさんでは3か月前には人員を確保し、近くのお店で特訓を行っています。どうも栃木人の気質として「新し物好き」があるようでして、その観点からみると、先も見えている感じがします。いささかの反省を含めて、商いの難しさを実感いたしました。



 少しばかり寒々しい風景写真ばかりですが、この寒さです。皆様、お風邪など召しませぬようご注意しましょう。

 
 
 

2013年12月3日火曜日

「忘れ得ぬ人」山口 瞳

 我が家のテレビを入れ替えたりしながら、書棚の一部を整理してましたら、思いがけず、探し物が見つかりました。確かにいただいたはずの、山口瞳先生からのお葉書類がすべて紛失状態だったのです。取扱説明書を一通り読めばいいのですが、相変わらず、今度のテレビにはなじめず困っております。しかし、設置場所の問題で、ごたごたしているときに幸いなことに、諦めかけていたものが、いろいろと出てまいりました。

 何かこのところ、私のバイオリズムが上がってきているかな、という、いい話題が、続いております。先程、お帰りになりましたが、「栃ナビ」さんが3人で取材に来ました。
 年末からの特集記事として、「開運」をテーマに組むそうでして、かのこ庵の「開運 勝栗まんじゅう」を取り上げたいというお話でした。結果、一月一杯そのコーナーで、無料で私どもの商品をご紹介いただけることとなりました。先日のイベントでも新聞や、CATV 等で紹介されちゃいましたが、またしても、新たな取材をお受けした次第です。
 更には、いずれ分かってしまうことですので、この場にて書き込みしておきますが、市内にある、イオンさんと、ヨークベニマルさんから、かのこ庵の商品の納入を求められました。果たしてどこまで出来るかいな、と心配になり、頼りになる方のご意見をお聞きしました。「悩むことはないよ、できる範囲でやればいいだけだよ」という結論になり、取引契約書を取り交わしました。間もなくスタートの予定です。有難いお話であることは間違いないのですが、大変であることも事実です。
 更には昨晩、栃木市役所が旧福田屋百貨店跡地に移転するのですが、その一階の全フロアーを「東武百貨店」さんがお店を展開することになりました。来年3月、改装オープンとのことですが、その中で、地元産品のコーナーを設置するそうです。そこへの納入に関する説明会があり、納品を求められました。
 どないしまひょ。

 話は山口先生の「忘れ得ぬ人」でした。
 このところ、丸谷才一様の事等を書いておりましたが、そういえば、単行本未収録として発刊されたこのご本を思い出しました。  
 先生亡き後、奥さまが、次から次へと発刊される先生の作品を「謹呈 山口治子 代」としてかたじけなくもお送りいただいておりました。従いまして、没後発刊された全著作が書棚を埋めております。あまりに勿体ないので、一部はかのこ庵店内に陳列させていただいております。その本書の中で、丸谷先生の事をお書きになっていたなあ、と思い出し読み直した次第です。
 本書の中身はぜひ、ご一読をと、お薦めさせてもらいますが、作中の一部だけご紹介します。
  「あるとき、その銀座の朝日ビルの地下の床屋へ行くと、
 丸谷さんが頭を刈っていた。私は鏡の中の顔に挨拶して、椅子 
 一つへだてたところへ座った。私は職人に言った。『これで丸谷 
 さんと私は料金は同じかね』
  別の日に、丸谷さんが職人にこう言っているのが聞こえた。
  『山口さんみたいに早くやってくれませんか』
  解説するならば、丸谷さんの頭髪は豊富に過ぎるのであるし、 
 私の場合は無さすぎるのである。・・・・」

  まだまだ続きがあるのですが、サントリー時代の開高 健先生も同書の中で出てまいります。『躁鬱の周期の中で』として。
 1965年に書いていますので、開高先生がベトナム取材から戻ってきてそう間もないころかと思われます。
  (相変わらず引用が長くなりますが…)
  「『ベトナム戦記』での圧巻は、彼がベトナムに向かう途中、ま
 たはベトコンの包囲にあいながら、なぜこんなところへきたのだ
 ろう、なぜ俺がこんなめにあうのだろうと繰りかえすところであ
 る。
 
  開高は遊び場からベトナムにまで自然に行ってしまったのだ。
  彼はソウの時期にあってほとんど小説が書けなかった。『君は
 役目を果たした。あれで十分だ』
  ベトナムから帰ってきてはじめて彼が出社したときに私はそう
 言った。開高もそう思っていただろう。
  いま、彼はウツの周期にさしかかっている。すなわち、長編小 
 説にとりくんでいる。それが私たちののぞむところだ。いかに彼
 が不機嫌になり、つきあいにくい奴になろうとも、同僚としての私 
 たちはガマンする。友人としての、読者としての、開高フアンとし
 ての私は、そうであることを願っている。小説にとりくんで苦しん
 でいる開高でなければ私の開高健ではない。」

 山口先生流の愛情がほとばしる文章です。
 この作品には、沢山のお付き合いのあった方たちが登場しますが、それぞれが、とてもしみじみとしていて、優しく暖かく描かれています
 先生が、先生の書き残して下さったものが、例えば『血族』にしても、『ひと殺し』にしても、完璧な私小説にして、傷つく人も少なからずいたであろうと思います。が、底流に流れるものは、透徹した、人物を見る目にある、と思います。優しさをふくんだ。
 頂いたお葉書や諸々はまだまだございますが、個人情報に関しそうなところは伏せさせていただきました。現在進行中の特定秘密保護法案には、断固反対と書き添えておきますが。 
 右の写真は本文と何にも関係もありません。一緒に出てきた、メキシカン風なカーボーイ、ではない、あほなオッチャンの昔の写真です。引き金に指はかかっておりませんが、確か実弾が込められておりました。

2013年12月1日日曜日

「林 望」リンボウ先生の事

 前回、リンボウ先生が栃木市にいらっしゃったことを書きました。  
 その林望先生の大作「謹訳 源氏物語」の書評を丸谷才一先生が、その最後のエッセー集でもある(続編があるような気がしてますが)「別れの挨拶」の中に登場してきます。
 『世界最古のモダニズム小説の読み方』と題しまして。


 それにしても、丸谷先生の視点もさることながら、俎上に乗ったリンボー先生(以下先生の文字を略します)の古典に於けるその翻訳力には読者への愛情を感じます。とても読みやすく、何より理解してもらうために、原作者が敢えて書かなかった部分を優しさをもった文体で訳して下さっているからです。
 調べに調べ、読み込んで、又、読み込んで、現代語訳なさったことが十分に理解できます。
 丸谷様曰く、「源氏物語」は『若菜、上、下』が紆余曲折は藝の限りを盡してゐて、手に汗握るおもしろさ。これが人生だとか、これこそ小説とか、感嘆し続けることにならう。(中略)諸訳さまざまに特色あるが、今は林望の新訳をすすめたい。訳文が丁寧で行間に秘めた意味あひを明らかにしてゐるから。たとへば「若菜上」で光源氏が朧月夜を訪ねて共寝した翌朝の情景。傍線(ここでは下線)は紫式部が筆を惜しんでゐる箇所。
 (長くなりますが)
  『夜色が退いて、少しばかり空が白んでくる。その明け方のほ  
 のぼのとした空に、はやさまざまの鳥の囀(さえず)り交わす声 
 がうららかに聞こえてくる。
  源氏は、そっと閨をすべり出でた。(中略)
  源氏の胸中には、あの宴の夜にこの君と危うい一夜を過ごし 
 たことなどなど、それからそれへと思いがあふれ出てくる。
  いかになんでも、もうすっかり明るい時分になっては、源氏は 
 帰らなくてはならぬ
  が、女はどうしても床から起き上がることが出来ぬ。お付の中 
 納言の君が・・・(中略)』。

  なぜ朧月夜が起きあがれないのか。夜どほしの色事に疲れ果てである。栄達を極め、四十男になっても(今ならさしづめ六十代相当か?)、光源氏は精力旺盛であった。さういう人物が若い男によって寝取られ亭主にされ、あまつさへその若者の子を育てねばならぬ。そのくやしさを読者は思ひやって、小説的興趣を満喫することになる。」 

 リンボウ様の「謹訳 源氏物語」六 を、評しております。

 さて、「リンボー先生の うふふ 枕草子」でございます。
 原文を読んでその後にリンボー様の現代語訳が添えられております。丸谷様ご指摘のように、足らない、というか、端折ってある部分を補って訳して下さっています。

 「枕草子」は「ものはづけ」として六十一段は「瀧は」として、六十二段は「河は」として、六十四段は「里は」としてありますが、この途中の「六十三段では突然、全然違う様相を呈している。
 ちょっと謎々めいたものはづけの章どもが並ぶ中に、いきなり小説の一場面のような文章が現れてくるので、読者はびっくりしながら、しかし、どうしたってその意外な展開の一章に心をひきつけられる・・・」。
 つまり、『あかつきに帰らん人は・・・』の段になります。原文は略します。なぜ唐突に、この章段が出てくるかの意味も解説なさってくれておりますが、この後朝(きぬぎぬ)の別れが、突然現れることに「著者、清少納言」の「随筆としての妙味」がある、としています。又しても長くなりますが、いいところですので。
 
 
 
  
 「───男というものは、この暁の別れの時の様子が肝心で、ここ 
 ぞとばかり情緒纏綿とした様子であってほしい。
 たとえば、こんな風に。
  自分から、さっさと起きたりしないで、何だか知らないけれど、  
 いつまでも寝ていたいというような様子で寝床にいるところを、 
 女の方から、強いてせっついて『ほら、もう夜が明けちゃうわよ。 
 人に見られたら大変でしょ、起きてね』などと言わせて、そう言わ
 れて初めて、大きな溜め息なんかついたりしている。
 『ああ、やっぱりもっといっしょにここに寝て居たいのね』と女に 
 思わせてくれる、そうでなくてはね・・・。
  指貫なんかも、さっさと穿かないで、いつまでも下着姿で座っ 
 たまま、それで、すっと近づいてきて、夜のうちに交わした睦言 
 の続きみたいなことを、女の耳元にささやいて・・・。そんなことし
 ながら、女の気付かないうちに、いつのまにか、ひとりで帯なん
 か結んでいるらしい。(以下略)」

  「ああ、生々しいなあ、と、私は心の底からおもう。
   なるほど、帰っていく男の服装はだらしない方がいいじゃな
  い、とつぶやく清少納言の真意はこういうことだったかと、しっ 
  かり得心がいく。」

 その正反対で、さっさと身支度を済ませ、「じゃあね」くらいのひと言で帰ってしまう、なんていうのは、情緒も何もわからない男のパターンである、というような文章も清少納言は残しています。
 彼女の実体験を書き残したのではと考えられます。つまり、実方、斎信(ただのぶ)、行成他、結構な数の人物との交流が現実にあったようです。特に実方や斎信は貴公子として、又、当時は当然のこととして、好色は日常の作法みたいなところもあったでしょう。三度にわたり結婚もしています。中宮定子にお仕えしながら、うぶな女性を時に演じ続けつつ、一方では・・・。ともかく、当時の超イケメンたちから言い寄られてきていた清少納言とは、自身の書き残したものとは程遠く、モテた女性であった、といえます。
 男は未練たっぷりに帰らねばならないのです。

 リンボー様の古典物を渉猟することになりそうです。

 店内の写真の花はお客様から頂いた西洋つつじ「アザレア」です。うれしいですね。外看板下の八重の山茶花が満開です。