何かこのところ、私のバイオリズムが上がってきているかな、という、いい話題が、続いております。先程、お帰りになりましたが、「栃ナビ」さんが3人で取材に来ました。
年末からの特集記事として、「開運」をテーマに組むそうでして、かのこ庵の「開運 勝栗まんじゅう」を取り上げたいというお話でした。結果、一月一杯そのコーナーで、無料で私どもの商品をご紹介いただけることとなりました。先日のイベントでも新聞や、CATV 等で紹介されちゃいましたが、またしても、新たな取材をお受けした次第です。
更には、いずれ分かってしまうことですので、この場にて書き込みしておきますが、市内にある、イオンさんと、ヨークベニマルさんから、かのこ庵の商品の納入を求められました。果たしてどこまで出来るかいな、と心配になり、頼りになる方のご意見をお聞きしました。「悩むことはないよ、できる範囲でやればいいだけだよ」という結論になり、取引契約書を取り交わしました。間もなくスタートの予定です。有難いお話であることは間違いないのですが、大変であることも事実です。
更には昨晩、栃木市役所が旧福田屋百貨店跡地に移転するのですが、その一階の全フロアーを「東武百貨店」さんがお店を展開することになりました。来年3月、改装オープンとのことですが、その中で、地元産品のコーナーを設置するそうです。そこへの納入に関する説明会があり、納品を求められました。
どないしまひょ。
話は山口先生の「忘れ得ぬ人」でした。
このところ、丸谷才一様の事等を書いておりましたが、そういえば、単行本未収録として発刊されたこのご本を思い出しました。
先生亡き後、奥さまが、次から次へと発刊される先生の作品を「謹呈 山口治子 代」としてかたじけなくもお送りいただいておりました。従いまして、没後発刊された全著作が書棚を埋めております。あまりに勿体ないので、一部はかのこ庵店内に陳列させていただいております。その本書の中で、丸谷先生の事をお書きになっていたなあ、と思い出し読み直した次第です。
本書の中身はぜひ、ご一読をと、お薦めさせてもらいますが、作中の一部だけご紹介します。
「あるとき、その銀座の朝日ビルの地下の床屋へ行くと、
丸谷さんが頭を刈っていた。私は鏡の中の顔に挨拶して、椅子
一つへだてたところへ座った。私は職人に言った。『これで丸谷
さんと私は料金は同じかね』
別の日に、丸谷さんが職人にこう言っているのが聞こえた。
『山口さんみたいに早くやってくれませんか』
解説するならば、丸谷さんの頭髪は豊富に過ぎるのであるし、
私の場合は無さすぎるのである。・・・・」
まだまだ続きがあるのですが、サントリー時代の開高 健先生も同書の中で出てまいります。『躁鬱の周期の中で』として。
1965年に書いていますので、開高先生がベトナム取材から戻ってきてそう間もないころかと思われます。
(相変わらず引用が長くなりますが…)
「『ベトナム戦記』での圧巻は、彼がベトナムに向かう途中、ま
たはベトコンの包囲にあいながら、なぜこんなところへきたのだ
ろう、なぜ俺がこんなめにあうのだろうと繰りかえすところであ
る。
開高は遊び場からベトナムにまで自然に行ってしまったのだ。
彼はソウの時期にあってほとんど小説が書けなかった。『君は
役目を果たした。あれで十分だ』
ベトナムから帰ってきてはじめて彼が出社したときに私はそう
言った。開高もそう思っていただろう。
いま、彼はウツの周期にさしかかっている。すなわち、長編小
説にとりくんでいる。それが私たちののぞむところだ。いかに彼
が不機嫌になり、つきあいにくい奴になろうとも、同僚としての私
たちはガマンする。友人としての、読者としての、開高フアンとし
ての私は、そうであることを願っている。小説にとりくんで苦しん
でいる開高でなければ私の開高健ではない。」
山口先生流の愛情がほとばしる文章です。
先生が、先生の書き残して下さったものが、例えば『血族』にしても、『ひと殺し』にしても、完璧な私小説にして、傷つく人も少なからずいたであろうと思います。が、底流に流れるものは、透徹した、人物を見る目にある、と思います。優しさをふくんだ。
頂いたお葉書や諸々はまだまだございますが、個人情報に関しそうなところは伏せさせていただきました。現在進行中の特定秘密保護法案には、断固反対と書き添えておきますが。
右の写真は本文と何にも関係もありません。一緒に出てきた、メキシカン風なカーボーイ、ではない、あほなオッチャンの昔の写真です。引き金に指はかかっておりませんが、確か実弾が込められておりました。
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