2012年12月23日日曜日

「武士の世を…」そして「武士の一分」

 「平清盛」が昨晩にて終了いたしました。
 正直申し上げて、如何ばかりも拝見しておりませんでした。
 従いまして斯様な表題にての書き出しは、熱心にご覧になられた方々には、いささか皮肉なる言辞として取られるかもしれません。 ただ、たまさか拝見するたびに「武士の世を作る・・」と必ず誰かが発言しておられました。これは早い話が、「我らがこの国を支配する」ということですよね。結果として、数多の武将を含めた人たちがこの世を去ってゆきました。
 勿論、遠い昔から生存のためや、所有地に関する紛争などの戦いは当然ありましたし、死なずともよき人々までも巻き込まれたでしょう。そして何より寿命というものもありました。医学もなき時代に平均年齢三十歳台というのは当りまえ、の時代も長く続きました。
 私は憶病者です。戦はおろか、自死するなんてこの年にしても、とても達観して出来るもんではありません。
 判らないのです。
 何故、自らをそのような立場に追い込むのかが。
 例えば、事故死であった、病死であった、というなら理解できるのですが。
 たまたま数日前にBSにて、山田洋二監督の「武士の一分」が放映されておりましたが、そりゃー怒りますよ。「武士の一分」というより許せない悪業に対する必死の怒りです。
 どうにも政略的な「武士の世を…」とはなんなのであるのか、そしてそのために死しし者の半端でなき数。平和な時代に生きてきました私は、終戦直後の生まれです。戦争を知りません。生きるために止むを得ず、生ある者の命を頂く。それは美味なる魚や、肉を食しておるというだけです。しかし人の死を以てまで我が足跡、権欲をとは・・・。

 「平安王朝期」に、「室町時代安定期」に「江戸元禄期」に勿論、疫病や、飢饉や天災による数知れない人命が失われたことは、このたびの大震災を振り返らずとも十分すぎるほどに理解はできます。その一方で、このよき時代に、沢山の美術品、工芸品を含めた芸術なる物が、花開いたという事も事実です。現代も含めて。
 平和なることに感謝しなければいけません。ただ、平安時代が全て平安であったわけではもちろんありません。宮廷を中心とした「王朝」の外では庶民の暮らしは大変だったろうことは想像が付きます。又、戦がなかったわけでもなく、又、流行病による死者も相当数出ました。その死者は三条河原にそのまま捨て置かれ、あたり一面にひどい死臭がしたそうです。
 必ずしもよきことばかりではないのですが、ただし、宮廷内での雅な世界は別世界のごとくでもありました。
雪の多い冬になりそうです。
 実は「枕草子」と「権記」と新たに分かってきた藤原実方に関し、書き残したき事がかなりの量で出てきております。これらは明春のことになりますが、どなたか一寸でもご関心が湧きましたら、乞うご期待でございます。

 ところでここ数年、「哲学」が静かなブームになっておりました。マイケル・サンデル教授の影響もあるでしょうが、その火付け役は独逸の詩人でもあったニーチエかと思います。彼の書籍が随分と売れたそうです。1900年に発狂してワイマールでなくなっておりますが、その彼が残した沢山の言葉の中から、食品を製造するという職業柄、次の言葉を記します。
 彼曰く『子供に清潔観念を与えるべきだ。』として
 『子供のうちに特に強くしつけておくべきは、清潔好きの感覚だ。勿論それは、手を洗うことによって汚れや病気から身を守り、健康を保つことができるようになるからだ。
 また、その清潔好きの感覚は、やがて他の精神的なものに広まっていく。つまり、盗みを働くことやその他の悪徳を汚れとみなす感覚へと高まりうる。同じようにその子も、社会的人間としての節度、清潔さ、温厚さ、良い品性などを好むようになるのだ。
 こうして習慣となった清潔観念は潔癖さを呼び、生きていく上で幸福になる要素や契機を自然に我が身に引き付けるようになるのだ。』と。
 この冬は「ノロウイルス」が猛威を振るっております。
 ぜひこの言葉の意味を熟読吟味し、実行してください。

 もう一回くらいは書き込みしたいと思っておりますが、年の瀬です。思わぬ事故や、体調などを狂わせること無きよう祈念いたします。

2012年12月20日木曜日

訂正です、すみません。

 今回のカキコミは前回書きましたものの訂正です。
 村山由佳さんには大変失礼をいたしました。
 そして、今回、このブログをご覧いただき、私の誤りをご指摘くださいました匿名様、有難うございました。花房観音様はペンネームにて村山様とは別人でございました
 私の不注意以外何物でもありませんし、他意はないことを書き添えておきます。

 相変わらず寒さ厳しい日々が続いております。
 今年の風邪は長引くそうです。皆様、ご自愛ください。
 せわしない年の瀬となりましたが。

2012年12月16日日曜日

「女の庭」花房観音

 のっけから訂正をする失礼をお許しください。次のアンダーラインのカキコミは間違いでした。このブログをご覧くださる方からご指摘をいただきました。花房観音様とはどなたか分からないのですがペンネームのようでして、村山由佳様はこのご本の帯に推薦文をお書きになっておられる、ということです。ご訂正のコメントありがとうございました。いつから「花房観音」と著者名を変えたのか存じませんでしたが、今回出版された「女の庭」からかと思います。
 彼女のホームページでは、この著書より前の新刊には村山由佳とあります。次の画像や彼女の写真は、彼女のブログからご紹介させていただいております。いけないことです、ということでしたら即削除いたします。ところで彼女の著者紹介では、現在「バスガイドを務める」とあります。本当でしたら京都観光の旅案内が彼女であったなら、と考えただけでワクワクしてしまいそうです。
 それにしても彼女の愛読者は女性、あるいは男性の読者どちらが多いのでしょうか。かなり女性の方のブログに対するカキコミが多く見られますが。
 ところで今回の「女の庭」ですが、正直なところ私にはよく理解できませんでした。三十半ばの五人の熟女が登場します。それぞれに個性豊かに(セックス面で)描かれておりますが、破廉恥というか、変態というか、実によくお濡れあそばす方たちばかりでした。さほど経験が少ないとも思わない私(?)ですが、この歳ですから、今から「ああ、こういうテクニックを使うともっと喜ばれたのかな」とは遅すぎですか。
村山由佳様です。
 しかし、あえてふしだらとは申しませんが、この年代の女性すべてがこの五人の女性のいずれかに分類されるとも思いません。貞淑な方も、貞淑でありながらも願望としてその手の傾向を持っておられる方もおるかもしれませんが、すべてを当てはめるのにはためらわれます。というか、そこまではまだ日本人、特に女性の倫理観が底なしになっているとは考えたくない、というのが本音です。
 これは小説の世界の話ですよね。
 それでも次の表現には、勉強させられました。
 京都を評して『・・変わらない街じゃない、ここ。すごい勢いで世の中って変化して行って、それを進化というのかもしれないし、その勢いを目の当たりにしてたら、それについていけないと駄目なような気がしてしまうんだけど、でもこの変わらない街、時間の流れが止まっている街にいたら、自分自身も変わらなくていいんじゃないかって思える。(中略)
世の中の流れに乗れなくても、成長なんてしなくってもって』。そして『人間は欲望に正直になるほど、引き裂かれていく。道徳とか倫理なんてもんは、欲望を抑えるために存在するんや。欲望のままに人間が動いたら秩序なんて無くなる。けど、それでも、突き動かされるものがあるから、秩序を保つために、そとずらってもんが必要になる』。
 わかっておいでです。その一方で登場する女性には『男と寝ること。それ以上楽しいことを、私は知らない』、とも。
 ところで、この作品の中では主人公的な立場となる「井野翠」なる女性の仕事場が京都は東山区の泉湧寺の近く、という設定になっております。この東山南方にあります「泉湧寺」付近は昔は「月の輪」と呼ばれた地でもあります。
 そして「泉湧寺」は「清少納言」が晩年隠棲したと伝えられる「月の輪」と呼ばれた場所でもあり、境内には彼女の大きな歌碑が建てられております。未だかつて訪れた事のない旧跡ですが、瀬戸内寂聴様の「月の輪草子」のタイトルはこちらから採られております。近くには一条天皇の寵愛を受けた定子の鳥辺野御陵があるところです。
 もし、お金と時間があったとしますと明確に訪ねたき場所が出来てしまいました。
 しかし、これ以上は書きません。ただただ是非お読みください。と、申し上げます。

 話題は変わりますが、高橋睦郎様の「季をひろう」に「ヤドリギ」が紹介されておりました。欧米ではクリスマス用に花市場に出回る十二月の大事な植物だそうです。そしてなによりもヤドリギ自体、生命力にあふれる植物だということです。『小鳥が啄(ついば)んだとき嘴(くちばし)に付着し、運ばれて小鳥の止まった木を宿主として枝などに根を下ろし発芽する』。  
 実は我が家の前の大木は、殆ど枯葉さえなくなった状態ですが、やたらとヤドリギが目立っています。そのヤドリギの緑が目を引いています。ケルト民族の聖なる植物であった、の記述には少々驚きました。どちらかというと「あまり見場のいいものではないな」の印象が強すぎたようです。思いを新たにしました。
今朝の巴波川(うずまがわ)、瀬戸川原公園の冬景色です。

 
 正月用の商品作りが始まりました。上生菓子は少し休みとなります。ご承知ください。
 

2012年12月9日日曜日

「後朝」、「枕草子」より

 清少納言の「枕草子」には男女間の機微がかなりの頻度にて出てまいります。「後朝(きぬぎぬ)」とは前夜、共寝をした、というか、睦み合った二人の別れの朝をいいます。
 勿論、「後朝はかくあるべし」とまではっきりとは表現しておりませんが、そのようなことを複数回にわたって書き残しています。彼女が明らかにその経験上感じたことを書いているわけですが、あの時代にあっては、それを咎めることは不要というか、当たり前の事、逆に良くモテたのだなーと感心すべき事柄かもしれません。
 そこで(私としては今更遅いのですが)女性の側から見た男の何のあとの別れ際の立ち居振る舞い等に、清少納言様からご指導をお受けしてみます。平安の王朝文化の中でも、現代のせわしない世の中でも男と女の営み、恋することのそれ等は「をかし(あじわいがあるものです)」と書いています。
 しかしこんなことを書き込みする私はアホなおっちゃんでなく、色ボケおっちゃんでしょうか。でも「枕草子」を深読みしていましたら気づいてしまったのです。清少納言のお相手が誰であるかは特定できませんが、実方の名前も登場します。年下の藤原行成との会話も出てきます。他の女房たちには行成はあまり評判が宜しくないようですが、彼女とは知的会話が成立するのでしょう。官位も高い行成を姉さん女房のごとく付き合っています。
菊池容斎・画 清少納言
 長保二年(西暦1000年)頃の事とすると、清少納言三十代前半、行成二十代後半と思われます。どちらにしても、少納言、熟女というか、女盛りを過ぎる手前の御歳と言えます。しかしよくわからないのは「枕草子」内における藤原実方との交際期間です。始めの頃に少し離れたところから見つめる少納言。最終段近くになって「やがてこうやに下りたる」として実方が出てきます。彼女が職御曹司(しきのみぞうし)に住まわせられた一条天皇の中宮(皇后)定子の良き話し相手としてお仕えしていた頃には既に、現在の宮城県名取市にて亡くなっております。まだまだ、というよりますます調べねばならないことが出てきております。少し、深入りし過ぎな事は承知していますが、新たな疑問が増えています。
 前置きが長くなりました。興味のない方にはお詫び申し上げます。 
源氏物語絵巻より
 第六十段に「暁に帰らむ人は・・・」として明け方に帰ろうとしている男性は「人はなほ、暁のありさまこそ、をかしうもあるべけれ」(男性はなんといっても明け方の振る舞いこそ、愛情細やかにしなくてはならない。)として、帰りたくなさそうな様子にてぐずぐずして、脱いだ衣服など「ゐながら着もよらず、まずさしよりて(座ったままで衣服を着ようともせず、女に寄り添って先程までの睦言の続きを)女の耳にいひ入れて、そこをどうにか出口まで連れ立って、今度会うまでが待ちどうしい、なんてことをかき口説きながら「いひ出でにすべり出でなむは、見送られて、なごりもおしかりなむ、思ひ出どころありて・・・」、そのわりにスーッと出て行ってしまうのは、つい、いつまでも見送ることになってしまい、好い印象を残すし、思い出のよすがも多い。その一方で、「ごそごそがばがばと」慌てふためいて「まかりなむ(それじゃね)」と一言、言うだけで消えてしまうなんて最低。とおっしゃております。
 又、別な段では、忍び逢う男女の後朝の夏と冬はそれぞれに異なる趣があって、どちらも(細かく理由を書いてはいます)「おかしけれ(味わいがある)」と。
 さらに、二百五十段に「あるが中によからむをこそは、選りて想ひたまはめ。及ぶまじからむ際をだに、『めでたし』と思はむを、死ぬばかりも想ひかかれかし。」(よさそうな女を見つけたら手の届きそうもない女であっても、命を賭けてでも恋して掛かりなさい)と、現代の草食系の男性には出来そうもない事を書いております。

 それにしても、本日は晴れてはいたのですが、実に冷たい風が吹いております。師走でございます。お店も忙しくなってまいりました。多少、カキコミが滞るかもしれませんがご承知ください。

2012年12月6日木曜日

「星野遺跡資料館」からぐるりと・・・


星野の山並みです。
  前回「おおひら歴史民俗資料館」に関してカキコミしましたが、その中で市内の資料館が「それぞれに寂しく主張していますが・・・」と書きました。実はその他の資料館について、多分そうだろうという予想のもとに書いていました。
縄文前、中期の遺跡跡
下野国庁舎、前殿
 実際はしばらく訪れてはいなかったのです。どうも気になりまして、ちょっと定休日ながら用事があったのですが、「星野遺跡資料館」から栃木市内を飛ばしまして「国庁舎」、「しもつけ風土記の丘資料館」、「下野薬師寺歴史館」を訪ねてまいりました。
 「星野遺跡資料館」は土、日だけの開館でして、風はありましたが暖かい陽を背中に浴びつつ、誰もいない
「風土記の丘資料館」外観
縄文前期の遺跡跡を拝見してきました。次に同じく開館はしていたのですが誰もいない「下野国庁舎」を、次に「しもつけ風土記の丘資料館」、そして「薬師寺」と見学してまいりました。
薬師寺

 「国庁舎」は綺麗に、というほどではありませんがスッキリと整備されておりました。
 ただこれで何回訪れたでしょうか。相変わらず静かな、まさに静かな佇まいのままです。「薬師寺」は外装を一部修復中でしたが、これはこれで落ち着いたなかなかの風情でした。「六角堂」の周りには足元にたくさんのどんぐりが落ちておりまして踏みつけるのが畏れ多いような感じです。梅林があるのですが、たくさんの蕾をつけておりました。しかし咲くにはまだまだ時間が必要なようです。
 これらを拝見しながらのそぞろ歩きは、初冬の中、実に幸せな気持ちにしてくれます。今回ご紹介している施設等は全て、主要な幹線道路からは脇道に入ったところにございます。従って当然、車の騒音もおしゃべりなオバサマ軍団にでも出くわさない限り、静謐という言葉がぴったりのいい気分を味あわせてくれます。
 入館料は「風土記の丘資料館」が100円でしたが、あとは無料です。お金のことを言ってはなんですが、申し訳ないような時間と空間と、その資料群を拝見させていただいての金額としては申し訳ない気がします。
 しかし それにしても少しは賑わいも、と思ってしまうほどです。
 なにしろ、各施設の展示品は相当に立派なものがあります。栃木県は各地に前方後円墳を始めとして、いろいろな形の遺跡が残されております。特に「東山道」の街道近くから歴史ある品々が出土しております。古代からの日本の中央部に沢山の人々が生活してきていた事、それも裕福さを感じさせてくれる、又、かなり高貴な方たちが居たことを実感させられます。
 ただし正直なところ、これだけの似たような展示品を集めた資料館がこの栃木を中心としてあちこちにある訳です。
いずれも、「賑わい」は必要不可欠なものとも思いません。
が、もう少しこれらの存在を知っていただく工夫を行政は対処するべきとは、差し出がましいですか。
 個人として、どうも「歌麿」に興味を殆ど感じないものですから尚の事、これだけの歴史を放置に等しい扱いをしていることにやるせない寂しさを感じてしまいます。
 穏やかなお天気の日に、お時間にゆとりがございましたらとっておきの散策コースとして、ご紹介方々、おすすめ申し上げます。
 「歴女」と呼ばれる方達にはたまらないはずです。
 

2012年11月29日木曜日

「栃木市おおひら歴史民族資料館」

 寒くなりました。十一月も、もう終わりです。皆様にはお風邪など召されませぬようお気をつけ下さい。それにしてもこの時期の郵便物には「喪中はがき」が一枚は、概ね含まれています。そんな季節なのですね。
 
 
  昨日、定休日を利用して「栃木市おおひら歴史民族資料館」を訪ねてまいりました。もうかなり以前にお邪魔したことがあるのですが、暫くぶりの訪問となりました。大平町は葡萄でも有名ですが、その葡萄団地の中心部に、栃木市の母なる山「太平山」の南麓にございます。昨日は曇っておりまして風はないのですが結構冷え込んだ日となりました。
 しかし、NPO法人による運営になってからこんなにも変わるものとは思いもしませんでした。要は責任者の《やる気》で随分と変わるということです。
 その館長様や運営に携わる理事の方のご案内を受け、本来は入室がお断りになっております白戸家の奥座敷まで上がらせていただいて拝見してまいりました。
 実は先週の金曜日から日曜日までの三日間、こちらでお茶会が開かれまして、その茶席菓子をお納めさせていただきました。大変に好評でしたようでして、喜ばれましたことをお聞きしておりましたが、どんな会場の雰囲気で開かれたのかを知りませんでしたので連絡してからお邪魔した、という次第です。お屋敷の茅葺屋根も綺麗に葺き替えられておりましたが藤岡遊水地の萱や葦がボランテイヤの方たちの協力で、見事に仕上げられておりました。私の下手な解説よりも写真をご覧いただければ、その雰囲気がご理解いただけると思います。これ等の写真が「白戸家戸長屋敷」でございます。
庭も、又、竹林の中の遊歩道も少しづつ整備されておりまして、ライトアップの用意もしてありました。以前はマムシがいたそうです。「まだまだこれからです」と館長さんは話しておりましたが、実にいい雰囲気が漂っております。奥座敷からの眺めは一寸贅沢に過ぎる感じが致します。ここでお茶会とは素晴らしいの一言でございます。映画の撮影申し込みも有るそうでして納得いたします。この施設を利用してのイベントは充分に検討の価値あり、と申し上げておきます。
 
資料館に移動しまして、展示物を拝見いたしました。
 遺跡や、城跡などが相当ありまして、正直、歴史あることの栃木市を再確認をさせられました。出土品には重文指定があってもよさそうな展示物がいくつもあります。それにしても、栃木市にはこの様な資料館がいくつありますかね。 
 少なくはないはずです。北には「星野遺跡」から市内にも数箇所、そして「下野国庁舎」同資料館、さらに下野市につづく「下野風土記の丘資料館」。きりがありません。私見ながら、それぞれがそれぞれに寂しく自己主張をしている気がします。何か統一してのイベントや、企画展、スタンプラリーのような、まとまっての行事の必要性、というか、この由緒ある、浪漫溢れる歴史の街「栃木市」を埋もれさせているのは誰だ、といいたくなります。ところでこの大平地区全体を紹介する大きな地図がございましたが、「推定、東山道」としての道路が表示されておりました。残念ながら館長さんも認めておりましたがこれは何かの明らかな間違いです。「東山道」を追いかけて来た者としては、できましたらご訂正の程、お願いしたいと感じました。少なくとも「東山道」は大平町のJR線に沿ってか、又は、小野寺から皆川城内町を抜け歌枕の地を通過して下野国庁舎に、一直線の、ひたすら直線を求めて一千年以上前に、律令国家維持と、蝦夷対策、防人達が移動するために作られました。当時の五畿七道として、その中の主要な街道として「東山道」があり、かなりの方がご研究、ご発表なさっております。私の手元にはその資料がございます。「大平町史」にも詳述されておりますこと蛇足ながら付記します。しかしながら、暫くぶりで地元栃木市に自慢できる整備された、いや、その努力をなさっている資料館と、往時を忍ばせてくれる戸長屋敷が存在していることを、素直にお褒め申し上げると共に、いい一日が過ごせましたことを感謝いたします。有難うございました。
 

2012年11月23日金曜日

「人の焚く落ち葉のかさを見て過ぎし」中村汀女

 以前はあちこちで、焚き火の煙が上がっていたものですが、条例により外で物を燃すことが難しくなりました。それでも夕方薄暗がりの中、焚き火の匂いがしてまいります。
 ご無沙汰でした。母校の正門脇大銀杏の木です。
 いけません。又しても風邪を、しかも既に一週間を過ぎて未だ、フーフー言ってます。一時直りかかったのですが、七五三のご注文や結構大口のご法事等もあり、赤飯、お餅、お団子、鳥の子餅、お供え餅と肉体労働が続きました。
 分かってはいるんです。何でも自分でやらずに他の者に回せばよい事を、私がやった方が早いことは早いですし、間違いはないという、これを諦めねばいけない歳だ、ということです。
 ベッドに潜り込んでいる時間が随分と長くなりました。
 かといって、眠りこけているわけもなく、悶々とした時間の長さを味わっておりました。
 そんな中、間もなく師走だというのに国会では賑やかな騒動が続いておるようです。あまり政治向きの事は書かないようにしようと決めていたのですが、地元の事でもありどうしても一言、書きます。
 民主党公認として、前回比例区から復活当選(つまり這い上がってきた)したT氏なる人物が居ります。先月十月中旬には民主党から300万円の選挙準備金を支給されております。その人物が所属政党を変えました。民主党からは早速、資格剥奪が行われ、300万円の返還が求められたのですが、応じない旨の返事があった、とのことです。ベッドの中で、ラジオにて知りました。ま、その程度の人物、ということでしょう。以前に、選んだ国民の民度がどうのとか書いたことがありました。でも現在の選挙制度で選ばれた人たちは、国民の総意を正確には体現していない、と書きます。やはり現在の選挙制度と、定数の在りようをもってして全て国民の責任に帰すことは暴論にも等しいと感じるようになりました。

 しかし、最後に一言。そんなにも国会議員というものは、一度やったら止められない、というか旨みがあるということがよく分かりました。北の大地の元総理は財産があるから止められるのですよね。もっとも、又、出馬しないとも限りませんが。

2012年11月15日木曜日

「推定無罪」から「無罪」へ スコット・トゥロー

 どうも自慢話のようで照れますが、読み流して下さい。
 三~四十歳代は時代小説なら「藤沢周平」、「山本周五郎」、現代ものなら「山口瞳」、「開高健」、そしてハードボイルドですか。更にはリーガルサスペンス(法廷もの)が好きでして、随分と読みました。映画で言うなら「荒野の決闘」におけるワイアット・アープ保安官役を演じたヘンリー・フォンダ主演の「怒れる12人の男」、よかったですねー。英国アカデミー男優賞を受賞してます。ジャック・レモン主演でのリメーク版もありました。かなり昔の話ですが、知っている人はよくご存知の名作です(当たり前の事を承知で書いています)。裁判所内での陪審員達の葛藤を、判決を評議する、その一室内だけが撮影場所という作品でした。あれからですか、アメリカの陪審員を前にしての作品群にとらわれたのは。
 私の好きな男優の一人にポール・ニューマンがおります。
 彼の「評決」もじつによかったですねー。
 ついでに書くなら、グレゴリー・ペックの「アラバマ物語」もまさに昔の作品ですが、人種偏見の中で戦う弁護士役としてアカデミー主演男優賞他、グラミー賞までとっています。賞はともかく感動作であります。
 つまり、陪審員達の前で検察側と、弁護士側との対決が素晴らしく、興趣というか、緊張感が堪らない訳です。
 
 そこで、ハリソン・フォード主演でヒットした作品に「推定無罪」という裁判ものが23年前に上映されましたことをご存知の方は多いと思います。シカゴ地区連邦検事局の現役の検事補であるスコット・トゥローが書いた小説が原作なのですが、何と24年ぶりに(その間「立証責任」や「有罪答弁」等の名作を書いております)「推定無罪」の続編を出版いたしました。タイトルは「無罪」ですが、作品の中身はご紹介いたしません。当たり前ですよねー。それを書いてはいけないというか、マナー知らずになってしまいます。
 
 しかし、訳者あとがきを入れて469ページ、しかも1ページ二段組の長編小説ですが、一気に読了しました。内容はそんなわけでご紹介いたしませんが、衝撃の真実が最後に明らかになります。その最終章の前での翻訳文の一部を。  
 『この歳になれば、人は誰でもうしろに過去を、その思い出を消し去ることはできない人や時を引きずっていることを知っている。』、そしてラストにおいて『うまくいかなかった結婚はうまく言った結婚よりもずっと複雑だが、たいていおなじ嘆きの言葉に満ちている・・・あなたはわたしを満足に愛してくれなかった。』と。
 この作品が映画化されるのかどうかはわかりませんが、原作を読んでから映画を観るか、映画を観て原作を読むか、人それぞれでしょうが、これだけはいえると思います。
 例えば、ロバート・デ・ニーロ主演の「ミッドナイト・ラン」という映画がありました。この時は、原作を先に読んでから映画を見たのですが、小説の中でしたらいくらでも飛行機はおろか例えてのことですが、戦車やその他大勢の出演者を何千、何万人と登場させられますが、映画ではそこまで費用は賭けられません。如何に決められた枠の中で観客を楽しませるか、監督や脚本家の手腕が問われるわけです。映画は好きな俳優さんでしたし、超一級の娯楽アクションとして、実に楽しませていただきましたが。
 もっとも現代では、CGや3D全盛ですからその辺のことは心配要らないのかもしれませんね。

 好きなジャンルのしかも素晴らしい作品の読後感は新しいロマンスをスタートした(へんな表現ですか)かのごとく、結構、自分の雰囲気が上等な上着が出来てきたような錯覚に陥ります。斯様な次第にて、なんとも夜更かしによる寝不足にて、多少アルコールが昼間でも残っているような・・・。
 和菓子屋のおっちゃんにはあまりふさわしくない、法廷小説、読書感想文の巻でした。

 気持ちを切り替えて仕事に励みます。

2012年11月11日日曜日

「季の上生菓子」販売開始です。

 毎日でもないですが、パートさんたちが帰ったあとに一人で少しづつ作りつづけて来ました。先ずはご覧ください。
 
  奥から「寒牡丹」、左から「菊」、「山茶花」、「万両」、手前が「水仙」です。如何ですか?
 とりあえず毎日、五品目を各十個限定での販売です。
 この道に入って三十五年になります。いつの間にか、お褒めいただく商品が少しづつ増えました。しかし、新製品というよりも、伝統和菓子作りはこれからの新しい挑戦と考え直しました。正直な話、冷凍技術の進化があります。少しづつ、季節にあわせた和菓子をご提供いたします。
 今までも特別なお客様のご注文に限り、少しづつ作ってはいたのですが、今週金曜日から店頭販売を開始いたしました。お蔭様でご好評、というか「流石にかのこ庵」と仰って下さる方が何人もおりまして、商売冥利を実感しております。年末あたりからはすべて新年にふさわしい上生菓子に変えてゆきます。是非、姿形をご堪能の上、お召上がりください。
 流石にかのこ庵の商品と、ご納得いただけること確信を持ってお勧め申し上げます。
 

「栃木市秋祭り」大盛況

 十一月九日から十一日まで、栃木市内は盛大なる「秋祭り」が行われました。昨晩、早めにお店を切り上げ人混みの中、幻想的とも言える各町内の山車巡行を拝見してまいりました。以前は五年おきでしたが、二年に一度開かれる
事となり大変な盛況振りです。今回は私の下手な解説より昨晩撮りました写真の数々をご紹介申し上げます。





それにしても「ぶっつけ」と称している山車同士のお囃子合戦には、相当な迫力と魅了されます。 何とかその雰囲気が、そして栃木市という伝統ある街が伝えられたら幸いです。

2012年11月7日水曜日

「月の輪草紙」瀬戸内寂聴

 「一人で生きてゆける女になりなさい」。
 一条天皇の寵愛を一身に受けるなか、仮の身の出家の形で剃髪、肩までの髪のまま一男二女をなしながら、三人目の子を産み落とすと同時に亡くなります。
 皇后定子の波乱に飛んだ二十五歳での短き生涯でした。
 その定子に仕えた清少納言に、定子は冒頭の言葉を残します。定子の運命は短いながらも哀楽をすべて背負い込んだような人生でした。そこに「定子サロン」と言う言葉が残るくらい華やいだ、教養なくして存在し得ない舞台の中で清少納言は生き、随筆「枕草子」を残しました。

 その清少納言に乗り移ったかのごとく寂聴様が新たにご本を出版なさいました。彼女の生没年は不詳にて、本文中には九十歳になられた、という想定で、と言うか寂聴様が九十歳になられたそうでして、清少納言への想いを回想するのです。内館牧子流「弘徽殿女御」、林真理子流「六条御息所」のご解釈もありましたが、九十歳での書き下ろしによる清少納言の生涯。まずはこの執筆への情熱に素直に頭が下がります。
 あとがきにも出てまいりますが、次から次へと平安時代物が出版されております。
 『平成二十四年(2012)の今年は、「古事記」編纂千三百年、「方丈記」が書かれて八百年に当たる。昨年の「源氏物語」千年紀に続いて、古典文学に対する人々の関心が高まってきた。その結果、十一月一日を「古典の日」とすることが法制的に決定を見た。(以下略)』。そしてこのご本の出版日(勿論初版本)がその日であります。
 誠に慶事と嬉しくなります。
 「枕草子」を残した清少納言のことは私が云々する必要性を感じませんが、シャイにしてまさに感受性豊かな女性であったといえます。定子サロンへ出仕しだした時の初々しさ、そして道長とのつながりから出仕をはばかってしまう清少納言。皇后定子より八歳も年上ながら、周囲の目を気にしてしまう、一人の女性として。
 でもこの見解は紫式部の清少納言評とは正反対になりますが、贔屓目もあり私はそう感じます。
 「月の輪草紙」には紫式部や和泉式部、赤染衛門達も登場しますが、清少納言とつながりが想定される男性として藤原実方を始めかなりの数の名前が登場します。平安時代における男女間のことは私たちの想像を超えた次元での世界でした。これ以上は是非本書をお読みください、とお薦めしておきます。
 ところで恥ずかしながら「枕草子」全段を、原文から現代活字にだけ直されたものを読了しておりました。しかしどうもぼんやりと読み進めていたのだなと言うことを悟りました。始めから読み直しますか。でも、一〇三段だけ書かせていただきます。
 『はるかなるもの 
  千日の精進はじむる日。半臂の緒ひねりはじむる日。
  陸奥國へゆく人の逢坂の關こゆるほど。うまれたる兒の
  おとなになるほど。(以下略)』
 実方の陸奥下向を偲んでの一行です。
 

2012年11月3日土曜日

上生菓子の店頭販売をまもなく開始します。

 今まで少しだけ販売はしていたのですが、どちらかというとご注文だけとし、積極的に店頭ではお売りしませんでした。どうも、価格もお安くは出来ませんし、その割りに手間が誠にかかります。そして何よりさほどに売れる商品ではありませんでした。

 でも、関西からはお漬物も入荷しましたし、仕入れ商品としてのクリスマス関連の、お菓子も店頭に並びました。



 お客様から「かのこ庵の品物は見ているだけでも楽しくなるわ」というお声も沢山頂戴しています。先月中旬には、栃木市茶華道協会様から例年どうり大口のご注文もいただきました。栃木市にも、大勢のお茶の先生がいらっしゃいますし、そのほうの需要も軽視できないというか、田舎ながら田舎なりに一つの文化として上生菓子も、自信を持って販路を広げる気持ちを持つことに致しました。ただし、肉体労働が確実に増えます。出来るとこまでやってみよう、という気持ちが正直な所です。
 昭和六十年創業ですので、決して老舗とはいえないかも知れませんが、とても良いお客様が付いてくれている事も事実です。創業以来「薯預まんじゅう」はどこにも負けないと自身を持っております。
 商品名こそ『苺の娘(いちごのこ)』と変更しましたが、製造販売すること三十二年になります。どなたが、どちらで「元祖」と仰っても三十二年前に、この商品をおつくりになっていた方は私の知る範囲でございませんでした。今月二十日頃から変わらぬ美味しさで、販売開始の予定です。ついでですから書きますが、『勝栗まんじゅう』いつも売り切れで申し訳ないのですが、七五三の時期でもありご予約が続きます。一個からご予約をお受けしてます。お電話いただければ営業時間内はお取りおきしております。午後には無くなる事の多い商品ですので、案外にお味を知らない方が多いのでしょう。すみません。ついでですからもう一品『芋ようかん』は、お客様がおっしゃいます。「こちらのを食べたら浅草のは食べられないわね」と。嘘ではございません。お客様が申しております。それぞれに写真は商品案内に載っておりますので、是非一度はお試しください。裏切らない、ということが現在も営業を継続できている証明でもあると思います。

 「上生菓子」の販売は今月中旬をめどに、毎日五品ほど各限定十個の予定で販売します。揃いましたらいっぺんにどどっとご紹介申し上げます。
 

 只今、底冷えを感じましてストーブをつけました。作業場の床はコンクリートですので冷えるのですが、それでなくても随分と朝晩は冷え込むようになりました。皆様もお風邪など召しませぬようご自愛ください。

 写真は日光金谷ホテルの紅葉でございます。いろは坂から上はかなり紅葉が進んでいるようでしたが、かなりの混雑が予想できましたので、こちらまで来て戻ってきてしまいました。今回のカキコミは純然たる、かのこ庵のピアールの巻でございました。

2012年10月28日日曜日

「大阪維新の会、公約素案」について

 石原都知事、80歳での果敢なる転進というか、決断には相当なお覚悟があってのことと己と比べて、そのお若さに敬服申し上げます。
 勿論、オリンピックやその他の難題を投げ出したわけではなく、何一つ進まない現在の政治、政治屋に対する強い憤りが根底にあるだろうことは、推察できます。「俺がやらずに誰がやる、五輪や尖閣は国会で決める」の心意気と、まずは前向きに感心させていただきます。
 第三極の結集、必要でしょう。そして、やはり数は力となるでしょう。
 あえて多くは書きませんが、それでも、但し書きを一つだけ。どうか中途半端な野合はしないで下さい。少なくとも充分なる意見のすり合わせの後の結集として下さい。現在の政治に辟易しているのは私たち国民であります。失望感、喪失感、裏切りに近い説明不足の政治感覚に随分と踊らされてきました。いつまで続くかわからない絶望感に近いものを感じているからです。
 
 
 ところで、「橋下艦長の操縦ではタイタニックになる」とのカキコミを今年春、3月13日に投稿しました。何故か、3~4日前からこのカキコミの閲覧者が、まさにどどっという感じで増えているのです。「何だ大したことを書いているわけではないじゃないか」とお思いの方が多く、がっかりさせたかもしれませんね。
 しかし、あえて実は三度目になるのですが、もう少し書きます。失礼や間違いがあってはいけないと、「維新の会」の公約素案なるものを読み直しました。以下に記すことは「維新の会」のH/Pからの抜粋で失礼かとも思いましたが、一部(例えば、です、ます等)の省略ですので、事実は変えてありません。更に、全文ではありません。それでもご不満の方はカキコミして下さい。
 『公約素案
 2045年をめどに外国軍駐留全廃。首相は公選制とし任期は4年。大統領型の統治を目指す。道州制を視野に衆議院定数(480)を半減。予算編成権は国会に移管。キャリア官僚は40歳定年とする。』
 凄いの一言です。いくつか例えば原発の問題など簡明に断言していますので、正直嬉しくなります。しかし、しかし、「ほんまに出来るんでっか」と書きます。まだスタート前からけちをつけては可哀相だ、とも思いますが、しかしそのH/Pの中で、衆議院には比例も含めて350人の候補者を擁立する、とあります。定数半減とは240人にするということですよね。間もなく、近いうちに選挙があるのでしょうが、おそらく民主党の落選者は続出するでしょうけど、そしてある程度の数の維新の方が赤絨毯を踏むことになるのでしょうか、こればかりは神様にしかわかりませんが。
 そこで、次回もしくは次々回の選挙で、定数が半分になったとしたら、折角お金を沢山使ってご当選なさった、維新の会の皆さんの内、相当数が退場する事態が起きても不思議はありません。そもそも4~5名の削減でさえ、何年かかっても、最高裁が何と言おうと出来ないことを、維新の会の皆さんは自分が落選することを承知にての公約として、掲げてらっしゃるわけです。「いや、だから自分達ならできる」と、お考えなのでしょうか。しかし一度、手中に収めた特権はそんな簡単に手放せるのでしょうか。
 ですから、無理があるし、信じられないというか、ポピュリズムと思ってしまうのです。本当に定数は削減すべきですし、身を削ってこその消費税増税でしょう。この問題も国民はある程度理解してはいるはずです。ただ、それを決めた方たちは何一つ我が身を削ってはいない!
 話は少しそれますが、つい4~5日前にみんなの党党首がやっと矢板市を訪れ「こんな話はない。環境省は間違っている」旨の趣旨の発言を残して行きました。私が問題提起してから一ヶ月経ちます。来ないよりは来た方がよいでしょう。しかし率直なところあの人の頭の中は、政界再編、第三極作りにあると確信を持っていえます。そんなことないよと、仰られるなら、どうすればよいか道筋だけでも話すべきです。それがなくて反対だけでは困るのです、国民全てが。
 震災復興のための予算が随分とかけ離れた使い方をしています。それだというのに、我が日本人の寛容さには大いに考えされられます。結局、国民のレベル程度の政治屋しか私たちは選べなかった、ということでしょうか。残念至極です。
 
 又、書いてはいけないはずの政治向きのことを書いてしまいました。ただ、怒っているのです。どんな結びつきになるか分かりませんが、せめて国民は、石原新党がどのようになるか、しっかりと考え、直視し続けるべきです。
 それにしても、アメリカの大統領選びのための討論会、日本では無理でしょうね。
 ところで、11月18日に栃木県知事を選出する選挙が行われます。現職と共産党候補の一騎打ち(になるのかどうか予想はつきますが)の予定です。この選挙のための費用、つまり看板設置や、投開票のための職員の費用等を合算すると約八億七千万円かかるそうです。その他、各選対事務所設置やそのパンフレット等の費用は計算外です。それにて潤う事業所もあるのでしょうが、民主主義とはお金が掛かるのですねー。候補者を立てられない民主党も党としての存在価値が問われますが、どんどんと私たちが納めた税金が飛んで行くのも事実です。嗚呼。
 かのこ庵の看板の下のコスモス、満開です。そして、その先にある山茶花が今年も沢山の蕾をつけました。

2012年10月25日木曜日

「小倉百人一首」は宇都宮の殿様の発案で出来ました。

 私たちは通常、格段の事もなく「小倉百人一首」に慣れ親しんで来ておりましたが、何と過日の下野新聞にて驚かされました。知っている人も少なくはないのでしょうが、しかし(浅学といえばそれまでですが)知りませんでした。「小倉百人一首」が宇都宮城の五代目の殿様の発案によって出来た、何てことは。
 

 「百人一首、誕生秘話」、「言いだしっぺは殿様」との見出しで紹介されておりましたが、もう少し肉付けした書き込みをさせていただきます。しかし、栃木には平安時代以前に遡っても由緒ある文化人を輩出して来ていたのですね。しかも鎌倉時代頃の武士の台頭による、各地での戦が続くなかでも。

 初代の宇都宮城主は藤原宗円、平安時代の人です。
 氏族としては、藤原北家道兼流宇都宮氏となります。この五代目、「宇都宮頼綱(1178~1259)」が主人公となるのですが、戦乱の時代にありながら、父譲りの歌人としても高名でした。
 1205年六月畠山重忠の乱が起きます。
 この時、頼綱は北条氏側に与し功を上げますが、同年八月、重忠の共謀者とみなされ(この辺は何故なのか、調べる必要を感じてます)、鎌倉幕府三代将軍源実朝(北条家の説も)から謀反の嫌疑をかけられ、謝罪のためと、服従の意をこめて出家します。当時頼綱二十七歳でした。
 そして、実信房蓮生(又は宇都宮蓮生)と号し京都嵐山北側に建てた中院山荘、別名「小倉山山荘」にて隠居生活を送ります。そこで、当時の歌壇における実力者「藤原定家(1162~1241)」と親交を結びます。蓮生(頼綱)の娘と定家の息子為家との結婚もなり、縁戚となります。
 当時、貴族や神社などの襖絵に和歌の色紙を張ることが流行したそうです。そこで蓮生は定家なら素晴らしい襖絵が出来ると考え、高齢にして病を患っていたのを承知で懇願します。定家、承諾します。そして出来上がったのが、飛鳥時代の天智天皇から、鎌倉時代の順徳院までの中から百首を選び、色紙を贈られた、それが「小倉百人一首」の由来という次第です。
 京都、鎌倉、宇都宮は当時の三代歌壇とも言われました。頼綱さん結構やるではないですか。
 新装成った宇都宮城の写真ですが、周辺がとても整備されまして、ちょっとしたデートコースにもなりました。ただし、新しいためか綺麗ですが重みがいまひとつですね。時間が必要かもしれません。


 こちらは自宅前で昨晩撮りましたライトアップされた公園と土曜日に迎える少し前のお月様です。しかしこのライトアップですが、もう少し暖色系の色が入るととても素晴らしいといつも感じます。今はまだよいのですが、寒さが厳しさを増してきますと、通行人も夜は殆どおりません。ただただ、寒々しい光景となっていると思いませんか。私個人の意見ではなく、この界隈の皆さんの評価です。ライトアップの関係者には申し訳ないが、センスがなさ過ぎです。
 


 自室のシクラメン、まだまだ花芽を沢山つけております。