2013年6月2日日曜日

田辺聖子の「古典まんだら」

 五月末に梅雨入りしての六月です。
 数回前に書き込みしました、某銀行さんのカレンダーですが、今月、水無月の花はスイレンでございました。花言葉は《清純な心》とあります。そして下段の和歌は「清原元輔」様の
《契りきな  かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは》でございます。どうも勝手に何か因縁を感じてしまいます。

宮城県多賀城市にある「末の松山」


 浄土宗、法然上人さまのカレンダーのお言葉は「乾いた心に慈雨の念仏」とございます。解説には「気ぜわしい現代社会の中で、疲れ傷んでいる私たちの心。日々のお念仏は、そんな心を優しく癒し、新たな力を与えてくれます。」と。

 田辺聖子様が古典への誘ないとして、「古今和歌集」から始まりまして、たくさんの古典本を注釈してくださっております。当然「枕草子」も出てまいりますが、その前に「王朝の女流歌人」として和泉式部や、紫式部、赤染衛門、清少納言などが活写されております。(又、少しづつ平安時代に戻ってまいりました)それぞれの評価は、私見も含めてこれからご紹介する予定です。
 『枕草子』ですがそのサブタイトルがいいですね。
   「悲しいことはいいの。
      楽しいことだけ書くわ。」と、あります。
 中宮定子にお仕えした、定子サロンの夢のような日々だけを、おそらくは定子のためにと、書かれた随想集と言えます。田辺聖子様は本文中に「『中宮定子様のことを書きたい。これが書ければ、人生が書けたのと同じだわ』と、中宮定子賛美の文章を綴りました。」と、清少納言に変わって「枕草子」の意図するところを、代弁しています。

 以上の話は改めて書いてゆきますが、今回は作中にて清原深養父や、元輔の和歌が登場してまいります。
 百人一首から清原深養父の和歌です。
  「夏の夜は まだよひながら 明けぬるを 
               雲のいずこに 月やどるらん」
 清少納言の父、清原元輔は『後撰集』の選者にして、『万葉集』の付訓にあたった梨壺の五人の一人でもあります。そして、今回冒頭に紹介した作品が所収されて、というか登場します。
 「『君と僕は約束したではないか。末の松山を波が越せないよう  
        に、決して互いに心がわりしないと』
 心変わりした女に贈る歌を、人に頼まれて代作したものです。
 男がやわらかく女を責めています。厳しく責めるのではなく、できるものなら、もとのようにと翻意を促しています。(以下略)」。
 この中で田辺様は「どこかはっきりとはしませんが、海岸の近くにある、この松は、決して波がその上を越えないと伝えられています。心変わりをしないという誓いに『末の松山』を持ち出すのは日本の文学の伝統です。」と書いておられます。
 
  田辺聖子様が多賀城市の国道45号沿いの小高い地点に立つ松の木の存在を知らないはずはございません。誠に正確を期すならば、昔の歌枕の所在地はなんともあやふやなものかもしれませんが。しかし、伝承も残されておりまして、「大津波が来るぞ。来た時は末の松山まで急いで逃げろ」との民話です。多賀城市はこの前の大地震にて大変な被害が出ましたが、こちらは無事でした。
 多賀城市には平安時代の陸奥国の政庁跡が、しっかりと残されておりますし、「末の松山」以外にも「おもわくの橋」他、歌枕の地名が残されております。栃木市同様に。
  別に、田辺聖子様を難詰するべく書いているわけではございませんが、気になりましたので。
 

 話がそれました。
 「一千年前に清少納言が記した『すぎにしかた恋しきもの』、日本文学の伝統を今さらのように思い知らされます。現代の川柳でいえば、時実新子さんの素敵な句があります。

  古箪笥むかしのお手紙がわんさ

 わずか一行ながら、詩情が見事に漂っています。」

 どうにも、時実新子様がここで登場してくるとは思いもしませんでした。これですから読書はやめられないのですねー。好きな方の名前が、分野違いの中で忽然と登場してくる。嬉しくなります。
 そこで今回はここまでとします。どうも体調がよくない日々が続いております。それでも、というより、又しても本格的に続きを少しづつ書かせていただきます。

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