2013年6月30日日曜日

司馬遼太郎「以下、無用のことながら」

 司馬先生は日本人の美しさを、たくさんの人材を取り上げて、証明なさっております。結構分厚いエッセー集「以下、無用のことながら」に、先生が生前、お付き合いされた方や、昔日の一瞬を駆け抜けた人物たちを、先生のお話し方が思い出されるかの如く登場させております。
 その中で陶芸家「八木一夫」に触れています。
 その異色にして前衛的な陶芸家、八木一夫もともに黄泉の国にみまかれて随分と経ってしまいました。しかし、八木一夫の世界を表現することは、私のような、生半可なものの出る場面はございません。司馬先生ならではの、凝縮された感性の噴出として、読み取れます。以下、十四代沈壽官氏の作品展における、解説文を通しての陶芸芸術に関する先生の思いを抜き書きいたします。誠に失礼になりますが、又、長くなりますが。

 「伝統工芸は、九割までが技術で、あと一割が魔性である。その魔性がどう昇華するかで作品が決まってしまう。右でいう技術は近代技術のように普遍化しがたいものである。言いかえれば学校などで教えがたいもので、理想としては累代の家系にうまれて毛穴から数百年のなにごとかを吸いとってゆくのに越したことはない。
 吸いとるためには、ちまちました自我の反発をおさえ、芳醇なロマンティシズムを成立させねばならない。この大いなる気分をもって家系をくるみ、アジア史をくるみ、また日本的美学そのものもくるみこみ、最後に、溶けた自我を再結晶させて宝石化する以外にない。
 十四代沈壽官氏の作品群はそういう壮大な背景のあげくに滴ったものである。(中略)多様にかがやく光体を感ずることもできるのである。」

 十四代沈壽官氏と八木一夫氏とでは、その作風も思想や、よって立つところが大きく違います。しかしともに陶芸の世界で光彩を放ったと言えます。沈壽官氏は現在、十五代目が活躍なさっております。そのお二人との交流を持つ司馬先生ならではの表現といえます。 (「沈壽官展」図録、より)

  和菓子の伝統と比べるべくもありませんが、時々反芻すべきお言葉として、我が机の引き出しに、前述と同じものを、原稿用紙に抜き書きし収めております。
 勿論、和菓子は芸術作品ではなく、みなさま誰にでも愛されるお茶菓子として供される商品です。ですが、せめて心中にこの言葉を収めておくべき、と感じていました。

 『若い頃の池波さん』として、池波正太郎先生も評しております。
 すみません、長くなりますが、
 「(略)このため、池波さんは大阪へ来なくなったが、別に遠くなったわけでなく、私もまた『鬼平犯科帳』以後の池波作品の住人になった。いずれも不朽のものである。 
 晩年の池波さんの町への興味が、パリに移った。
 当然なことで、東京も京大阪も、この町好きな人にとって違ってしまった以上、町らしい町といえば、パリへゆくしかなかったに違いない。
 パリは不変を志す町だから、その通りを歩いて、右へまがって左をみれば、必ずなじみの店がある。すると、その店の角をもひとつ右にまがりさえすればドンドン焼きの屋台が出ていて、うちわを持って火をおこしている甲斐甲斐しい正ちゃん(池波先生は幼少の頃、屋台のドンドン焼きに傾倒した時代があったそうです)にでくわさないともかぎらないのである。」

 もう随分以前から日本は、特に大都市は大変な変貌を遂げました。池波先生の江戸の下町は、情感も風情も何も無くなってしまった、といえます。
 
 更に今、復興の名のもとに、あるいは景気対策のためとして、あちこちで公共事業が起きています。現実には東北にさほど関係なく。結果、全国で、これらに関わる作業者が必要とされ、肝心の東北の復興での人手不足はひどいものがある、と聞きました。

 「景気回復」は必要です。しかしどうも、お金の流れや、その使徒が細かく精査されたのか不明です。それでも、「景気回復」を国民は実感として感じているのでしょうか。現在の総理大臣の政策に批判的な人は、世論調査などでは、ごく少数派のようです。というか、批判しづらい雰囲気を感じます。
 ただただ、以前のような腰砕けにならないよう、そして間違いの少ない舵取りをひたすら神頼みするばかりです。
 少なからず地方において、景気の上昇を実感しておられる方は極めて少ない、それだからこそ、三本の矢でしょうか。

 ところで憲法改正にしてもそうですが、国民の三分の一しか、自分の意向を表明しない時代です。各地の最近の選挙での得票率がそれを表しています。投票所に行かれない方に、物申す権利はございませんし、悲しいことですが現実でもあります。しかし三分の一の投票率で、勝ったの負けたの、挙句は国民の信任を得たかの如き、立ち居振る舞いが目に付きます。
 国民の愚かさを、政治屋さんたちが影でほくそ笑んでいるような気がしてなりません。

 作家の橋本治さんが「阿部人気の不思議さ」として、新聞紙の一面全てを使って執筆なさっていました。なんとも同感でございます。「もう少し『言うべきことはなんだ?』と考えるべきなんじゃないだろうか。」 と締めくくっております。大都市だけが潤い、変貌し、日本の中で、貧富の差が拡大している、と感じざるを得ません。少なからず地方は疲弊するばかりです。どこかお近くで所得が向上した旨の話をお聞きしますか。
ご近所の斑入り夏椿です。成長が楽しみです。

 それにしても、国民の三人に一人の意見が、国民の総意、となってしまうこの時代を、あなたはどう思いますか。

 今回のような書き込みは、正直、商いにはあまり良いことではありません。
 ただ、無関心も一つの意見表明でもあるかもしれません。 
 以前、どの候補者にも信任が置けず、かと言って無投票は避けたいと、自分の名前を書いたことが数回ございます。無効票となりますが、投票したことは事実として残ります。
 皆さん、参議院選挙がまもなくございます。どうか足を運びましょうよ。それは一杯やりながら、国政を論じる資格ができるということにほかなりません。景気の悪さを嘆くのも、消費税の問題に頭を悩ますにも、資格がいる時代なのです。

 何とも何が言いたいのか、自分でもよくわからないカキコミでした。
 それにつけてもおやつは、かのこ庵ではなく私めの七月の運気上昇を・・・。
 

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