2014年12月19日金曜日

「河は眠らない」開高健

 「かくして魚のいのちは終わった。
  釣り人もやがては死ぬ。
  しかし、
  河は眠らない。」

 25年前(1989年)の12月9日、芥川賞作家「開高健(先生等の敬称は以下の方も含めて省かせていただきます)」が、この世を去っています。生年が1930年の12月30日ですので58年の短いというべき生涯を駆け抜けました。


 集英社の季刊誌「Kotoba」にて、没後25周年記念特集号が発売されております。沢山の方が開高健を偲んで、その追悼文が掲載され、その足跡や、「その豊穣なる文章世界」に想いを起こしています。
 夢枕獏もその一人として追悼文を寄稿しています。
 「『オーパ!』旅する文豪、釣りする小説家」と題して…。
 そっくりそのままご紹介したいのですが、失礼に当たります。
 そこで一部だけ。

 『フィッシュ・オン』の「アラスカ」の中から、抜書きを紹介した後、
 「いいでしょう。
  凄いでしょう。
  たまらない文章でしょう。
 『黄昏が手に沁みてくるのを感じながらすわっていると』
  ですよ。
  こんな文章考えて書けますか。
  書けません。」夢枕さんの絶賛の表現です。

 文豪が愛した銀山湖に流れ込む川岸に、開高健の文字で「河は眠らない」の石碑が建っているそうですが、以下少し引用します。

 『確かにそうだ。河は眠らない。人が、夜、寝んでいる時も流れ続けている。遠いアラスカで、南米のジャングルの中で。流れ続けるその川の中に、あの時逃がしたキングサーモンや、黄金のドラドが、今も泳いでいる。小説家は眠りながらその夢を見ている。(中略)「河」とはこの小説家の心そのものなのだ。
 それでいい。』

 数回前のこのブログでご紹介した「寿屋のコピーライター 開高健」を出版なさった坪松博之も「『裸の王様』に見られる父性愛」として初期の作品をテーマに、開高健に於ける父親の存在を取り上げています。その終段にてやはり「フィッシュ・オン」を取り上げています。長くなりますが…。

  「開高が釣魚行について書いた夥しい分量の記述の中でも指折りの、釣りという行為の本質を見事に貫いた秀逸な表現であると思われる。さらに、ビデオエッセイ『河は眠らない』の中で、こんなことも語っている『それで、鮭は自分の子供の顔を見ないで死ぬ。
一回産卵すだけ。一回射精するだけで一生が終わってしまう。
 子供は翌年の春、岩の下で卵から孵って、親の顔を知らな   
いで一人で育ってゆく。非常に孤独な生涯ですね。』

 さらに、輪廻、転生へと思い走らせ『形が変わるだけである。
 エネルギーは不滅であり、減りもしない、増えもしない、善でも 
 ない。悪でもない。』と言葉をつないでいる。」(中略)
 そして終わりに「開高はこうもつぶやいている」として、このブロ 
 グ書き出しの「河は眠らない」で締め括っています。

 重松清は『ずばり東京』を取り上げ、更に終段、山口瞳の『世相講談』を俎上に、「好一対の存在」であったとして、一部を抜書きし追悼文を書いています。これもご紹介したいのですが、余りにも引用が多すぎですね。
 ただただ、多くの高名な方たちが、その開高文学を忘れる事無く、いやかなりの部分に於いて、多大なる影響を受けて現在がある、という事でしょうか。

 年内にもう一回は、この特集号を中心に書きたいと、思ってはいますが。
 穏やかな流れの巴波川では鴨さん達の数が増えております。

2014年12月2日火曜日

「藤原実方」と「源重之」

 藤原実方中将朝臣の陸奥下向、陸奥守赴任にあたってその事情をよく知り、又、彼の随伴者として、下向を共にした可能性のある「源重之」のことを書いてみます。

 学生時代に勉強そっちのけで、渋谷は道玄坂の脇道に入ったそのさらに奥に「DIG」というジャズ喫茶店がございました。入り浸っておりましたが、そこで先輩から教えられました。「DIGとは掘るという意味だよ」。「例えば直径1メートルの穴を、人力だけで2メートルの深さまで掘るとしたら、周りの土が崩れ落ち結果として恐らく直径2メートル近くの広さの穴が出来るだろう」と。「あることを追求すれば、自ずとそれだけでは無い知識も増えていくものなんだよ」と。 
 今の私には際限なく、色々な人物の事を見極めようとする兆しが見えています。自分が確信とすることを見極めるための傍証として。

 「源重之」もその一人です。更には「『伊吹山』は滋賀と近江の境にある山には非ず」と書き残した、「能因法師」についても、どんな人物だったのか何も知らないでは済まされない事柄です。

 実方も重之も能因法師も共に歌人としてその名を残し、それぞれに私家集がございます。在原業平の父行平は陸奥出羽按察使として陸奥にいた記録が残っております。そんな関係もあり、つまり今、書き出した人物は全て高名な歌人としても、又、陸奥に在所したことのある人たちばかりです。 
 

 そこで今回は「源重之」です。
 「中古三十六歌仙」の一人として沢山の和歌を詠み、その私家集も色々とあります。宮内庁書陵部蔵の私家集を始めとして、徳川美術館には伝、藤原行成筆によるものもございます。ただし彼の官位は高くはないというよりも微官と呼ぶべきものでした。
 976年相模国権守、從五位下として、信濃守、日向守等を歴任してますが、いわゆる地方官として一生を閉じています。

 実父兼信は所謂官途に希望を見いだせず陸奥国に土着しています。結果、重之はかなりの地方を経めぐったことになりますが、本人の願いはかなわないままに、宮廷での出世を終生望みつづけます。 
 小倉百人一首には、48番歌として
 「風をいたみ 岩うつ波の 己のみ くだけて物を 思うころかな」
が所集される等、それなりに和歌詠みとしては評価の高い人物でした。つまり重之の「百首歌」歌集は、歌に堪能なことが上に聞えて特に詠ませられたものであり、彼の得意の作ともいえます。

 しかし、宮廷内での権力をめぐる所謂、中関白家の没落により、藤原道長を頂点とした摂関政治がまかり通ってゆく中で、重之の昇進も何もなくなってゆきます。
 そこで藤原実方ですが、重之と同じような立場になってしまいます。ただし実方は優美淡麗の容姿と当意即妙の機智とで宮廷の花形でもありました。
 位は重之とは較べようもなく、正暦五年(994)に左近衛中将、兼陸奥守となっております。
 当時は遥任として地方の例えば駿河守に任じられたとしても、本人が赴任しなくても代理人が居れば、よい制度がありました。
 しかし、時代の流れの中で父を亡くし喪中(本来は重喪でありそれ故当初の赴任予定日より大幅に遅れます)の実方でしたが、多くの人に惜しまれつつ京の都を離れるわけです。
 しかし、この事実は当時としては大変センセーショナルな出来事でした。そのために色々な憶測も生まれ、例えば藤原行成との不仲説のようなことも「古事談」などに出てきます。

 結局、藤原実方が中心になる話へと進んでまいりますが、今回はここまでです。これからがいよいよ私には書きたかった事が続くのですが長くなりました。 
 尚、これ等の内容は「目崎徳衛先生『平安文化史論』」を下敷きにして学びました事であると付記いたします。

 写真の紅葉は栃木市大平町「川連城跡」で、うす暗い中での鴨さんたちは我が家の前で今朝、撮りました。