2012年3月28日水曜日

ハンターマウンテンは雪たっぷりでした。

 3月26日(月)は、早朝というより殆ど徹夜状態で深夜からの仕事となりました。
 何とか納品時間に間に合わせまして、お店は3連休とさせてもらいました。
 実は孫と27日にスキーの約束をしてまして、お彼岸中の振り替え休日の予定でしたが、前回カキコミ致しました如く大口のご注文を仕上げたところで、その日は納品後、自宅直行、ベッドインの一日としました。
 孫との以前からの約束は断れるわけも無く、この歳でスキーの一日となりました。
 お断りしておきますが、私、スキー歴55年になります。流石に昔のようには参りませんが、それでもリフトに乗り、上級者コースを辛うじて転倒することなく滑り降りてまいります。
  三月も終わりに近いというのに、山頂付近は2mほどの積雪でして、快晴ながら
風は冷たさを実感させられました。孫も少々滑ることが出来るようになり、初級者コースを一人で何回も滑り降り、一度は私と上級者コース
にも挑戦いたしました。
  しかし、ザザ、ザザーっと
パウダースノーを舞い上げて・・とまでは格好良く滑ることは出来なくなりましたが、何とも風を全身に感じ、風を切ってのスポーツとしてスキーは最高です。
 ここ、ハンタマ・スキーリゾートは自宅から車で2時間弱で行けます。鬼怒川温泉から塩原温泉に抜ける日塩道路の峠越えの一番高い地点にあります。早めのお昼時のビールは(車でしたので一缶だけです)プハー・・・ものでした。尚、除雪が徹底してましてノーマルタイヤOKの道中でしたが、あと二週間ほどでオフシーズンとのことです。
 

 月曜日、朝の納品は、鍋山から仙波方面に抜けるバイパスの開通式に供されるご注文でして、三百人分のお赤飯と、紅白の薯蕷まんじゅうでした。誠に有り難い仕事をさせていただきました。ただし、お彼岸であらかたの商品がお蔭様で売切れてしまいまして、今日はいつもの定休日ですが午後殆ど仕事をしております。正確には、これをもってして
三連休と言えますかね。明日からの仕事も何から手をつけるべきか悩んでいる今の私です。 との、ぼやきは贅沢ですね。鍋山への納品の帰途、よそ様のお庭が全体に黄金色になっておりましてカメラをパチリでございます。サンシュユの花が満開でございました。奥に映っている鍋を逆さにしたような山が鍋山方面です。
  
 ついでといっては何ですが、さしも草の話はその内という事で、多分、今頃が今年は満開ではないかと思い、下野市は薬師寺の梅林を午前中に訪ねてまいりました。平安時代に日本三大薬師寺として、その名を残しました。江戸時代に往時を偲んで建立された六角堂が
現在は残されています。
 梅香の中の一人歩きでございました。しかし三月も間もなく終わりというのに未だ
蕾の枝も残っておりまして、今年の入学式には例年なら満開となるはずの桜は無理かもしれません。それでも、ようやく春の陽射しを背中に感じることの出来る暖かさとなりました。
 間もなく、かのこ庵は「かしわ餅」のシーズンインでございます。丸い形の柏餅ではない和菓子職人としての矜持を持った手作りの「かしわ餅」でございます。

2012年3月22日木曜日

「さしも草」が漸く芽吹きました。

 何とか無事にお彼岸のピークを乗り切りました

 昨年は大震災の影響があり、計画停電までありましたので誠に惨憺たる売上げでした。従って昨年の数値との比較は、意味がございませんが、まずまずとご報告しておきます。
 彼岸明けは明日ですが、春彼岸のお中日は一年中で一番の売上げが有るのです。その中日からしますと嘘のように静かになってしまいました。売れるときに売らねば後が大変なのです。と、書きましたところで、実に大口のご注文が入ってまいりました。お中日の売上げを三割も上回るお赤飯と、紅白薯蕷まんじゅうのご注文が三月二十六日の朝にということです。有り難い事ですが、折箱や掛紙、胡麻の手配など、そして人員配置まで手配したりと、先程まで悩ませられました。休ませてくれませんねー。
 今週末も大口のご法事や、自治会さんのお茶菓子が結構な数量でご注文があり、人員のやりくりを午前中にしたばかりなのですが、それどころではなくなりました。頑張りましょう。

 お店の前のプランターに定植させておいた「さしも草」ですが、漸く新芽が姿を現しました。このさしも草を100%利用した「招福 金箔草餅」がお蔭様でとても好評でしたことを、そして、このさしも草に関するあれこれをカキコミすべく準備していたのですが、次回です。乞う、ご期待。
 それにしても、今朝の予報では今日は暖かくなります、といっていたのですが、何とも寒さがしっかりと残った一日となってしまいました。先程のお客様曰く、「我が家のTVは取り替えなくちゃ。天気予報が間違って放送されるようになってしまった」と、おっしゃっていました。
 それにしてもどうなっているのでしょうかこの寒さは。



 

2012年3月14日水曜日

観世流復曲能 初演「阿古屋松」

 恥ずかしながら一昨年、拙い本を出版しました。題名は「栃木の歌枕と藤原実方 考」というものですが、この本の出版に際し新聞社がお取り上げいただき少なからず反響がございました。それ故か、かなりの方がご購入下さったのですが、その中に日光市在住の青木様という方がおられました。未だ面識は無いのですが、過日お便りを頂戴いたしました。
 「藤原実方への思い入れの深い(私の事です)」ということで、能楽にご堪能の青木様が、国立能楽堂で開かれます「観世流」のしかも世阿弥自筆本による能、しかも復曲初演の能ということで、四月に特別公演、三月に特別講座が開かれる旨のご案内をいただきました。三月の講座の予定は昨日でした。四月の公演は四月末、つまりG・W直前になっておりまして、誠に残念ながら涙が出そうなお話となってしまいました。
 山形県山形市内に萬松寺様という立派な由緒あるお寺がございます。そこには実方の遺言により、遺骨が分骨され埋葬されておりますが、「阿古屋松」という、又、「阿古屋姫」という実方につながる伝承が残されております。詳しくは記しませんが、実方下向の一つの要因とも言える実方による歌枕を探しての旅路の中での話となります。
 国立能楽堂 特別企画公演 世阿弥自筆本による復曲能「阿古屋松」 を、観世清和様が演じなさいます。誠に残念というしか有りません。青木様にはその旨、返信させていただきましたが、ご関心のお有りの方は能楽堂までお問い合わせください。

 さて、その藤原実方ですが、今月一日に書き込み途中のままの「『権記』 藤原行成」の中で初めて名前が登場して参ります箇所があります。正歴四年(993年)二月二十八日
の記述に「殿上賭射定」として
 「酉剋、主上(一条天皇)侍所出御。摂政が伺候。蔵人式部丞、左右中弁も同じく伺候した。天皇の仰せによって、
各々、前後の射手(いて)を取り別けた・・・。」として射手の
前方、後方各21名の名前が記されるのですが、後方の一番手として藤原実方朝臣が登場して参ります。和歌詠みの名手としての実方は武人としても認められた存在であった事の証でもあると考えます。当時、行成二十二歳と有りますので実方も同じくらいの頃と思われます。一条天皇、十四歳の時でした。 
 

 しかし如何に現代語訳とはいえ、次から次へと人物名が出てきます。又、始めて目にする漢字や、行事における名称等、ルビが振ってあるのですが、細かくて時に拡大鏡が欲しくなる時もあるほどですし、全三巻の文庫本としては其々結構な分厚さです。ま、少しづつ、それでも結構、興味深い記述も出てまいりますので、辛抱半分読み続ける事とします。「源氏物語」と関連付けて読み進めますと、いわゆる当時の王朝貴族の日常がよく理解できるのです。
 でも如何に趣味の範囲とはいえ、一寸深入りしすぎですかねー。
 「源氏物語」の中に、「蓬生」という帖があります。
 「末摘花」と再会し彼女を引き取る訳ですが、光源氏の復権を象徴する展開となります。が、ここで出てくる「蓬」が荒れ果てた屋敷の雑草の象徴として描かれています。一寸抵抗を感じる所でもあります。

 うーむ。三日連続のカキコミです。如何にベッドの中で悶々としていたかお分かりいただけましたでしょうか。
                合点、ガッテン。

2012年3月13日火曜日

橋下艦長の操縦ではタイタニックになる。

 県北在住のS氏は高校の同級生でして、メル友でもあります。
 私と比較しては申し訳ないくらい優秀な成績を残した人物ですが、その彼から、昨日メールが届いておりました。震災一周年を迎え現下の政治状況への憤りが記されておりましたが、全く、その通り、と私も表明します。
 3月11日は一日中ベッドの中でしたが、黙祷の時間には鎮魂の祈りを捧げました。TVをつけると鼻の奥がキナ臭くなるばかりでして、正直な所、風邪でダウンしている者には辛くて、その一方で怒りがこみ上げて来る番組ばかりでした。
 このホームページの表紙にも表明いたしましたが、東北の問題は日本の問題であり、全国に広がる地震列島の上で私たちは生きているわけです。決して他人事では無いのです。何時、我が身に、というか身辺で災害に巻き込まれることがあったとしても不思議は無いのです。
 東北の復興なくして日本の再生はありえません。しかし、何たる
進捗状況なのでしょうか。政治家は何を議論しているのか。野田総理の喫煙開始年齢なんか国会で取り上げる話なのですか。
 しかし、今や国民の人気を独り占めしている感のある橋下市長ですが、坂本竜馬気取りとは武田何某と同レベルといえます。維新が必要なことは十分わかりますが「船中八策」とは一言、笑止です。憲法改正もある意味必要な部分も有るでしょうけど、何度も書きます。今は東日本全体が大変な状況なのです。そこに触れること無き政策は考えられません。今直ちに表明すべきは「瓦礫」の処理に対してではないですか。「みんなの党」の渡辺代表は橋下市長と意気が合うようですが、あなたは県北を地盤として居りますよね。確固たる親から引き継いだ組織をお持ちなはずです。ということは、県北の首長の中には子分格の方も居るはずです。「瓦礫の受け入れ」に限らず、今、放射能の問題は福島県だけの問題ではありませんし、少なからず、100人中100人が賛同する事例は金輪際、無理な相談といえます。勿論、説得や妥協をする努力までも放棄してはいけませんが、あなたの口から首長さんや住民に理解を得る努力は進めつつ、瓦礫の処理を表明させる立場ではないですか。
 栃木県知事も、栃木市の市長も条件付きながら前向きな意向を
表明しています。橋下、渡辺両氏からは何のメッセージもありません。だからポピュリズムだと思われても私は仕方ないと思います。
 しかし、何故あなた達が人気が有るかは分かる気もします。
 つまり、日本の政治家に、少なくとも国会議員に気骨のある人物が、そう、代わりがいないからです。その点を忘れていますよ、ご両人。
 自分の事務所で数億単位のお金が如何に合法的に処理されたとしても、如何に増税は公約違反だとしても、それで済まない立場というか、前進させなければならない事もあるわけです。
 結局、定数削減も何も決まらず、布団の中で懊悩している己を知るこの数日間でした。
 
 嗚呼、又、熱がぶり返しそうですので、もうここまでにします。


 藤原実方に関し新しいニュースがあります。
 次回、カキコミします。
 

2012年3月12日月曜日

「インフルエンザA型」 庵主を襲う

 しばらくぶりのカキコミにて申し訳ございません。
 それでなくてもこの繁忙期に何と言うことか、大口の
ご注文を抱えた中で私はインフルエンザに襲われてし
まいました。
 最初は、あれ花粉症が始まったかなという程度でしたが、
翌朝、体中がだるくなっておりまして、早速、江口Drの診察
となり、まさかのインフルエンザでした。
 前々日、約30年ぶりに、当時のビジネス上の関連で付き
合いのあったメンバー4人での吞み過ぎが発端かと思います。
 再三カキコミしてますが、誠にいささか、ひと様より多少吞む
量が多いのは私の最大の欠点でございます。ま、4人とも
それなりに強いメンバーでしたが、ちゃんぽんはいけません。
 人混みの中、大笑いの夜でしたが反省してます。
 それにしても、悲しいかな免疫力、抵抗力が明らかに低下
していることを思い知らされました。
 点滴を受けて後、自分のベッドに直行、ケータイで社員に
結果報告と各種の指示、それも緊急事態を宣言しての指示。
 細かいことは随時その都度ケータイでやり取りしましたが、
寒気と仕事上の心配でパニック状態でした。夜になってから
誰もいない仕事場へ行きまして、マスクダブルで、ふらつく
身体を奮い立たせ、思いつく限りの必要事項をメモし、又、
「頼むからお願い、頑張って」と、そっくり我が身に呼びかけ
たき事を書いて、又してもベッドに直行です。
 今更、反省しても仕方ないのですがもっと信頼して仕事の
暇な時に色々と指導しておくべきでした。
 夜中に大事なことを思い出し、又しても今度は早朝に仕事
場へ・・・。本日月曜日は臨時休業としました。それでも某幼
稚園さんのご注文があり作らせておいたものをお届けしての
今でございます。熱はすっかり下がりましたので明日からは
通常どうり仕事を致します。今夜飲む予定の処方された薬、
タミフルが最後の一錠となっています。後は一寸強めの栄養
ドリンクを買って帰ります。
 書き込みたき事が、ベッドの中で次から次と浮かんで来て
ましたので、又少しづつ書いてゆきます。
 「ご老体」といわれても仕方ない歳になりました。
 迷惑をかけたスタッフ、心配をかけてしまいましたお客様、
大変申し訳ございませんでした。


 どうか皆様も体調管理にはご留意ください。

2012年3月1日木曜日

「権記」藤原行成 現代語訳

 24年3月1日朝の日光連山です。前日の大雪がかなり残っていますこと、お分かりいただけると思います。
 誠によく降りましたが、今朝は嘘のように、日昼も気温が上がり穏やかな春日となりました。
 昨日は定休日でしたので(半日仕事をしておりましたが)午前中に撮りました写真を、ついでといっては何ですが今回のカキコミに、挿入してまいります。栃木市の風情たっぷりの雪景色をご堪能いただきながらお読みください。
 寒々しいですかね。牡丹雪舞い散るというより、ぼさぼさと降り落ちて来ていました。左の三枚は全て巴波川です。最後の写真は我が母校です。
  
 さて本日のタイトルは、1000年前の平安時代に書かれた日記の題名です。
 その時代にご興味をお持ちの方でしたら、すぐにお分かりと思いますが、当時は一条天皇の御世でした。
 しかし、藤原道長が権勢を誇っていた時代でもありましたが、その天皇と道長との間を橋渡し役といいますか、メッセンジャーとして天皇のお側に近侍していた藤原行成の日記を現代語に訳してくださった方が居りまして、その本を読み始めた、という訳です。
 天皇の相談役でもあり、蔵人頭という高い地位にいた人物ですが、実にこまめに、細かく沢山の出来事を記し残してきました。これにより、当時のそして大内裏での詳細が理解されるわけです。能筆としても有名でして、日本三蹟の一人と呼ばれた人物でもあります。天皇、道長の二人からも信任厚く、側近の能吏として順調に昇進して行きます。

 どうも、売上げは大した事はないのですが、お客様がだらだらと続いております。基本的にパソコンはお店にいるときしか開きませんので、このカキコミが中断の連続です。ありがたいことですが、やはり繁忙期のようです。
 すみませんが、今日はここまでにさせてください。
 続きは明日、書けるかな?少しづつ書いて行きます。