2012年6月19日火曜日

一条天皇(980~1011年)

 遡ること、1001年前の寛弘8年(1011年)6月13日に、一条天皇は病のため、三条天皇に即位します。同月9日出家、22日に崩御なさいました。昨年六月(旧暦)は一千年忌となります。980~1011年の短い生涯でした。
 関心のない方には、誠にどうでも良い話かもしれませんが、藤原道長全盛期の天皇として、又、御歳七歳で花山天皇から即位し、31歳でなくなる直前まで天皇として活躍した方でした。平安王朝全盛期の宮廷貴人の頂点に立ち、紫式部や清少納言、和泉式部を始めとする沢山の歌人や作者、書家が活躍した時代を駆け抜けました。
 当時の記録(つまり、私にとってのネタ本でもある「権記」藤原行成の日記による、知識の披瀝でございます)によりますと、一条天皇の御世ほど、宮廷文化が花開いた時代は日本史の中でも極めて稀有な時代であったと思います。
 一方で、流行り病が毎年の如く繰り替えされた時代でもありました。当時、医学らしきものもない時代にあって、阿倍清明(はるあきら)を始めとする陰陽道がそれらに変わるものとして確固たる地位を得ていたことも事実であり、そのための天文学までもが、長足の進歩を遂げた時代でもありました。
 長保二年(1000年)三月一日に日食が有ったそうですが、「権記」には従前から当然の事実として周知されており『三月一日 戌寅。日蝕が有った。そこで結政所(かたなしどころと読むそうです)に参らなかった。左府(道長)の許に参った。』(中略)結政所とは、いわば国会のような存在と思いますが、『日蝕の日は、廃務とするのが通例である。』
ところが何名かが出仕していたので『左少弁(藤原朝経)が
云ったことには「陰陽寮が中務省に申したのですが・・(中略)、そこで私が重ねて云った事には、この日蝕は諸人が知るところである。(中略)中務省が上申を懈怠したという違例によって結政の儀を行うのは、如何なものであろう」と』。
「中弁以下は、答えるところはなかった。丞相(道長)がおっしゃって云った事には「この事は尋ね問うべきことであろうか」と。しばらくして、院(藤原詮子)の許に参った。召しが有って御前に伺候した。退出した。』。
 一日の行動が、しかも仕事をしなくてもよい日に、行成は
あっちに行ったり、道長の下に二度も行ったりしたことが記されています。笑っちゃうというか、よくもまーと言うか、実に几帳面にして、こまめにして、フットワークのよい人物であることが分かります。この日記の全てがこのような形で 
進行します。 

  何ゆえこのような事を調べるというか、読み込んでいるかといいますと、全ては「藤原実方」に原点があります。今日、書いてきた一条天皇の前の天皇、即位後は花山院(かざんいん、と読みます)となりますが、彼と一条天皇との間柄というか、つながり方に興味を持ったからです。花山院が熊野参詣を何度も繰り返しますが、そのこととは別に
藤原実方との間に、沢山の詠み交わした和歌が残されており、親密なる友情関係が有ったことが推測されるからでもあります。
 

 台風4号が近づいております。外は風雨が強くなってきました。今夜、これからホテルサンルート栃木様の納入業者による協力会の総会があるのですが、出席者数が心配です。役員をしておりまして、色々と深く関わっておりますので「廃務」とはいかないのです。
 スミマセン。次は2~3日中に書き続けさせてください。
 もっとも、こんなことに興味を持ってくれる方は少ないですよね。平安時代かぶれの、可笑しなオッチャンのしょうもない日記でございます。ですが、書き続けさせてください。

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