2012年12月23日日曜日

「武士の世を…」そして「武士の一分」

 「平清盛」が昨晩にて終了いたしました。
 正直申し上げて、如何ばかりも拝見しておりませんでした。
 従いまして斯様な表題にての書き出しは、熱心にご覧になられた方々には、いささか皮肉なる言辞として取られるかもしれません。 ただ、たまさか拝見するたびに「武士の世を作る・・」と必ず誰かが発言しておられました。これは早い話が、「我らがこの国を支配する」ということですよね。結果として、数多の武将を含めた人たちがこの世を去ってゆきました。
 勿論、遠い昔から生存のためや、所有地に関する紛争などの戦いは当然ありましたし、死なずともよき人々までも巻き込まれたでしょう。そして何より寿命というものもありました。医学もなき時代に平均年齢三十歳台というのは当りまえ、の時代も長く続きました。
 私は憶病者です。戦はおろか、自死するなんてこの年にしても、とても達観して出来るもんではありません。
 判らないのです。
 何故、自らをそのような立場に追い込むのかが。
 例えば、事故死であった、病死であった、というなら理解できるのですが。
 たまたま数日前にBSにて、山田洋二監督の「武士の一分」が放映されておりましたが、そりゃー怒りますよ。「武士の一分」というより許せない悪業に対する必死の怒りです。
 どうにも政略的な「武士の世を…」とはなんなのであるのか、そしてそのために死しし者の半端でなき数。平和な時代に生きてきました私は、終戦直後の生まれです。戦争を知りません。生きるために止むを得ず、生ある者の命を頂く。それは美味なる魚や、肉を食しておるというだけです。しかし人の死を以てまで我が足跡、権欲をとは・・・。

 「平安王朝期」に、「室町時代安定期」に「江戸元禄期」に勿論、疫病や、飢饉や天災による数知れない人命が失われたことは、このたびの大震災を振り返らずとも十分すぎるほどに理解はできます。その一方で、このよき時代に、沢山の美術品、工芸品を含めた芸術なる物が、花開いたという事も事実です。現代も含めて。
 平和なることに感謝しなければいけません。ただ、平安時代が全て平安であったわけではもちろんありません。宮廷を中心とした「王朝」の外では庶民の暮らしは大変だったろうことは想像が付きます。又、戦がなかったわけでもなく、又、流行病による死者も相当数出ました。その死者は三条河原にそのまま捨て置かれ、あたり一面にひどい死臭がしたそうです。
 必ずしもよきことばかりではないのですが、ただし、宮廷内での雅な世界は別世界のごとくでもありました。
雪の多い冬になりそうです。
 実は「枕草子」と「権記」と新たに分かってきた藤原実方に関し、書き残したき事がかなりの量で出てきております。これらは明春のことになりますが、どなたか一寸でもご関心が湧きましたら、乞うご期待でございます。

 ところでここ数年、「哲学」が静かなブームになっておりました。マイケル・サンデル教授の影響もあるでしょうが、その火付け役は独逸の詩人でもあったニーチエかと思います。彼の書籍が随分と売れたそうです。1900年に発狂してワイマールでなくなっておりますが、その彼が残した沢山の言葉の中から、食品を製造するという職業柄、次の言葉を記します。
 彼曰く『子供に清潔観念を与えるべきだ。』として
 『子供のうちに特に強くしつけておくべきは、清潔好きの感覚だ。勿論それは、手を洗うことによって汚れや病気から身を守り、健康を保つことができるようになるからだ。
 また、その清潔好きの感覚は、やがて他の精神的なものに広まっていく。つまり、盗みを働くことやその他の悪徳を汚れとみなす感覚へと高まりうる。同じようにその子も、社会的人間としての節度、清潔さ、温厚さ、良い品性などを好むようになるのだ。
 こうして習慣となった清潔観念は潔癖さを呼び、生きていく上で幸福になる要素や契機を自然に我が身に引き付けるようになるのだ。』と。
 この冬は「ノロウイルス」が猛威を振るっております。
 ぜひこの言葉の意味を熟読吟味し、実行してください。

 もう一回くらいは書き込みしたいと思っておりますが、年の瀬です。思わぬ事故や、体調などを狂わせること無きよう祈念いたします。

2012年12月20日木曜日

訂正です、すみません。

 今回のカキコミは前回書きましたものの訂正です。
 村山由佳さんには大変失礼をいたしました。
 そして、今回、このブログをご覧いただき、私の誤りをご指摘くださいました匿名様、有難うございました。花房観音様はペンネームにて村山様とは別人でございました
 私の不注意以外何物でもありませんし、他意はないことを書き添えておきます。

 相変わらず寒さ厳しい日々が続いております。
 今年の風邪は長引くそうです。皆様、ご自愛ください。
 せわしない年の瀬となりましたが。

2012年12月16日日曜日

「女の庭」花房観音

 のっけから訂正をする失礼をお許しください。次のアンダーラインのカキコミは間違いでした。このブログをご覧くださる方からご指摘をいただきました。花房観音様とはどなたか分からないのですがペンネームのようでして、村山由佳様はこのご本の帯に推薦文をお書きになっておられる、ということです。ご訂正のコメントありがとうございました。いつから「花房観音」と著者名を変えたのか存じませんでしたが、今回出版された「女の庭」からかと思います。
 彼女のホームページでは、この著書より前の新刊には村山由佳とあります。次の画像や彼女の写真は、彼女のブログからご紹介させていただいております。いけないことです、ということでしたら即削除いたします。ところで彼女の著者紹介では、現在「バスガイドを務める」とあります。本当でしたら京都観光の旅案内が彼女であったなら、と考えただけでワクワクしてしまいそうです。
 それにしても彼女の愛読者は女性、あるいは男性の読者どちらが多いのでしょうか。かなり女性の方のブログに対するカキコミが多く見られますが。
 ところで今回の「女の庭」ですが、正直なところ私にはよく理解できませんでした。三十半ばの五人の熟女が登場します。それぞれに個性豊かに(セックス面で)描かれておりますが、破廉恥というか、変態というか、実によくお濡れあそばす方たちばかりでした。さほど経験が少ないとも思わない私(?)ですが、この歳ですから、今から「ああ、こういうテクニックを使うともっと喜ばれたのかな」とは遅すぎですか。
村山由佳様です。
 しかし、あえてふしだらとは申しませんが、この年代の女性すべてがこの五人の女性のいずれかに分類されるとも思いません。貞淑な方も、貞淑でありながらも願望としてその手の傾向を持っておられる方もおるかもしれませんが、すべてを当てはめるのにはためらわれます。というか、そこまではまだ日本人、特に女性の倫理観が底なしになっているとは考えたくない、というのが本音です。
 これは小説の世界の話ですよね。
 それでも次の表現には、勉強させられました。
 京都を評して『・・変わらない街じゃない、ここ。すごい勢いで世の中って変化して行って、それを進化というのかもしれないし、その勢いを目の当たりにしてたら、それについていけないと駄目なような気がしてしまうんだけど、でもこの変わらない街、時間の流れが止まっている街にいたら、自分自身も変わらなくていいんじゃないかって思える。(中略)
世の中の流れに乗れなくても、成長なんてしなくってもって』。そして『人間は欲望に正直になるほど、引き裂かれていく。道徳とか倫理なんてもんは、欲望を抑えるために存在するんや。欲望のままに人間が動いたら秩序なんて無くなる。けど、それでも、突き動かされるものがあるから、秩序を保つために、そとずらってもんが必要になる』。
 わかっておいでです。その一方で登場する女性には『男と寝ること。それ以上楽しいことを、私は知らない』、とも。
 ところで、この作品の中では主人公的な立場となる「井野翠」なる女性の仕事場が京都は東山区の泉湧寺の近く、という設定になっております。この東山南方にあります「泉湧寺」付近は昔は「月の輪」と呼ばれた地でもあります。
 そして「泉湧寺」は「清少納言」が晩年隠棲したと伝えられる「月の輪」と呼ばれた場所でもあり、境内には彼女の大きな歌碑が建てられております。未だかつて訪れた事のない旧跡ですが、瀬戸内寂聴様の「月の輪草子」のタイトルはこちらから採られております。近くには一条天皇の寵愛を受けた定子の鳥辺野御陵があるところです。
 もし、お金と時間があったとしますと明確に訪ねたき場所が出来てしまいました。
 しかし、これ以上は書きません。ただただ是非お読みください。と、申し上げます。

 話題は変わりますが、高橋睦郎様の「季をひろう」に「ヤドリギ」が紹介されておりました。欧米ではクリスマス用に花市場に出回る十二月の大事な植物だそうです。そしてなによりもヤドリギ自体、生命力にあふれる植物だということです。『小鳥が啄(ついば)んだとき嘴(くちばし)に付着し、運ばれて小鳥の止まった木を宿主として枝などに根を下ろし発芽する』。  
 実は我が家の前の大木は、殆ど枯葉さえなくなった状態ですが、やたらとヤドリギが目立っています。そのヤドリギの緑が目を引いています。ケルト民族の聖なる植物であった、の記述には少々驚きました。どちらかというと「あまり見場のいいものではないな」の印象が強すぎたようです。思いを新たにしました。
今朝の巴波川(うずまがわ)、瀬戸川原公園の冬景色です。

 
 正月用の商品作りが始まりました。上生菓子は少し休みとなります。ご承知ください。
 

2012年12月9日日曜日

「後朝」、「枕草子」より

 清少納言の「枕草子」には男女間の機微がかなりの頻度にて出てまいります。「後朝(きぬぎぬ)」とは前夜、共寝をした、というか、睦み合った二人の別れの朝をいいます。
 勿論、「後朝はかくあるべし」とまではっきりとは表現しておりませんが、そのようなことを複数回にわたって書き残しています。彼女が明らかにその経験上感じたことを書いているわけですが、あの時代にあっては、それを咎めることは不要というか、当たり前の事、逆に良くモテたのだなーと感心すべき事柄かもしれません。
 そこで(私としては今更遅いのですが)女性の側から見た男の何のあとの別れ際の立ち居振る舞い等に、清少納言様からご指導をお受けしてみます。平安の王朝文化の中でも、現代のせわしない世の中でも男と女の営み、恋することのそれ等は「をかし(あじわいがあるものです)」と書いています。
 しかしこんなことを書き込みする私はアホなおっちゃんでなく、色ボケおっちゃんでしょうか。でも「枕草子」を深読みしていましたら気づいてしまったのです。清少納言のお相手が誰であるかは特定できませんが、実方の名前も登場します。年下の藤原行成との会話も出てきます。他の女房たちには行成はあまり評判が宜しくないようですが、彼女とは知的会話が成立するのでしょう。官位も高い行成を姉さん女房のごとく付き合っています。
菊池容斎・画 清少納言
 長保二年(西暦1000年)頃の事とすると、清少納言三十代前半、行成二十代後半と思われます。どちらにしても、少納言、熟女というか、女盛りを過ぎる手前の御歳と言えます。しかしよくわからないのは「枕草子」内における藤原実方との交際期間です。始めの頃に少し離れたところから見つめる少納言。最終段近くになって「やがてこうやに下りたる」として実方が出てきます。彼女が職御曹司(しきのみぞうし)に住まわせられた一条天皇の中宮(皇后)定子の良き話し相手としてお仕えしていた頃には既に、現在の宮城県名取市にて亡くなっております。まだまだ、というよりますます調べねばならないことが出てきております。少し、深入りし過ぎな事は承知していますが、新たな疑問が増えています。
 前置きが長くなりました。興味のない方にはお詫び申し上げます。 
源氏物語絵巻より
 第六十段に「暁に帰らむ人は・・・」として明け方に帰ろうとしている男性は「人はなほ、暁のありさまこそ、をかしうもあるべけれ」(男性はなんといっても明け方の振る舞いこそ、愛情細やかにしなくてはならない。)として、帰りたくなさそうな様子にてぐずぐずして、脱いだ衣服など「ゐながら着もよらず、まずさしよりて(座ったままで衣服を着ようともせず、女に寄り添って先程までの睦言の続きを)女の耳にいひ入れて、そこをどうにか出口まで連れ立って、今度会うまでが待ちどうしい、なんてことをかき口説きながら「いひ出でにすべり出でなむは、見送られて、なごりもおしかりなむ、思ひ出どころありて・・・」、そのわりにスーッと出て行ってしまうのは、つい、いつまでも見送ることになってしまい、好い印象を残すし、思い出のよすがも多い。その一方で、「ごそごそがばがばと」慌てふためいて「まかりなむ(それじゃね)」と一言、言うだけで消えてしまうなんて最低。とおっしゃております。
 又、別な段では、忍び逢う男女の後朝の夏と冬はそれぞれに異なる趣があって、どちらも(細かく理由を書いてはいます)「おかしけれ(味わいがある)」と。
 さらに、二百五十段に「あるが中によからむをこそは、選りて想ひたまはめ。及ぶまじからむ際をだに、『めでたし』と思はむを、死ぬばかりも想ひかかれかし。」(よさそうな女を見つけたら手の届きそうもない女であっても、命を賭けてでも恋して掛かりなさい)と、現代の草食系の男性には出来そうもない事を書いております。

 それにしても、本日は晴れてはいたのですが、実に冷たい風が吹いております。師走でございます。お店も忙しくなってまいりました。多少、カキコミが滞るかもしれませんがご承知ください。

2012年12月6日木曜日

「星野遺跡資料館」からぐるりと・・・


星野の山並みです。
  前回「おおひら歴史民俗資料館」に関してカキコミしましたが、その中で市内の資料館が「それぞれに寂しく主張していますが・・・」と書きました。実はその他の資料館について、多分そうだろうという予想のもとに書いていました。
縄文前、中期の遺跡跡
下野国庁舎、前殿
 実際はしばらく訪れてはいなかったのです。どうも気になりまして、ちょっと定休日ながら用事があったのですが、「星野遺跡資料館」から栃木市内を飛ばしまして「国庁舎」、「しもつけ風土記の丘資料館」、「下野薬師寺歴史館」を訪ねてまいりました。
 「星野遺跡資料館」は土、日だけの開館でして、風はありましたが暖かい陽を背中に浴びつつ、誰もいない
「風土記の丘資料館」外観
縄文前期の遺跡跡を拝見してきました。次に同じく開館はしていたのですが誰もいない「下野国庁舎」を、次に「しもつけ風土記の丘資料館」、そして「薬師寺」と見学してまいりました。
薬師寺

 「国庁舎」は綺麗に、というほどではありませんがスッキリと整備されておりました。
 ただこれで何回訪れたでしょうか。相変わらず静かな、まさに静かな佇まいのままです。「薬師寺」は外装を一部修復中でしたが、これはこれで落ち着いたなかなかの風情でした。「六角堂」の周りには足元にたくさんのどんぐりが落ちておりまして踏みつけるのが畏れ多いような感じです。梅林があるのですが、たくさんの蕾をつけておりました。しかし咲くにはまだまだ時間が必要なようです。
 これらを拝見しながらのそぞろ歩きは、初冬の中、実に幸せな気持ちにしてくれます。今回ご紹介している施設等は全て、主要な幹線道路からは脇道に入ったところにございます。従って当然、車の騒音もおしゃべりなオバサマ軍団にでも出くわさない限り、静謐という言葉がぴったりのいい気分を味あわせてくれます。
 入館料は「風土記の丘資料館」が100円でしたが、あとは無料です。お金のことを言ってはなんですが、申し訳ないような時間と空間と、その資料群を拝見させていただいての金額としては申し訳ない気がします。
 しかし それにしても少しは賑わいも、と思ってしまうほどです。
 なにしろ、各施設の展示品は相当に立派なものがあります。栃木県は各地に前方後円墳を始めとして、いろいろな形の遺跡が残されております。特に「東山道」の街道近くから歴史ある品々が出土しております。古代からの日本の中央部に沢山の人々が生活してきていた事、それも裕福さを感じさせてくれる、又、かなり高貴な方たちが居たことを実感させられます。
 ただし正直なところ、これだけの似たような展示品を集めた資料館がこの栃木を中心としてあちこちにある訳です。
いずれも、「賑わい」は必要不可欠なものとも思いません。
が、もう少しこれらの存在を知っていただく工夫を行政は対処するべきとは、差し出がましいですか。
 個人として、どうも「歌麿」に興味を殆ど感じないものですから尚の事、これだけの歴史を放置に等しい扱いをしていることにやるせない寂しさを感じてしまいます。
 穏やかなお天気の日に、お時間にゆとりがございましたらとっておきの散策コースとして、ご紹介方々、おすすめ申し上げます。
 「歴女」と呼ばれる方達にはたまらないはずです。