2013年7月15日月曜日

「歴史を紀行する」司馬遼太郎。嗚呼、会津の八重桜。

 大河ドラマ「八重の桜」も会津藩の最後の拠り所、鶴ヶ城落城の時が迫ってまいりました。
 どうも、この手のTVは初回を見てしまうと、なんとも途中でやめることができなくなります。「城主、松平容保を頂点とした会津の滅びの美学」といえますか。何とも壮絶、としかいい様のない凄惨な、そして非業の場面が続きます。

 司馬先生が週刊朝日に長いこと連載なさった「街道をゆく」は、代表作の一つに挙げられます。日本国内だけでなく、世界中をといえるくらいに旅をし、紀行文を書きました。
 評論家川本三郎は「一平二太郎」として「藤沢周平」、「司馬遼太郎」、「池波正太郎」の三名を、時代小説の書き手として、「大人の日本人男子」なら、嗜みとして読むべき作家、と評しております。それはそれとしても、三者の作品が、実に素晴らしく其々に作風は違いながらも、興趣が尽きない膨大な作品群を残した、これは事実です。
 司馬先生は終戦を、栃木県佐野市で迎えておりますが、陸軍の戦車部隊に所属しておりました。その時の経験が、作品全体に通底として流れる価値観、人物観の一つとなり数多くの名作が生まれた契機になった、と思います。
 紀行文としては本書だけでなく、まだまだ沢山の作品がございますが、私がここで紹介することではないと思います。ただ、この「歴史を紀行する」は、主に幕末という時代を語るに際し、外すことのできない地を厳選しての紀行文と言えます。その中で一際、会津という土地の人柄、人物像を愛情ある文体で描きました。
 

 長くなりますが、
 「会津藩というのは、封建時代の日本人が作り上げた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。三百にちかい藩のなかで肥前佐賀藩とともに藩士の教育水準が最も高く、さらに武勇の点では佐賀をはるかに抜き、薩摩藩とならんで江戸期を通じての二大強藩とされ、さらに藩士の制度という人間秩序をみがきあげたその光沢の美しさにいたってはどの藩も会津に及ばず、この藩の藩士秩序そのものが芸術品とすらおもえるほどなのである。秩序が文明であるとすれば、この藩の文明度は幕末においてもっとも高かったともいえるであろう。」(中略)
 その会津藩が、幕末の京都における無警察に近い状態に対処すべく、幕府が常駐する強力なる部隊として、会津藩に白羽の矢を立てました。家老西郷頼母などは藩主容保に直諌し『いまこの難局にあたってその任をうけるは、薪を背負って火中にとびこむがごとし』として辞退を進言するのですが、「しかし幕閣の事情はそれを許さず、ついにうけざるをえなかった。承けたとき、『されば君臣ともに京の地をもって死所とせん』と一同相擁するがごとく泣いたという情景は、のちの会津藩の運命を考えあわせるとき、われわれ史書を読むものはこのことを濃厚に記憶してやるやさしさをもたねばならない。」(以下略)
 なんという愛情表現でしょうか。
 その後の京都での動向や、二代徳川将軍秀忠のたった一度の浮気にて出来た保科正之が、三代将軍家光によって会津松平家の祖となっていく話や、その保科正之を評して「しかもこの私生児であった藩祖正之は、同時代の大名の水準をはるかに抜いた名君であった」と書きます。遡って「もし秀忠が生涯にただ一度と思われる浮気をしなかったらば会津松平家は日本史に存続しなかったであろう。その律義者(秀忠)の滑稽な浮気が、幕末、幕府の瓦解期にいたって徳川の親藩がことごとく薩長政権に味方(くみ)したなかにあってひとり、『徳川家の名誉のために』という旗幟のもとに時勢の激流に抵抗し、流血し、絶望的な戦いをつづけ、ついに悲惨な敗亡を遂げるにいたる結果を生む。」

 その後の会津人の性格的なものや、長州に対する怨恨の根深さを紹介しておりますが、歴史上の会津藩の印象とこの風土的印象とは・・・。として再訪を期しています。

 幕末は、私個人としてあまり触れたき時代ではなかったのですが、一応それなりに読んではおりました。TVの方は何しろ主人公が格好良いですし、可愛いじゃないですか。
 それだけが理由で見ているわけではありませんが・・・。

 少しご無沙汰でございました。
 旧栃木市内は七月がお盆さまでして、いささか忙しさもありました。
 が、何より梅雨明けが早すぎます。
 更に、その後がいけませんですねー。連日の猛暑でございます。何とも熱気にやられてしまいました。またしても点滴のシーズンのようです。
 それにしても、この暑さがまだ二ヶ月以上も続くのか、とは考えたくも無き自体です。
 皆様、くれぐれも体調の維持にご配慮を。

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