2014年12月2日火曜日

「藤原実方」と「源重之」

 藤原実方中将朝臣の陸奥下向、陸奥守赴任にあたってその事情をよく知り、又、彼の随伴者として、下向を共にした可能性のある「源重之」のことを書いてみます。

 学生時代に勉強そっちのけで、渋谷は道玄坂の脇道に入ったそのさらに奥に「DIG」というジャズ喫茶店がございました。入り浸っておりましたが、そこで先輩から教えられました。「DIGとは掘るという意味だよ」。「例えば直径1メートルの穴を、人力だけで2メートルの深さまで掘るとしたら、周りの土が崩れ落ち結果として恐らく直径2メートル近くの広さの穴が出来るだろう」と。「あることを追求すれば、自ずとそれだけでは無い知識も増えていくものなんだよ」と。 
 今の私には際限なく、色々な人物の事を見極めようとする兆しが見えています。自分が確信とすることを見極めるための傍証として。

 「源重之」もその一人です。更には「『伊吹山』は滋賀と近江の境にある山には非ず」と書き残した、「能因法師」についても、どんな人物だったのか何も知らないでは済まされない事柄です。

 実方も重之も能因法師も共に歌人としてその名を残し、それぞれに私家集がございます。在原業平の父行平は陸奥出羽按察使として陸奥にいた記録が残っております。そんな関係もあり、つまり今、書き出した人物は全て高名な歌人としても、又、陸奥に在所したことのある人たちばかりです。 
 

 そこで今回は「源重之」です。
 「中古三十六歌仙」の一人として沢山の和歌を詠み、その私家集も色々とあります。宮内庁書陵部蔵の私家集を始めとして、徳川美術館には伝、藤原行成筆によるものもございます。ただし彼の官位は高くはないというよりも微官と呼ぶべきものでした。
 976年相模国権守、從五位下として、信濃守、日向守等を歴任してますが、いわゆる地方官として一生を閉じています。

 実父兼信は所謂官途に希望を見いだせず陸奥国に土着しています。結果、重之はかなりの地方を経めぐったことになりますが、本人の願いはかなわないままに、宮廷での出世を終生望みつづけます。 
 小倉百人一首には、48番歌として
 「風をいたみ 岩うつ波の 己のみ くだけて物を 思うころかな」
が所集される等、それなりに和歌詠みとしては評価の高い人物でした。つまり重之の「百首歌」歌集は、歌に堪能なことが上に聞えて特に詠ませられたものであり、彼の得意の作ともいえます。

 しかし、宮廷内での権力をめぐる所謂、中関白家の没落により、藤原道長を頂点とした摂関政治がまかり通ってゆく中で、重之の昇進も何もなくなってゆきます。
 そこで藤原実方ですが、重之と同じような立場になってしまいます。ただし実方は優美淡麗の容姿と当意即妙の機智とで宮廷の花形でもありました。
 位は重之とは較べようもなく、正暦五年(994)に左近衛中将、兼陸奥守となっております。
 当時は遥任として地方の例えば駿河守に任じられたとしても、本人が赴任しなくても代理人が居れば、よい制度がありました。
 しかし、時代の流れの中で父を亡くし喪中(本来は重喪でありそれ故当初の赴任予定日より大幅に遅れます)の実方でしたが、多くの人に惜しまれつつ京の都を離れるわけです。
 しかし、この事実は当時としては大変センセーショナルな出来事でした。そのために色々な憶測も生まれ、例えば藤原行成との不仲説のようなことも「古事談」などに出てきます。

 結局、藤原実方が中心になる話へと進んでまいりますが、今回はここまでです。これからがいよいよ私には書きたかった事が続くのですが長くなりました。 
 尚、これ等の内容は「目崎徳衛先生『平安文化史論』」を下敷きにして学びました事であると付記いたします。

 写真の紅葉は栃木市大平町「川連城跡」で、うす暗い中での鴨さんたちは我が家の前で今朝、撮りました。

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