2012年12月9日日曜日

「後朝」、「枕草子」より

 清少納言の「枕草子」には男女間の機微がかなりの頻度にて出てまいります。「後朝(きぬぎぬ)」とは前夜、共寝をした、というか、睦み合った二人の別れの朝をいいます。
 勿論、「後朝はかくあるべし」とまではっきりとは表現しておりませんが、そのようなことを複数回にわたって書き残しています。彼女が明らかにその経験上感じたことを書いているわけですが、あの時代にあっては、それを咎めることは不要というか、当たり前の事、逆に良くモテたのだなーと感心すべき事柄かもしれません。
 そこで(私としては今更遅いのですが)女性の側から見た男の何のあとの別れ際の立ち居振る舞い等に、清少納言様からご指導をお受けしてみます。平安の王朝文化の中でも、現代のせわしない世の中でも男と女の営み、恋することのそれ等は「をかし(あじわいがあるものです)」と書いています。
 しかしこんなことを書き込みする私はアホなおっちゃんでなく、色ボケおっちゃんでしょうか。でも「枕草子」を深読みしていましたら気づいてしまったのです。清少納言のお相手が誰であるかは特定できませんが、実方の名前も登場します。年下の藤原行成との会話も出てきます。他の女房たちには行成はあまり評判が宜しくないようですが、彼女とは知的会話が成立するのでしょう。官位も高い行成を姉さん女房のごとく付き合っています。
菊池容斎・画 清少納言
 長保二年(西暦1000年)頃の事とすると、清少納言三十代前半、行成二十代後半と思われます。どちらにしても、少納言、熟女というか、女盛りを過ぎる手前の御歳と言えます。しかしよくわからないのは「枕草子」内における藤原実方との交際期間です。始めの頃に少し離れたところから見つめる少納言。最終段近くになって「やがてこうやに下りたる」として実方が出てきます。彼女が職御曹司(しきのみぞうし)に住まわせられた一条天皇の中宮(皇后)定子の良き話し相手としてお仕えしていた頃には既に、現在の宮城県名取市にて亡くなっております。まだまだ、というよりますます調べねばならないことが出てきております。少し、深入りし過ぎな事は承知していますが、新たな疑問が増えています。
 前置きが長くなりました。興味のない方にはお詫び申し上げます。 
源氏物語絵巻より
 第六十段に「暁に帰らむ人は・・・」として明け方に帰ろうとしている男性は「人はなほ、暁のありさまこそ、をかしうもあるべけれ」(男性はなんといっても明け方の振る舞いこそ、愛情細やかにしなくてはならない。)として、帰りたくなさそうな様子にてぐずぐずして、脱いだ衣服など「ゐながら着もよらず、まずさしよりて(座ったままで衣服を着ようともせず、女に寄り添って先程までの睦言の続きを)女の耳にいひ入れて、そこをどうにか出口まで連れ立って、今度会うまでが待ちどうしい、なんてことをかき口説きながら「いひ出でにすべり出でなむは、見送られて、なごりもおしかりなむ、思ひ出どころありて・・・」、そのわりにスーッと出て行ってしまうのは、つい、いつまでも見送ることになってしまい、好い印象を残すし、思い出のよすがも多い。その一方で、「ごそごそがばがばと」慌てふためいて「まかりなむ(それじゃね)」と一言、言うだけで消えてしまうなんて最低。とおっしゃております。
 又、別な段では、忍び逢う男女の後朝の夏と冬はそれぞれに異なる趣があって、どちらも(細かく理由を書いてはいます)「おかしけれ(味わいがある)」と。
 さらに、二百五十段に「あるが中によからむをこそは、選りて想ひたまはめ。及ぶまじからむ際をだに、『めでたし』と思はむを、死ぬばかりも想ひかかれかし。」(よさそうな女を見つけたら手の届きそうもない女であっても、命を賭けてでも恋して掛かりなさい)と、現代の草食系の男性には出来そうもない事を書いております。

 それにしても、本日は晴れてはいたのですが、実に冷たい風が吹いております。師走でございます。お店も忙しくなってまいりました。多少、カキコミが滞るかもしれませんがご承知ください。

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