2014年10月13日月曜日

藤原実方と清少納言

 こんなにも、何の役にも立ちそうもないことを追い求める私は、かなりのヒマ人と思われそうです。しかし益々深みにはまっていく己を、いささか持て余し気味でありながら、やめられそうにありません。忙しいのにねー。

 平安時代、陸奥に下向する前の青年貴公子「藤原実方」の詠みし和歌の数々は「実方集」に登場してまいります。
 今回は「実方集原型甲本の形態と編纂意図 ―清少納言との関係―」との表題による仁尾雅信様の評論より「そうか、そういうことだったのか」という引用でございます。
 
 「実方集」といっても伝本が沢山ございまして、「宮内庁書陵部蔵『実方中将集』」を中心とした甲本の伝本群と「群書類從所収の『実方朝臣集』」等の類従本の伝本群があります。
 このような中で仁尾様は甲本の伝本を中心に清少納言と実方との関係を活写してくださいました。

 「枕草子」という、いうなれば名エッセー集とでもいうべき作品を残した清少納言ですが、何度か実方に関する記述が出てまいります事、このブログをお読みになっていない方でも、ご存知と思います。
 歌人としても武人としても高名であった実方ですが、『古事談』に「一条院御時、臨時祭試楽、実方中将依遅参不賜挿頭花・・」として臨時の試楽に遅れてきた実方が呉竹の枝を当意即妙に冠物にさして舞を務めた話があります。この時の実方を清少納言は離れた場所で見ていたことが書かれています。舞人実方に対する憧憬が読み取れます。又、枕草子第三十五段「小白河といふ所は」にて、今度は歌人としての実方を高く評価しております。いずれも未だ深い仲になっていない頃のあこがれの人、実方の事です。

 少し、話を飛ばしてまいります。
 仁尾様曰く、「原型甲本の巻頭部は、清少納言とのゆかりの詠草群である。(中略)巻末部にも第二章で詳述した如く清少納言との贈答歌が収録されている。このように原型甲本は、清少納言関係の歌を巻頭巻尾に収録するという清少納言を念頭に置いた編纂方針がとられているのである。原型実方集は先学諸氏のご指摘の如く長徳元年陸奥赴任の際にそれ以前の歌稿を纏めたものであろうが、実方は、その原型実方集を祖型として、清少納言に贈呈するするため原型甲本を編集したのではなかろうか。」

 「清少納言は実方が陸奥へ下る直前まで(恐らく下向以降もそうであったと思われます)実方を恋慕っていた事を窺わせる惜別の歌が異本『清少納言集』に所収されている。
   実方の君の、陸奥国へ下るに
 床も淵 ふちも瀬ならぬ なみだ川 そでのわたりは あらじとぞ思う

 清少納言は実方の下向に同伴することを約束しながら、何らかの事情でそれが果たせなかった。・・・」

 枕草子、最終章段
 「まことにや、やがては下る」といひたる人に
 思いだに かからぬ山の させも草 誰かいぶきの さとはつげしぞ

 が、ございます。

 実方の有名な和歌として小倉百人一首の第五十一番目(これは名誉ある順序なのです)には
 また、人に、はじめてきこゑし
 かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしもしらじな 燃ゆる思ひを

 この歌は実方が清少納言に初めて贈ったプロポーズの歌であるとしています。やはり二人の仲は親密なものがあったといえますが、それを表には出したくなかった事情もありました。

 そして、陸奥下向の前に「実方集」として清少納言に贈った、と思われるのです。
 「思ひだに」の清少納言。「かくとだに」の実方。この類似性は否定し得るべくもありません。


 仁尾様は「実方を彷彿とさせる実方ゆかりの歌で三巻本「枕草子」を完結させたのは、やはり、実方を偲ぶ思いがあったからであろう。そして、それは、実方から贈られた原型甲本が自分と交わした贈答歌を巻末に置き、また巻頭にも変わらざる思いを訴えた歌があり、実方の自分への恋心が窺え、清少納言もその実方の真意を理解し、その原型甲本に唱和しようとしたからではないか。」


 「結び」として(前後は略しますが)「実方は、自分の不変恋を清少納言に訴えようとして、下向の折にこの原型甲本を編纂し贈ったのであろう。」「枕草子は(中略)最終章段に実方を彷彿とさせる歌を収録して完結させたと思われる。」とし、これらの考察は、実方の陸奥下向の理由を解明する一環としてのものとしております。

 次回は実方没後の熊野の事、「実方院」、そして何故、歌枕としてだけでなく陸奥が問題なのかを書きます。

2014年10月4日土曜日

藤原実方の和歌を今回は中心に。

 又しても大変なご無沙汰となってしまいました。すみません。
 それにしても何とも忙しい今年の九月でした。
 月初めに一日休んだだけでございまして、我ながらこんなに働いた記憶がございません。お店は昨年並みでしたが、何しろ当方が忙しいときは量販店さんもお忙しいわけでして、其処の所が些か私の考えが甘かった、ということです。うっかり「特設コーナーを設けますから…」の話に乗ってしまい、よくここまで体力が持ったものだと、我ながら感心してます。その間にも色々と仕事以外の時間を取られることもあり、半分自分にあきれさせられつつ、褒めてもやりたくなります。その割に、儲かっているのかどうか心配もありますが…。

 寝室に入り、ぐっすり眠りたいがために(いけないのですがね)「『実方集注釈』竹鼻續」先生の著書を少しづつ読み進める日々でした。ただし、同じページを何度か読み直したりしてましたが。

 平成五年初版、日本古典文学界監修、貴重本刊行会の発行による、お足の事をいっては何ですが二万円近くもする本でございます。私が読むには、勿体ないご本です。

 藤原実方の詠いし和歌を中心に、その背景、実方の人物像や、当時の諸相を書いております。誠に開眼させられることの多い著書でした。残暑の無かったかの如くいっぺんに秋も深まっていく感じですが、十月六日は十三夜でもございます。その辺にちなんだ実方の和歌を先ずはご紹介します。


 「吹く風の 心も知らで 花薄 空に結べる 人や誰そも」
 返し
 「風のまに 誰結びけむ 花薄 上葉の露も 心おくらし」

 仲の良かった命婦が、「ススキを結んだのは誰かしら、不風流な事をなさる方ね」と詠います。ススキを結んだのは風でススキがなぎ倒されないように、との配慮なのですが、和歌の世界が横溢していた時代です。風と薄の関係を知らなくてはなりません。それに対して実方が返歌をします。
 「風の吹き止んでいる間に、誰が花薄を結んでしまったんだろうか。薄の上葉の露でさえも風に遠慮して置いているらしいのに」と

 深養父集に「花薄風になびきて乱るるは結び起きてし露や置くらん」他、がございます。
 親密な関係にあった内膳命婦が、「和歌における風と薄との関係を踏まえて詠み送ってきた歌に対して、実方の歌では風と薄と露の三者による複雑な関係にして、即座に詠み返しているところに、実方の才気がうかがわれる。」と評しています。


 女に
 「いつとなく時雨ふりぬるたもとにはめずらしげなき神無月かな」  
 対の御方の少納言ききて
 「大空のしぐるるだにもかなしきにいかにながめてふる袂そは」

 (いつということもなく常に時雨が降りかかったように涙に濡れている袂には、特に時雨の降る十月も、いつもと違った感じがしないことですよ。そして清少納言です。対の御方にお仕えしていた少納言がこの歌を聞いて。大空がしぐれるのさえ悲しいのに、いつも時雨に濡れているというあなたの袂は、どのように長雨の降るのをもの思いながら過ごした袂ですか。と)


 実に簡略化して書いていますが、竹鼻先生は誠に微細に、そしてかなりの行数を要して、その前後の経緯や時代背景を解説なさっております。 
 この解説の終段に「そして、この贈答歌は清少納言が為光家の家女房に転じていた寛和二年の事実と思われるが、対の御方という前歴によって紹介しているのは、清少納言との交渉の事実を秘匿しようとしたためであるといわれている」

 歌意もそうですが、当時の青年貴公子、実方があちらこちらの女性と懇意なる付き合いをしていたことも偲ばれます。

 又、いつ終わるともわからない実方考が続きます。
 

 実はこの忙しい最中に、我が家では傷んできた屋根の改修工事がありました。平成のお金ばかりがかかる大修理となってしまいました。







2014年9月6日土曜日

夏バテでございます。

 明らかに加齢による夏バテの蓄積をしみじみと感じております。  
 数年前は、気温30度を少し超えた辺りがいわゆる盛夏であったような気がします。しかし35度超の日々の連続でした。
 以前ですと、それでも一晩熟睡すれば疲れは取れたはずでしたが、悲しいかな疲れが抜けません。八月後半からずーっと微熱状態が続いてしまいました。そんな中で、お付き合いも欠かせずの飲み会が二度ございました。
 いけませんですねー、楽しい仲間や知り合いとの飲み会は。
 そもそも昔から比べましたら、酒量も普段から減ってはいるのにすっかりそのことが抜け落ちてしまう、それだけ楽しかったといえば確かにそうなんですが。
 八月のお盆過ぎからつい最近まで何をするでなく、ただただボーっとしている己にあきれつつも、気力のわかない日々でした。 

 しかし流石に、そうも言ってられなくなりました。
 九月八日(月)は十五夜です。 
 敬老会のご注文も新規を含めて、入ってきております。
 そしてお彼岸です。半端では無い数のお寺様からのご注文もございます。つまり和菓子店の搔きいれ時となってしまいました。
 

 そんな中、広島の堂畝様がかのこ庵を訪ねてくれました。
 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、平安時代のエキスパートでして、私の師匠(?)でもある歴女です。とてもお若いのにその知識や見聞の確証には素直に頭が下がる行動力を持った女性です。
 全国平家会の様な集まりの臨時総会が、平家落人伝説の残る県北の湯西川温泉で開かれるそうでして、都内での一泊を加え、午前の早い時間に来ていただきました。そして下野の歌枕「伊吹山」をはじめとして数時間にわたり、ご案内いたしました。
  詳しくは、次回のお楽しみとして今回は書き込みしませんが、数日中に藤原実方や、平家の話等も含めてご紹介申し上げます。

 さて、日本全体の邦楽界をリードする、栃木県在住の筝、三弦奏者の前川智代さんがリサイタルを開きます。招待状をいただいてしまいました。ここは何としても駆けつけねばならない立場だと、勝手に思い込んで出かけることとしました。花束抱えて。詳しくはパンフレットをご覧いただき、お時間の許せる方は是非ご鑑賞ください。未だお若いからこの料金設定なんだろうと思いますが、日本の邦楽界を背負っていらっしゃる前川さんのリサイタルです。素晴らしい時間を過ごすことができるはずと、自信を持ってお勧めしておきます。

 ところで、十五夜を前にして、ご近所の虎賦のススキは穂が見頃になっております。一方、日当たりが悪いのでしょうか、かのこ庵の北側のススキは背丈だけは一人前以上に伸びていながら、ようやく穂が少し見えてきた状態です。これでは間に合いそうもありません。十三夜までこのままですね。
 

 大平町の東武線沿いに咲く「ほていあおい」が見頃になっております。 

2014年8月17日日曜日

「藤原実方」を考察する。

 八月のお盆様も無事に乗り切ることが出来ました。
 その一方で、日本の何処かでとてつもなく激しい雨量を観測している地点があるという、ざわついた今夏です。
 誠に、過去にこれという異常気象による被害の少ない栃木県でしたが、どうやらここ数年、県内各地に被害が出るようになってしまいました。特に竜巻と思われる被害が続出してます。しかし、いかにケータイ万能の世とはいえ、気象情報を一日中チエックしている訳にもいかず、突然の強風と大雨には自然の営みの猛威を実感させられます。狭小な存在なんです、人間とは。


 栃木市の教育委員会主催による「とちぎ文化講座」なる催しがあり参加してきました。色々なコースが設定されており、「遺跡、史跡コース」や「文学コース」「美術コース」「栃木市ゆかりの偉人コース」と別れております。
 「遺跡、史跡コース」の二回目のタイトル(全四回)が、「古代~中世の栃木市」となっており、奈良時代から鎌倉時代あたりまでの事を中心とした講座が開かれました。講師の先生は公益財団法人とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センター副所長(長すぎます)にて栃木市文化大使を兼務なさっている方が二時間に亘ってお話しされました。
 これは私としては聞き逃せないかと思い、夜七時からでしたが、聴講してまいりました。40名以上の聴講者がおりました。
 結論から言いますと、二時間で700年代から1400年代までの事柄を話していただくには無理があります。更に講師役の方にも得意な専門分野がおありだろうと思います。ザーッと総論を流して終了でした。得意な分野に絞ってお話をお聞きしたかったなと、今は思います。又、資料の中の写真や、文字が不鮮明なことおびただしく疲れました。
 勿論、私が関心を持っている「東山道」や「下野国庁舎」、「薬師寺」に関してのお話もございましたが、どうしても物足りなさだけが残ります。
 今回の講座を企画なさったことを否定するものでは決してありませんし、有意義な事と思います。私が勝手に物足りなく思ってしまっただけの事にすぎません。ただ、そんな意見もあった、とご理解いただきたいのです。
 

 栃木市の市民には「東山道」よりも「日光例幣使街道」の方が身近にしてなじみがあります。何しろ、片方はいまだ明確な道筋が確定された訳ではなく、一方は現在も市の中心部を通過する主要な道路として、日頃から話題にもなったりしています。 
 つまり「重要伝統建造物群」の指定も受けている町内を通過していますので。

 それにしても、講師の方もちらっと触れていましたが、遺跡等の発掘調査が栃木市に於いては何とも歯がゆい程に行われておりません。東北自動車道佐野ジャンクションから関越道まで抜ける北関東道がありますが、佐野田沼ICを作る際、なぜにあれだけの工事をしておきながら、あの一帯を発掘調査しなかったのでしょうか。同じ北関東道の上三川IC周辺の発掘調査では大変貴重な東山道跡の出土や遺跡の発掘調査が進められました。管轄外からなのかもしれませんが、市の教育委員会等が中心となって、多少なりとも発掘調査すべきでした。東山道が特定されたかもしれないのです。
 何しろ、すぐそばには、平安時代随一の学僧として高名な天台座主、慈覚大師円仁の大師堂がある「大慈寺」や「村檜神社」が今現在も荘厳さをもって存在しているのです。
 勿論、推論としか言えませんが、東山道はこの地点を通過して「下野国庁舎」に向かったであろうと考えています。
 更に周辺には、何か所もの歌枕の地名が冠せられた場所が点在しています。


 藤原実方が京の都から、この東山道を利用、北上し、妻子を同伴して陸奥国庁舎の国主として下野の国庁舎に立ち寄ったであろうことは、当時の道路状況や、彼の官位、その職名からも十分に推察できます。


 勿論、各地の資料館にて当時の資料から分かる範囲でのことをお聞きし、それなりに独自に調べはしたのですが、何一つ裏付けてくれるものの存在を確認することは出来ませんでした。 
 少なからず、1000年前の事象や特定の人物の足跡を追いかけることはきわめて困難を伴うわけです。それ故、私は悠久の浪漫として、半ば夢を見る思いで追跡している、ことになりますか。
 しかし、実方の和歌を集めた「実方集」(桂宮戌本より)には 
 「みちのくににて、北の方うせ給いてのち、つつきみに、はかま  
  きせ給とて
 いにしえをけふにあはするものならはひとりはちよをいのらざら   
  まし」とあります。
 妻子を伴っての陸奥下向でした。
 当時、例えば花山天皇退位後の花山帝に矢を放って左遷された藤原隆家や、源氏物語の中で光源氏が須磨に自発的に蟄居するくだりがありますが、左遷で京を離れるものが妻子を伴うはずがないのです。

 随分と長く書いてきてしまいました。でもこれはまだ入り口にすぎません。次回も、もう少し書きます。
 何しろ私の時間が無くなりました。商いに戻ります。

2014年7月29日火曜日

暑中お見舞い申し上げます。実方論入口です。

 先程、ご注文のお届けにて車に乗りましたが、ぎらぎらする太陽に照らされて、ハンドルが熱くて握れません。流石にこの時期、連日の猛暑が続いております。この歳になりましたら、昨日の疲れが抜けません。以前でしたら、一晩寝れば回復したものですが。

 このブログをお読みくださる皆様の体調が気になります。
 熱中症対策は勿論、万全なる体調管理にも怠りなく「今日無事」をお心掛けください。

 ところで、ここしばらくは近、現代ものばかりで「藤原実方」はどうなったの、と言われそうですね。気にはなっているのですが、どうも源氏物語や、清少納言に更には、開高、山口両先生に関し、随分と時間を割いてしまいました。

 所謂、平安時代物は書いてはいますが、実方像についてそろそろ書き出さねばなりませんですね。どうしてそこまで実方に感心があるかについてだけ、今回その理由の一端を書いておきます。
 

 当初は栃木の歌枕について、「伊吹山」や「さしも草」を調べ始めていく過程で、「藤原実方」に興味を持ちました。そしてネットで検索していくと沢山の方がいろいろと書いていらっしゃるのに気付きました。しかしその殆どが、実方の陸奥下向に関し左遷論を中心に展開しているのです。しかもワンパターンの。

 國學院大學栃木短期大學の図書館には驚くべき程の平安時代当時の蔵書、研究書がございました。誠に館長様のご好意で随分と詳しく調べ上げることが出来ました。

 その結果、これは私が実方贔屓というだけでなく、実方の陸奥下向は決して左遷ではない、という結論が導き出されたのです。その事実や詳細を明らかにすることが私の使命のように感じてしまいました。
 宮城県名取市に藤原実方の墓所がきちんと整備されて残されていますが、それでも名取市民の方でさえ実方に関しあまりよくご存じではないところも見受けました。まして、栃木市に於いて実方像をお考えになっている方がほとんど見当たりません。

 偉そうに思われそうですが、その辺が何とも気になって仕方なく、それ故それらのための伏線として、源氏物語や枕草子から迂回して入ってきたような次第です。名取市の実方に関するパンフレットには「光源氏のモデル」として登場してまいりますし、ネット上での時代お宅の方も随分とその様に描かれたりしております。しかし、残念ながらその事実はついに見つけられませんでした。勿論1千年以上前の事柄というか人物です。明確に実証するには時間が経過しすぎてしまいました。私が導き出した結論も、その殆どは傍証でしかありません。この事実とこの事実を合わせて光源氏のある時期のモデルと呼べるのかな、程度かもしれません。

 ただし陸奥への左遷説には明確に反論できると思います。
 それをこれから少しづつ書き込みして行こう、新たな実方論を展開しようという訳です。
 

 お暇な方はお付き合いください。

2014年7月28日月曜日

「寿屋のコピーライター 開高健」坪松博之 (その2)

 うんざりする猛暑日の続く日々ですが、私めにとりましては誠に快事とでもいえる嬉しい出来事がございました。表題に関してのブログの書き込みを、作者であられる坪松様がご覧になっておられました。
 礼状(いただけるほどの事をした積りはございませんでしたが)かたがた、二冊も坪松様が寄稿なさっているご本を頂戴しました。当然、開高健、山口瞳両先生に関するものでして、殆ど全作品を所持していたつもりですが、欠落しておりました垂涎の本でございます。

 前回も書きましたが坪松様はサントリークオータリーの編集に携わっておりました時期がございました。開高先生存命中は先生の、その後は山口先生の担当編集者としていつも行動を共になさっていた(幸せな方だなあ)方です。一冊は茅ヶ崎市美術館発行(2010年11月発刊)の「生誕80周年 開高健 いくつもの肖像  開高健とトリスな時代 ~人間らしくやりたいナ」という記念本です。表紙は開高先生の娘さん道子さまがお描きになった開高健像です。

 そして、昭和史にその名を残したサンアド時代のスタッフのスナップです。仕事半分の中での事かもしれませんが、角瓶のストレートを手にしています。
 隣のページからは同じく茅ヶ崎在住であった画家であり、大阪時代からの盟友でもある山崎隆雄さまとの合作の作品が続きます。14点もの作品が一度に発見され所蔵者の好意で公開されたものです。
 

 こちらの写真は1988年ロンドンにおけるCMロケからの一枚です。(嗚呼… 決まってますね。)

 



 2冊目は「小説新潮臨時増刊 山口瞳特集号」です。
 この表紙と、本文中における坪松様がお書きになったページの一部をご紹介させていただきました。
 この特集号のラストには「山口瞳『最後の日記』」からとして「どうやって死んでいったらいいのだろう」がございます。奥様治子様の日記も交え、坪松様がしばしば登場してまいります。
 先生の「私は病院の悪口は言わない」はともかくとして、ご臨終までの先生のまさに苦痛の連続は、鼻の奥がきな臭く、又、当方の胸がつぶれそうな思いがこみ上げてきます。


 それにしましても、このお二人にはあと十数年は最低でもご活躍をお願いしたかった、と、つくづく感じさせられます。

 私事ながら、このブログ上にて改めて、坪松様のご厚情に御礼申し上げます。

2014年7月18日金曜日

神吉拓郎

 何とも梅雨入り以降、気の持ち様が少々弛緩してしまいました。 
 書き込みの滞りお詫びします。


 昨日、直木賞と芥川賞作家の発表がございました。第151回になるそうですが、65歳になられる黒川博行さんの直木賞受賞は近年続いていた若手作家群を押しのけての受賞でして、快挙に近いものを感じます。早速、読ませていただきますか。


 ところで、この2週間ほど、第90回の直木賞受賞者の「神吉拓郎」様の作品を中心に読みふけっておりました。短編小説の名手として、又、食に関する叙述の素晴らしさを美食を堪能するが如く味合わせていただいておりました。
 情景の異なる連作短編集でありながら、各作品それぞれの趣向を凝らしたストーリーにスーッと入り込んでいけるその力量に感心します。
 直木賞受賞作「私生活」、「夢のつづき」、「ブラックバス」、「洋食セーヌ軒」・・・。キリがないですね。本棚から引っ張り出して一冊読み始めたら、止まらなくなってしまいました。

 それにしても、例えばある料理に関しての叙述には、今のテレビに登場する俳優さんたちのグルメ評のボキャブラリーの貧困を何とも苦々しく思い起こさせられます。
 開高健先生の食事に関する記述には、徹底した透徹の眼差しと、その語彙の沸騰に作家としての格闘的な、挑戦的ともいえる表現を感じ取ってしまいます。それはそれで大好きな一つの大きな要因でもあるのですが、神吉拓郎様には、短編ゆえにそぎ落としていながら、その味わいの奥深さを感じます。どちらかといえばあまり得手ではない牡蠣フライですが、「洋食セーヌ軒」の牡蠣フライは試してみたくなります。
 作中の話ですから現実には無理ですが。
 もっとも、当時実在するモデルのお店があったとしても30年近く前の小説ですし、神吉様は今から丁度20年前の6月28日に65歳にて早世しております。でもそのエッセンスとでもいえる文章の一部を以下に記して今回の書き込みは終わりです。


 『牡蠣フライは、揚げたてでもあり、揚げ具合も頃合いにできていた。
 かりっとした熱い衣の下から牡蠣の甘い汁がたっぷりとあふれ出てくる。それがレモンの香気や、刺激的なウースター・ソースの味と渾然として、口いっぱいにひろがる。思わず、目が細くなるようだ。
 それが十年前の味と同じなのかどうか、よく解らないが、確かに鎌田好みの牡蠣フライの味であった。ラードの匂いが高く香ばしい。金茶色の、少し濃すぎる位の揚げ色はもう数秒で揚げすぎという位のきわどい手前で、上々の仕上がりになっている。それでいて、なかの牡蠣の粒は、まだ生命を残して、磯の香をいっぱいに湛えている。
 うまいな、と、鎌田は、心の中で呟き続ける。
 次々と牡蠣フライが、のどを過ぎ、胸を下りて行く。胃のあたりがすっかり温もって、まるで春の日差しを浴びているような気がする。』
 作中の主人公、鎌田が10年ぶりに思い出して食べに行った洋食屋の牡蠣フライの場面です。

 又、少しづつ書き始めます。