2012年6月29日金曜日

「花山天皇」(968~1008)

 早いもので今年も、半分が終了しようとしています。
 平安時代、「物忌み」に相当する国家レベルでの「祓え」として、六月の晦日と十二月の晦日がそれぞれ「国の大祓え」として定着していたようです。「六月の晦の大祓え(みなづきのつごもりのおおはらえ)」、と「十二月の晦の大祓え(しわすのつごもりのおおはらえ)」となりますが、天皇を初め宮中に仕えている人々の、半年の間の災いや穢れをまとめて祓いやる儀式などをさします。祝詞を奏上し、祓え物に罪を移し、その祓え物を大川に流す。祓え物には刀・人形(ひとがた)等が使われ、天皇はこれ等の祓え物に息を吹きかけ災いを移した、そうです。今で言うならお盆とお正月の様な物かもしれません。実際に「権記」にはどの年も六月と十二月の晦日の数日は、あのまめな藤原行成にして、なんらの記述がないのです。
 陰陽道全盛期の時代ということですか、人の死や血を見ることは穢れとして大いに忌嫌われました。

 花山天皇の即位は十七歳となっていますが、これは数え歳でのことでして現在で云うなら十五歳のときでした。
 前回、花山天皇の後継となった一条天皇を「理論派、正等派とするなら、花山天皇は直情径行派、浪漫派、色情過多でありながら仏法への帰着心の強い人物であった。」と書きました。わずか二年の在位にして、出家しますが、これにはかなりの訳ありでして、今では有名な陰謀による出家の強要が言われております。しかしそれだけではない、花山院(出家後や、退位以後は・・院、と名乗ります)自身の強烈な性格もあってのことでもあります。即位式が行われたその日「大極殿の高御座(たかみくら)の上で、儀式進行の合図の前に・・・」つまり即位式の最中に、その高御座の中に女官を引き込み何を致してしまった、というツワモノとでも云えばよいのでしょうか?
 多感にして過激にして持て余すエネルギーの所産とでも弁護しておきますが、そんな彼も一途に想いつめた女性がおりました。藤原為光の娘、忯子(きし、と読むのでしょうか)という女性ですが、並外れた情熱でもって愛するのです。そして懐妊するのですが、当時妊婦は穢れた身とされ妊娠三ヶ月くらいで里下がりをさせられるのですが、彼女への愛情止みがたく手元から離さなかった。結果、悪阻のひどい状態の彼女は、里下がりを得たときには最早息絶え絶え状態で、直ぐにお亡くなりになってしまった。
 
 

 花山天皇(当時)が退位、出家する、いや、せざるを得なかったその動機の一つがこれ等の出来事プラス、彼の知人や肉親が相次いで出家します。当時十八歳の天皇には、まして多感な彼に、厭世感がおきたとしても不思議はありません。愛欲の悲劇的結末、政治の行き詰まり(彼を退位させることで権力を得られるものがいた)、宗教的な意味合い、つまり、当時、妊娠中や出産時に死んだ女性は成仏できない、とする「浄土信仰」
 彼はさまよえる彼女の魂を供養するため、信仰にのめりこみます。花山寺の阿闍梨厳久(あじゃりごんく)を侍らせて説教に聞き入りますが、そして、出家となるわけですがこの厳久なる人物が実は天皇引き落としの共犯者でした。
 しかし、若さという特権、それでなくても特権が全く無くなってしまった訳ではない花山院のその後。同じ世代ということ以上に、藤原実方などが花山院との親密な交際があったのには和歌をたしなみ、楽しみ、かつ、性格の類似点や高級貴族としての品行ではない、品性に有った、と思わざるを得ません。
 それにしても、昔から英雄色を好む、といわれますが、天皇やその時代の中心人物が、色を好むことは決して悪とはいえません。責務として血筋を残さなければならない立場にあっては、生まれた子の生存率の低い時代にあって、それは中傷すべき事柄ではないといえます。でも、室町時代に作られた『尊卑分脈』には、嵯峨天皇に、皇子二十二人皇女二十七人。仁明天皇計二十四人、文徳天皇計三十四人。花山、一条両天皇の祖父にあたる村上天皇には計三十人もの皇子皇女がおったそうです。それでもこの数はわかっている範囲のことでして、所謂、御落胤となるとこの数字には出てこない方も当然おったと見るべきでしょう。どうにも現代の私達には想像もつかない世界といえます。源氏物語が、姦淫のそれも近親相姦や、不倫、果ては淫行までも含めた物語であることも事実です。

 花山天皇のためにまだ書き加えます。
 退位して後、彼は沢山の恋をしますが、その一方で、仏道への帰依も強いものがあり(「何の矛盾もない」、という長渕剛の歌がありました)西国三十三箇所の巡礼地をめぐる旅の原点は彼が作りました。でも、出家して後の余りにも奔放な女犯には、決して戒律云々がゼロであった訳は無くどうも、己の力のコントロールが出来ない性質のお方であった、と結論します。
 実はまだまだ花山院に絡んで、書きたき事が沢山ございます。でも、こんなことに興味を持ってこのブログを読んで下さる方は、私の知る限り身辺には思い当たりません。でも、この時代を探求なさっていらっしゃる方が身近にいないだけであることも事実として承知しております。私のこのカキコミなんて「誰でも知っていることよ」といわれそうな気もします。ですから、まだまだ書き続けます。

 本当は、かのこ庵のご近所の庭に、突如として姿を現しましたお庭の中の建屋についても書く予定でした。
 何しろ、お客様から随分とお問い合わせがありまして、先日、許可を得て写真撮影をし、その一部を公開する予定でしたが、「花山院」が長くなりました。次回でございます。
 又更に、「葛焼『蛍』」の新製品も完成しており、七月二日より販売開始の予定ですが、このアピールもしなければなりません。頭の中は、このブログのことで半ば以上に占拠されているのですが、最近、書き出すまでに時間が掛かるようになってしまいました。どうも、どこかネジが緩んだままのようなのです。花山院のパワーを少しいただく必要が有りそうです。別にこの歳で人倫の路を踏み外す・・・なんてわけでは有りません。何よりも、お相手がございません。
 残念なことでは有ります。今回、カキコミの最後は「花山院御製『千載和歌集』所収の和歌で締めくくります。
 「なべて世の 人よりものを思へばや
                               雁の涙の 袖に露けき」  

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