2013年8月24日土曜日

「紫式部」論。 僻論になりますが・・。

 すっかりご無沙汰の平安時代もの、しかも紫式部を料理させていただきます。
 清少納言に関し、書きこむ予定でしたが、あの時代をこの時代まで、いや更に後世まで残すであろうと万人が思う人物として、やはりこの人物を書いてみたくなりました。ただし初めに申しあげておきます。この世に「紫式部」派と「清少納言」派がいるかどうか、全くわかりませんが、どうもそういう物差しがあったなら、清少納言派のオッチャンなんやなあ、として以後をお読みください。
今年も駐車場は山百合が満開です。
 「源氏物語」は当然、「紫式部日記」も手元に置いて書いております。
 
 結論から先に書きます。
 「源氏物語」を繰り返し読むことは、この時代の、特に私のせっかちな性格では無理というよりも、どうにも読み返す気力が失われてしまいました。何とも、色恋沙汰の連続に辟易したのです。「宇治十帖」にしても、又かいな、という感想でした。
 「紫式部日記」には、同日記の中で彼女は全く正反対の事を記述しています。紫式部の人物像、彼女の性格、実物の女性としての、当然今も変わらないでしょうが、備わっているべきものが、少しだけ欠いていたのでは、と思うのです。
まもなく満月になりますが、次の満月は十五夜です
 ご研究なさっておられる諸先生からは叱られるかもしれませんが、思うことは黙っていられる私ではありません。したがって僻論ではありますが、以下不愉快でしたらお読み流しください。あるいは私の誤りをご指摘ください。

 紫式部が21世紀の視点から見ても、才女であることまで疑うものではありません。やはり半端ではない素養を身につけていたことは納得いたします。
 彼女の生没年は、あの時代の受領階級の子女が概ねそうであったように、明確ではありませんが、970年代頃に生を受けた、と多くの研究者が書いております。ただし、一致した確証を持った生まれ年は不明にて、先生によりバラバラです。没年も同様です。
 ただし以下のことは「小右記」の記述等により明らかになっております。つまり、彼女のお父様は、越後守にして当時、屈指の学者にして詩人でもあった藤原為時であります。幼い頃からその父の素養を十分に受継いだことと思われます。当時は12~3才頃にて結婚をすることも普通だったのですが、彼女は、おそらく二十歳を過ぎてから、親子ほども歳の差がある山城守・藤原宣孝と998年に結婚しています。受領層どうしの、いわば釣り合いはとれてはいたといえます。長保元年(999年)に一女・藤原賢子を授かりますが、この歳の差と、宣孝が翌年にはなくなってしまい幸せとは縁遠い結婚生活を送りました。

 その頃、藤原道長の長女でもあった、彰子が既に皇后定子亡き後の宮中における一条天皇の寵愛を受けるものとして存在しておりました。そこで、彰子付きの女房兼家庭教師役のような立場で宮廷女官となります。漢文を始めとして、その素養の高さは、一条天皇も周知のことであり、パトロン的存在であった藤原道長等の庇護もあり、「源氏物語」の制作に没頭できた、と考えられます。当時は貴重であった、紙をふんだんに使えたのも、その甲斐あっての「源氏物語」といえます。
東武線栃木駅と新大平下駅間であと二週間は見られます

 さてそこで、彼女は「紫式部日記」も残すわけです。
 その中で、有名な人物批評が出てくるわけですが、その章段の書き出しには(現代語訳で書きますが)「このついでに、女房たちの容貌についてお話申し上げれば、口さがないということになりましょう。それも現在の人々についてはなおさらでしょう。当面の人については、やはり憚りがあるし、さてどんなものでしょうかなどというような、少しでも欠点のある人については、言いますまい。」
とあります。そして宰相の君から始まって、かなりの数の、それも
彼女の視線での評価になりますが、何よりもまず可愛い、清楚でこざっぱりとしている等、美人を対象に褒め言葉が続きます。  

 しかし彼女の才気が筆を走らせてしまったのでしょうか。当面の人や、少しでも欠点のある人については「言いますまい」としていたはずですが、和泉式部から始まって、赤染衛門、清少納言の人物評が出てくるわけです。
 和泉式部と赤染衛門とは彰子付きの女房として、又年齢としても同輩と思われる世代です。そこで和泉式部について「和泉式部といふ人こそ、面白う書き交わしける。されど、和泉はけしからぬ方こそあれ。(中略)恥ずかしげの歌よみやとは覺え侍らず」。
 「彼女とは興趣深い手紙をやり取りしました。けれど和泉は感心しない面が有り・・・」として恋に生きたとも言える彼女を評しています。又、その「和歌はとても趣深いものがあるのですが、古歌の知識や、和歌の理論などは本格的な歌人とはいえない」と。更に「こちらが恥じ入るほどの歌人だとは思われません」とまで書いています。和泉式部は少なからずモテた。
 赤染衛門については「特に優れた歌詠みではないが、本当に誠に風格があって、歌詠みとしてどのような場面にも歌を詠み散らすことはないが・・・」と書きながら、「上句と下句がばらばらにて(中略)また何とも由緒ありげなことをして、一人悦に入っているのは、憎らしくも気の毒に思われることです」。上げたり下げたり、どっちなのと、混ぜ返したくなります。赤染衛門は少なからず良き夫を得、おだやかな当時としては幸せな生涯を過ごした。

 さて随分と長いこと書いてきましたが、やっと清少納言評です。
 しかしこのことは紫式部らしい、清少納言に対しここまで書くかといいたくなる悪口、いわば罵詈雑言に近い辛辣な評をしているわけでして、有名な箇所でもあり皆様ご存知のことかと思います。
 ですから「あんな女の死に方がいいわけないわ」とまで書いた経緯は何なのか。答えは一つではなさそうですが、特定できかねます。僻論として思うことはありますが。よって詳細は省きます。
 結局、いろいろ書きましたが、和泉式部も赤染衛門も彰子付きの同僚女房ですし同輩でもあり、あれでもまだ穏便な批評だといえるのかもしれません。方や、清少納言は、生前、一条天皇の寵愛を一手に受けた中宮定子付きの女房でした。
 定子サロンといわれる程に華有り、雅あり、才能豊かな公卿たちの集まる中心に、まさに清少納言は、定子のお側にお仕えしたわけです。
 それにしても、清少納言に何らかの罪があるわけではありませんし、紫式部よりも正確ではありませんが、清少納言は十歳も年上の大先輩でした。それなのに、なぜかくも彼女はこうまで悪評を書いてしまったのでしょうか。

 どこかでどなたか偉い先生が、論評なさっているかもしれませんが、私の僻論を展開させていただきます。


 当時、高価にして貴重なる紙を沢山所有し、「源氏物語」や、「紫式部日記」、更に沢山の和歌を残した才女であることに異論はありません。しかしこれだけの作品群を残した女性として、恋なんかしている暇はなかったのではないでしょうか。一度結婚し一女を授かっておりますが、結婚してすぐに、ご主人はお亡くなりになります。再婚説も、道長妾説もありますが、何しろ昔のことゆえ明確な事実とは学会では認められていないようです。多少の「不倫」なんて言葉はなかったでしょうが、あの時代、誰も咎めることではありませんでした。
 ならば思うのです。世の中には、嫌でも可愛がられるタイプというか、誰からも好かれる人物が存在することはあって不思議ではないということです。事実はどうかわかりませんが、和泉式部は男を寄せ付けるフェロモンを放っていた。しかし、その逆の女性の存在も又有りではないでしょうか。 
 滋賀県の近江市にある「石山寺」は数多くの文学作品に登場したり、当時の日記などを残した方が、参籠していることでも有名ですが、紫式部も同様でした。 「源氏物語」の構想を練ったり、執筆したことは周知の事実です。年齢としては女盛りの頃を、筆を持って毎日を過ごした。
 いかがでしょう。言い寄る男がいなかった、とまではいえませんが、どうも現実はそれに近かった。それだけではないにしろ、和泉式部評にしても、現実にモテる女性が疎ましかった。勿論、かなりの執筆に対する情熱がなくしてあれらの作品群を残すことは不可能です。が、彼女は成し得た。
 私には聞こえてくるのです。
 「男なんか作品の中で如何様にも操れちゃうわよ」
 「光源氏は、だからあ私の理想の男なのよ。つまり私の周りにい るわけないじゃん」
 「筆が勝手にどんどんと、スラスラと動いてくれるの。楽しいわよ。悲劇も喜劇も怨念も好き勝手に書いていると気持ちがすっきりするのよね」・・・というような。


 「さしも草」の新しい事実の発見がございました。
 「邦楽演奏会とお茶会」の最終原稿が出来上がりました。
 「藤原実方」献詠会のご案内も来ています。
 「青竹筒入り水羊羹」よく売れましたが終売です。
 「初秋を彩る商品群」もご紹介しなければなりません。
 誠に書かねばならないことが沢山ございます。
 そうです。「清少納言・論」もあります。

 どないしまひょ。

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