2011年12月4日日曜日

「枯野の薄 形見にぞみる」西行法師

「くちもせぬ 其の名ばかりを 留め置きて 枯野の薄 形見にぞみる」
昨日の高橋睦郎様「花をひろう」では「枯尾花」を取り上げておられ、最後に「西行法師」の和歌を登場させておりました。
過去に遡ること凡そ一千年ほど前、中古三十六歌仙の一人として、武官としてよりも、和歌詠みの名手として知られた左近衛中将正四位下兼陸奥守「藤原実方朝臣」が陸奥の国の国司として995年に下向しています。
しかし、残念ながら任期半ばの998年に現在の宮城県名取市にて没しています。
名取市笠島に彼の墓所が残されています。海沿いからは大分離れた少し小高い山の麓でしたので、今回の大災害をまぬかれる事が出来ました。
一昨年の晩秋にその墓所を訪ねてきましたが、静かな、それでいて何ともいえない
趣を感じさせてくれる景色が広がっていました。

西行は仕事として、そして歌枕の地を訪ねながら二度も東北に旅立っています。
「奥の細道」の松尾芭蕉も陸奥を二度、吟行していますが、藤原実方朝臣の墓所には西行と芭蕉の歌碑が残されており、タイトルの和歌が西行が実方を偲んで詠んだ
和歌です。
左の写真が西行の歌碑です。
実方の墓所のすぐ手前にありますが、この和歌に出てくる
「枯野の薄」は墓所への入り口にあります。
西行、二十六歳の頃に立ち寄り、霜枯れの薄に心を寄せてこの和歌を詠じました。
「かたみのすすき」として一千年を超えて大切に残され、私が訪れた時にも、細めの葉に沢山の穂をつけていました。





松尾芭蕉の句碑はこの「かたみのすすき」の手前にあります。やはり実方の墓参をするために立ち寄ろうとしたのですが、残念ながら折からの五月雨で道はぬかるみ、日没も迫り「笠嶋は いづこ皐月の ぬかり道」と一句を残して渋々、この墓参を諦めて通りすぎました

藤原実方は、陸奥の国司として赴任する際、栃木市には下野国庁舎がありましたので、当時の蝦夷への重要な街道としての東山道を利用し、栃木市を含めた周辺の歌枕の地をたずね和歌を詠みながら当然、栃木市にも立ち寄り何首もの和歌を残していきました。
代表作として「かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしもしらじな 燃ゆる思いを」が
あります。百人一首の五十一番歌としてご存知の方は多いはずです。
枕草子の清少納言が返し歌として「おもひだに かからぬ山の さしも草 たれか伊吹の 里はつげしぞ」と、又、「いつしかも 行きてかたらむ 思ふこと いふきの里の 住うかりしを」とも詠んでいます。和泉式部や数多の女性との交際があったとされており、「源氏物語」の中のエピソードの一つとして、つまり光源氏のモデルともいわれた存在でした。
栃木市惣社町の大神神社にある「室の八島」も歌枕の地名としても有名ですが、
同じく実方の和歌です。「いかでかは 思いありとは 知らすべき 室の八島の けぶりならでは」。

凄いでしょう! 私が、ではなく藤原実方という人物の話です。
しかし、誠に残念ながら現在の栃木市は「歌麿」一色です。
「蔵の街」も「歌麿」も結構なのですが、栃木市は星野町に縄文時代の遺跡が残されており、そして平安時代の歴史に残る歌枕や史跡が存在し、皆川城跡もあり、田中一村や山本有三、吉屋信子等々、まさに悠久の歴史が近代まで続いて来ています。
しかし、それらを系統付けて、という話は先ず有りませんし、逆に寂しく極端に言えば
埃をかぶった状態で放置されている、との表現が正しいといえます。
でも私自身は正直、余り悲観も、憤慨もしている訳ではありません。
静かなる事のほうが良いとも感じています。なまじ、観光的になるよりは、この「日本の田舎」を実感させてくれるこの栃木が好きだからです。いにしえをたどって、尋ねてくださる方があれば、この地の良い所を、静かにして、穏やかな場所をご案内申し上げます。観光協会では取り上げない取って置きの場所を。

今回は少し堅い話になりました。誰も読んでくれないかも知れませんね。
それでは本日、撮れたての冬を感じさせてくれる写真をどうぞ。

次の二枚は本日お届けの途中立ち寄った、我が母校の写真ですが、昨日は雨が降り続きまして、濡れ落ち葉状態でした。一転今日は木枯らしが吹いてましてかなりの落ち葉が舞い散り少なくなっていました。
私の書く和歌や俳句は(私自身の作は無関係です)、原則として五七五七七、五七五ごとにスペースを一文字分空白にしてあります。よくは判らないのですが、この方が意味や真意を読み取りやすいと自分では感じているからなのですが、流れるように書いてある和歌もこのように頭の中で分解しながら声に出して詠みますと理解が早いと思っています。

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