2013年6月6日木曜日

「釣魚大全」開高健 Ⅱ

 昨晩、正直、対日ハム戦において延長11回裏に、小笠原選手が代打で登場してまいりました時、嗚呼大丈夫かいな、と心配が先に立ちました。しかしよく見ると、随分と代打もほぼ使い切っており、彼が切り札として残っていたという訳です。巨人ファン以外の方には、不愉快な書き出しとなりますが、全くの杞憂でございました。彼らしい右翼への豪快なサヨナラ3ランでして、暫くぶりでやってくれました。テレビに向かって拍手をしつつ少々涙腺が緩んでしまいました。
 いつもですと夜9時前には、だいたいその日の結果を勝手に判断して自室に入ってしまいます。しかし昨晩は10時から「名作を旅する」として、C・W・ニコルさんによる開高先生の「釣魚大全」が取り上げられてました。一応ビデオ予約はしていたのですが、巨人と日ハム戦が斯様な次第にて、続けて拝見いたしました。
 番組の内容はさほどに感動ものではございませんでした(その前が派手すぎましたか)。というより、実際の正式には「完本 私の釣魚大全」を読んで、改めて開高先生が文豪と呼ばれるにふさわしい小説家だなあ、と感銘を受けるからでしょうか。

 そこで、未だお読みでない方、又は暫く眼を通していない方のために、私が気に入っている箇所を部分抜きさせてもらい、いくつかご紹介します。ただし、何しろ初版が1976年でございます。流石に今日とは多少の違いがあって当然、と思ってお読みください。

 奄美大島の先、徳之島での釣行の一節に源氏物語が出てまいります。太平洋から、東シナ海あたりの沖釣りにて何種類かの魚を釣り上げ、其々を刺身にして食べる場面です。
 アカダイと呼ばれる魚を評しています。「やっぱり歯ざわりが芒洋としていて、シコシコと練り上げられたタッチがない。どういうものか南の魚の肉はボロボロ、ダラリとしていて、シマリのないところがある。ふと『末摘花』の一句を思い出したくなるようなところがある。
  ぬくときに舌うちするよな***(*の処は些か差しさわりが在るような気がしまして…以下略)」
 私が詠んだ句ではありません。文豪の作中に出てくることです。
 光源氏が噂に乗せられまして、色欲だけは旺盛な50過ぎの女性と出来てしまいます。  
 ただしこの女性は末摘花とは別人です。「末摘花」という女性そのものは常陸宮家の出自にして高貴な、はずなのですが美醜といいいますか「え!」っと思わせられる女性として描かれています。ただし光源氏は、舌打ちするような振る舞いは致しません。それなりに礼節を持って辞去し、落ちぶれている彼女を庇護いたします。不自由無き彼だからこそできることかと私は解釈してますが、ねー。

 少し長くなりますが「タイはエビでなくても釣れること」の一節に、 
 
 奥様が結構いい値段のするヘアートニックを文豪のために買ってきます。「瓶の形、レッテル、香り、値段のこと、諸点を検討するうちに、何やらききそうな、たのもしそうな、嬉しい気持ちになってきたので、これを持っていくこととした。ここで《ききそうな》とか、《たのもしそうな》とか、《嬉しい気持》とかいうのは、池島信平氏や邱永漢氏が自身の体の最頂点について抱いているのとおなじ、または似た感覚を私が自分の体の最頂点に抱いていて、それを克服、または治癒、または防止しようという真剣で執拗な祈りを持ったというような意味でなないのである。断然そうではないのである。釣りで一匹も釣れないことを《ボウズ》というので、それを避けたい気持ちからあくまでもオマジナイとしてヘヤートニックの瓶を嬉しい気持ちで眺めたいというにすぎないのである。(中略) 
 いつかパーテイで遠藤周作氏に会ったら、しばらく見ないうちに最前線があらわに、徹底的に後退していて、朝陽も夕陽も照りつけるままという状態に陥ちこんでいるではないか。
 『・・・・おッ』
 いいかけると、すばやく早口に
 『ボードレールみたいやろ』
 噛みつくようにそういってソッポを向いた。
 また、かの黒メガネのプレイ・オジサン、野坂昭如。九州の海岸を汽車で旅行していて、ふと客席の白いシーツにもたせかけている夕陽の射す部分を私が運悪く目撃し、思わず
 『・・・・おい、野坂』
 というと、彼、暗澹と沈み込んじゃって、昔は雨が降ると農家の藁葺屋根にかかるようやったけれど、この頃はトタン屋根へじかにパラパラっとくるようやねン、つらいねン、イヤやねン、いわんといてんかと、早口に悲痛な声をだした。
 奥村健夫は結婚したら治ったと誇る。
 村松剛はオレのは額であって頭ではないと力む。
 けれど私は何もいわないのダ。」(かなりいっております)
 

 「井伏鱒二氏が鱒を釣る」では、かなりの釣果があったのですが、東京に戻ってきてから井伏老師曰く『家へ帰ってもしょうがない。社会党が待っているだけだ。こんな大釣りをしたのはめずらしいから、ちょっと一杯やりにいきましょうよ』(中略)
 老師はニコニコ笑ってそう提案なさる。もとより否やのあろうはずもない。」として老師日頃行きつけの店に繰り出します。
 「"社会党"とおっしゃるのはもちろん奥さんのことで、そのわけはもちろん"何をいっても反対するから"とのことであった。」とあり更に、最後に大笑いさせられる一節が書かれています。でもここには書きません。
アイザック・ウォルトン卿の実筆ですが私には読めません。
 この「釣魚大全」は本来、英国のアイザック・ウォルトン卿が残した釣りに関する名著が宗家になります。最後のあとがきの中で、開高先生が、ロンドンのウォルトン卿が晩年、釣具店を開いていたとおぼしき場所で、銅版を見つけます。そこには"STUDY TO BE QUIET"とありました。『おだやかなることを学べ』と。
 実に締めも味わいが満ち溢れておりました。

 ご一読、又は、再読の程。



2013年6月2日日曜日

田辺聖子の「古典まんだら」

 五月末に梅雨入りしての六月です。
 数回前に書き込みしました、某銀行さんのカレンダーですが、今月、水無月の花はスイレンでございました。花言葉は《清純な心》とあります。そして下段の和歌は「清原元輔」様の
《契りきな  かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは》でございます。どうも勝手に何か因縁を感じてしまいます。

宮城県多賀城市にある「末の松山」


 浄土宗、法然上人さまのカレンダーのお言葉は「乾いた心に慈雨の念仏」とございます。解説には「気ぜわしい現代社会の中で、疲れ傷んでいる私たちの心。日々のお念仏は、そんな心を優しく癒し、新たな力を与えてくれます。」と。

 田辺聖子様が古典への誘ないとして、「古今和歌集」から始まりまして、たくさんの古典本を注釈してくださっております。当然「枕草子」も出てまいりますが、その前に「王朝の女流歌人」として和泉式部や、紫式部、赤染衛門、清少納言などが活写されております。(又、少しづつ平安時代に戻ってまいりました)それぞれの評価は、私見も含めてこれからご紹介する予定です。
 『枕草子』ですがそのサブタイトルがいいですね。
   「悲しいことはいいの。
      楽しいことだけ書くわ。」と、あります。
 中宮定子にお仕えした、定子サロンの夢のような日々だけを、おそらくは定子のためにと、書かれた随想集と言えます。田辺聖子様は本文中に「『中宮定子様のことを書きたい。これが書ければ、人生が書けたのと同じだわ』と、中宮定子賛美の文章を綴りました。」と、清少納言に変わって「枕草子」の意図するところを、代弁しています。

 以上の話は改めて書いてゆきますが、今回は作中にて清原深養父や、元輔の和歌が登場してまいります。
 百人一首から清原深養父の和歌です。
  「夏の夜は まだよひながら 明けぬるを 
               雲のいずこに 月やどるらん」
 清少納言の父、清原元輔は『後撰集』の選者にして、『万葉集』の付訓にあたった梨壺の五人の一人でもあります。そして、今回冒頭に紹介した作品が所収されて、というか登場します。
 「『君と僕は約束したではないか。末の松山を波が越せないよう  
        に、決して互いに心がわりしないと』
 心変わりした女に贈る歌を、人に頼まれて代作したものです。
 男がやわらかく女を責めています。厳しく責めるのではなく、できるものなら、もとのようにと翻意を促しています。(以下略)」。
 この中で田辺様は「どこかはっきりとはしませんが、海岸の近くにある、この松は、決して波がその上を越えないと伝えられています。心変わりをしないという誓いに『末の松山』を持ち出すのは日本の文学の伝統です。」と書いておられます。
 
  田辺聖子様が多賀城市の国道45号沿いの小高い地点に立つ松の木の存在を知らないはずはございません。誠に正確を期すならば、昔の歌枕の所在地はなんともあやふやなものかもしれませんが。しかし、伝承も残されておりまして、「大津波が来るぞ。来た時は末の松山まで急いで逃げろ」との民話です。多賀城市はこの前の大地震にて大変な被害が出ましたが、こちらは無事でした。
 多賀城市には平安時代の陸奥国の政庁跡が、しっかりと残されておりますし、「末の松山」以外にも「おもわくの橋」他、歌枕の地名が残されております。栃木市同様に。
  別に、田辺聖子様を難詰するべく書いているわけではございませんが、気になりましたので。
 

 話がそれました。
 「一千年前に清少納言が記した『すぎにしかた恋しきもの』、日本文学の伝統を今さらのように思い知らされます。現代の川柳でいえば、時実新子さんの素敵な句があります。

  古箪笥むかしのお手紙がわんさ

 わずか一行ながら、詩情が見事に漂っています。」

 どうにも、時実新子様がここで登場してくるとは思いもしませんでした。これですから読書はやめられないのですねー。好きな方の名前が、分野違いの中で忽然と登場してくる。嬉しくなります。
 そこで今回はここまでとします。どうも体調がよくない日々が続いております。それでも、というより、又しても本格的に続きを少しづつ書かせていただきます。

2013年5月28日火曜日

「モンゴル大紀行」開高健

ドキュメントとして放映されたモンゴルの先生です。
笑ってしまいました、このシーンには。
 本日の下野新聞に、天声人語の枠と同じ囲みコラムで「雷鳴抄」というコーナーがございます。
 「とうとう逢えた。やっと逢えた。『川の王者』の名にふさわしい威厳に満ちたイトウと」。として開高先生の『モンゴル大紀行』の一部を取り上げておりました。モンゴルの秘境で悪戦苦闘、釣果ゼロのまま最終日に劇的に《幻の巨大魚・イトウ》を釣り上げます。
 ずいぶん前になってしまいますが、120分の特番として放映されたこともありますのでご存知の方も多いと思います。そのモンゴルという国を先生はこのように紹介しております。
 「・・・しかし、だ。ここには草しか生えていない。
  昔も今もそれは同じだ。 
  羊が草を食べて、その羊を人間が食べて、という関係だ。
  食物連鎖ということから見ると、草と、羊と、人。
  輪は三つしかない。
  草の栄養が羊の肉に変わって、それが人体になる。
  それだけだ。

  雑草の主成分だけでジンギス・ハーンの軍隊は長征また長征、この中央アジアの大高原を突破し、バルカンを平らげ、東ヨーロッを平らげ、あちらを呑みこみ、こちらを呑みこみ、ユーラシア大帝国を築くわけか。
 草だけで。
  草の栄養分だけで。 
  草と水さえあれば。
  何と。それも根なしで。
  草の葉だけで。なんと?・・・」。

 テーマを少し変えます。昨今のウランバートルは見違える程の近代都市になっているようですが、「モンゴルの面積は日本の約4倍だが、人口は284万人」とコラム氏は書いております。「白鵬」に代表されるが如く、日本との友好関係が深い国でもあり、多くの学生たちが、勉学や技術習得のために日本に、栃木市にも来ております。一度だけ彼女たちと食事をしたことがございます。誇りと自信に満ちた生き方をしているな、と、素直に感心したものです。
 開高先生があらゆる事象を見つめ、それを表現する手段として、たくさんの小説やエッセーを残しました。しかしその底流にはトラウマとしてのベトナム体験がございます。
 「徹底的に正真正銘のものに向けて私は体をたてたい。私は自身に形をあたえたい。
  私はたたかわない。殺さない。
  助けない。耕さない。運ばない。扇動しない。策略をたてない。
  誰の見方もしない。ただ見るだけだ。わなわなふるえ、目を輝
  かせ、犬のように死ぬ。」

 誠に次元の違う話と思うのですが、その体験があるかないかで決めるなら、私には何らの発言権もありません。ただ橋の下に少なからず、焦りと、何の役にも立たないどころか、日本はおろか世界中の雑草にも等しき無見識を晒した人がおります。今更何をいっても、ただ単にまたしても、軽薄をさらけ出した、というだけの話でしょうか。
 開高先生の見つめる瞳の先に、思いを致したならば、と感じます。「橋の下を嗤う」というタイトルで書こうかと思ったのですが、遠慮しました。そんなに偉そうなことは、私も先生の瞳の先を考えた時、畏れ多いとまず思ってしまうのです。そこなのです。

2013年5月25日土曜日

「言ひのこす用の多さよ柿若葉」中村汀女

 青葉、若葉、麦秋の季節でございます。

 暫くぶりで汀女様の登場ですが、この時期、どこにでも絵になる被写体があると感じます。しかし、春らしい季節があっという間に遠ざかり、もはや夏の気温になって来ました。7~8月、例年よりも、やや気温は高めとの長期予報も出ております。正直、嫌な季節の到来となりました。寒い分にはどんなに寒くても構わないのですが、夏の暑さは逃げようがございません。食品業者には、品傷みや、虫などの害虫にも注意を払わねばなりません。
 日日平安、今日無事を祈念する日々でございます。

左から「岩清水」、「朝顔」、「ひさご」です。
 それでもおかげさまで、「季の上生菓子」の売れ行きがよく、予定して準備した商品のうち、「花菖蒲」と「紫陽花」がその季節を前に売り切れました。盛夏の間は休ませていただくつもりでしたが、少し早すぎるかな、ということになり急遽「岩清水」と「朝顔」、「ひさご」を追加で仕上げました。ありがとうございます。
 

 今日お届けの途中で見つけました、一面、麦秋の風景でございます。バックは県立翔南高校様ですが、手前には用水路から田植え前の田に、澄明な水がいきよいよく流れ出ておりました。

 ところでこの二条大麦ですが、隠しているわけではないのでしょうが、栃木県は全国でも1~2位の生産量がございます。少し前までこの季節「麦秋大福」の品名で、麦こがしの材料を使用した、粒あんいりの大福を販売しておりました。頑張って続けたかったのですが、なかなかにこの生地作りに手間がかかります。その割に大福でございます。デパ地下ではありませんので価格もそうは高くできず、数年前に諦めました。
 実はいまでも「作らないんですか」と聞かれてはいるのですが、すみません。
店内にあります「クチナシの白い花」が咲きました


 ところで匿名ですので、どなたか分からないのですが、コメント、ありがとうございました。柏餅をお褒めいただきました。280円の柏餅もあれば、スーパーさんの一個60円程の柏餅もございますが、たかが柏餅、されど柏餅でございます。4月になりますと随分以前に書き込みしました「丸い柏餅は柏餅ではない」の閲覧者ががぜん増えます。やはり気になる方が多いのでしょう。
 コメントをくださいましたお客様、次回はお声をお掛けください。
 大したことはできませんが、少しはお話も、又、サービスもさせていただきます。それにしても、とても嬉しいコメントでした。
 お約束です。「ご主人を」との一言、お願いします。
 

2013年5月21日火曜日

「クリムト・黄金の騎士をめぐる物語」

 広大な園地が広がり、新緑も、爽やかな風も味わいながら、行ってまいりました。県立美術館は何度か拝見したことがありましたが、この「宇都宮美術館」は私、初めての訪問でした。
 宇都宮市の北部の誠に広い敷地の中に、実に落ち着いた雰囲気を感じさせてくれる美術館がありました。クリムト生誕150年記念(厳密には151年)として、彼の主要な作品が沢山展示されておりました。十九世紀末の西欧に於ける、特に、オーストリア・ウイーンにて、どちらかといえば華麗にして優雅な、雅と甘美を感じさせてくれる作品群でございました。美術工芸品なども陳列されておりまして、世紀末ウイーンの諸相がよくわかります。
 それにしてもこのパンフレット上にあります「黄金の騎士」には、当時の旧弊なる美術界をぬけだした「ウイーン分離派」の中心人物としてのクリムトの、強固な意志と感性が感じられます。守旧派に敢然と立ち向かう彼自身を描いたとも言われますが、謎の部分も秘めた作品でもあります。よくご覧いただくと分かりますが、左下、隅に黄金の蛇が描かれています。毒蛇でしょうか、しかし馬も馬上の騎士も敢然としているさまがよく感じられます。《人生は戦いなり》の副題がついております。
 江戸時代前期の「花唐草模様」や鈴木其一の《秋草図》、蒔絵硯箱なども展示されており、いわゆるジャポニズムの影響の大きさを実感させられます。
 実は以前に紹介しました「丸谷先生の『無地のネクタイ』」にクリムトが再登場しております。『クリムトの絵について考えている最中なので、アール・ヌーボウには関心があるのだ。』としまして『装飾性を賞賛し、建築と絵画の結び付きを重んじた(中略)。これはクリムト、および彼の属していた分離派の大きな特色であった』。そして多くの天井絵や、装飾性豊かな壁画を残しました。
 それにしても物議を大いにかもした「ウイーン大学大講堂の天井画(哲学、医学、法学)」(実物は焼けて消失してます)の原寸大写真の迫力と、その幻想的な表現には圧倒されます。

 財団法人としての宇都宮美術館の立地条件や、環境にも驚きました。林間を吹き抜けるマイナスイオンを浴びつつ、駐車場までの散策もおすすめコースとして記しておきます。ただし館内のフレンチは今ひとつというか、企画展に合わせたとかいうランチの写真と実物の違いに少し落胆致しましたことも、これからのためにと思い正直に書き残しておきます。

 先週末は、「とちぎ蔵の街美術館」での正面入口前にて「竹工芸展」に併せて美術館様側からの依頼による出張販売を行ってまいりました。青竹筒入り水ようかんをメインに、ポップや販促物を作りまして、お客様をお待ち申し上げました。結構大変な作業でございました。ただしどうも、昨今の観光客の方たちはあまりお金をお使いにはならないようでして、どちらかというと、かのこ庵をご存知の方が、お買い求め下さいました。つまり、いささか思惑が外れた、ということになりますか。商売の難しさを、この歳で又ひとつ教えられました。日曜日は昼から私が事務局をしておりますある会の集まりが、お昼から有りまして、出たり入ったりの忙しさだけはたっぷりの週末でございました。

2013年5月12日日曜日

「憂鬱なセレナーデ」チャイコフスキー

 19世紀末の話が続きます。
 現在、少くとも一日に二度は、チャイコフスキーの「バイオリン協奏曲」「弦楽セレナーデ」等が店内で4個のスピーカーから流れております。結構なボリュームで。
 まず10人の内、気づくのは1~2名様ほどでしょうか。
 しかし昨日のお客様は「この曲のタイトルご存知ですか」と、きました。「はあ、一応。好きで流しておりますので」とお答えしましたが、「『憂鬱なセレナーデ』とは変な曲名ね」ときました。「バイオリン協奏曲」の次に流れるよう編集しておりましたのですが、「喜怒哀楽を表現した曲名が多いのにねー。でもいい曲を流しているんですね」と仰っていただきました。「少し休んで聞かせてもらうわ」として15分ほど居りました。

 お菓子をお褒めいただくのが、勿論一番嬉しいのですが、次に店内の雰囲気や、展示してあります書画などを褒められます事、そして流れております、クラシックに気づかれます事、これも又、心中でニコニコしております。「タンホイザー」や、「ロミオとジュリエット」等も編集して流しております。

 「好きだねー」とか「和菓子のお店にクラシックはあいますね」とお客様からの反応もございます。でも「ボリューム少し落とせよ」とのお客様も少なからずおることも事実です。いいんです。この歳になったら如何に自分が気持ちよく仕事ができるかを、一番に考える。そう決めたのです、数年前から。
 

 前回はクリムトでございました。世紀末に一際光り輝いた著名人がたくさんおります。西洋の各地で。
 ヨーロッパの歴史の中で、これほど文化、文明、芸術の花開いた時期はそうはないと言えます。どうも20世紀に入ると何かきな臭さがいつも漂っている感じです。
 ワグナーが1813年にドイツのザクセン州ライプチヒで生まれますが、バッハやメンデルスゾーンなどを輩出した地でもあります。
 チャイコフスキーはロシアで1840年に、クリムトは、1862年にオーストリアはウイーンで生まれています。

 ところで昨日の下野新聞の記事の中に、「時代設定を変えたワグナーオペラ『ナチ虐殺描き』公演中止に」とございました。
 ワグナーは今月22日に生誕200年を迎えますが、ドイツでの「タンホイザー」公演が時代設定をナチス時代に置き換えて、ホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)の場面が出てくるそうでして、これは中止も当然かもしれません。いつまでもドイツ人に限らず、ヒットラーは忌むべき存在でしょうが、その彼が彼のプロパガンダに利用したことは史実です。ワグナー本人は1883年にイタリアはベネチアで亡くなっております。一時期ユダヤ人への誹謗中傷をしたこともありました。ヒットラーが彼の楽曲が気に入っていたこともあり利用された次第です。しかしワグナーは晩年に、自身のコンサートの指揮者にユダヤ人を選んでおります。 

 ただそれにしても、昨今の日本国にて、韓国人や、中国人、あるいは彼らが多く住む街で、彼らへの非難、中傷、罵詈雑言を投げつける人たちがいることが報道されています。政治家があてになる日が来ることもあるのかどうかわかりませんが、これらの問題解決の方策として、妥当な策とは言えません。心情はよく理解できますが。
 泉下のワグナーが困惑しているかどうかわかりませんが、時に迷惑に思っている方も、別な行動で示すことも考えるべきです。
 開高健先生が、ベトナム反戦を訴えるニューヨークタイムスへの広告を出したことは既にご紹介しました。少なくないアメリカ人が日本にもこのようなしっかりした知見と、行動力を持った人物がいることを再認識した、旨の記事が随分見られました。
 しかし、人権の確立されていない国に、何を言っても犬の遠吠えでしかないような気がします。残念なことですが。
 
 

2013年5月6日月曜日

「KLIMT」 グスタフ・クリムト

クリムトのいつものスタイルにて、
ガウンのようなものを身に付けた
だけで、下は裸だそうです。
 
 本来はもう少し先に書くつもりでしたが、「宇都宮美術館」の特別企画展にて、『生誕150年記念 クリムト《黄金の騎士をめぐる物語》』としまして、なんと彼の作品展が4月下旬より開催されておりました。
 繁忙期が続いておりましたので、どうも見落としてしまったようです。幸い、6月2日(日)まで開かれておりますので近いうちに行ってまいります。皆様も、気候も良し、新緑の宇都宮美術館へお出かけいただきますこと、お勧めしておきます。
 それにしても、「わりなき恋」の中や、前回の書き込みの中でクリムトに触れておきながらの失態でございました。作品展の感想は改めてご報告申し上げます。

《成就》

 その作品展を拝見する前に書き込むのは、いささか臆するところもございますが、事前に彼の私が感じる素晴らしさをご紹介します。
 グスタフ・クリムトはオーストリアのウイーン南西郊外で1862年7月14日に生まれます。1918年2月6日に56歳の充実した壮年期でありながら、脳卒中にて亡くなりますが、19世紀末、ハプスブルグ帝国というか王朝の末期を走り抜けました。彼は貧しい家庭に生まれますが、その画才は早くから認められ、ウイーンの工芸美術学校への入学、そしてその才能をいかんなく発揮します。世紀末を代表する画家として、その作品は話題と人気を集めます。
《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像》 クリムトの代表作ですが、二人の間には愛情関係が認められます。
 彼の作品の多くは金地や、金銀箔の多用にありますが、金は、神々しさと儚さをもった、画家にとって神様の色と言えます。そしてジャポニズムに傾倒したことでも知られます。俵屋宗達の紅梅白梅図屏風絵には、中央を金銀箔を使った川が流れていますが、その渦などに見られるデザイン性等に多大な影響を受けたことが彼の作品の中にもよく見られます。
 女性の肖像画も沢山残しましたが、当時の裕福な階級の主人の依頼による奥様達です。
 ところでこれらのことは、フランク・ウイットフォード著「クリムト」から得た知識ですが、そのまえがきで「1900年前後のオーストリアの首都ウイーンにおいて、クリムトはその文化的生活の中心人物の一人だった。にもかかわらず、彼に関しては、同時代の偉大な人々に関してよりもはるかに情報量が少ない。彼は日記をつけず、ごくまれにしか手紙も書かず、また自分について殆ど何も記録に残さなかったために、自己の芸術に対する態度ばかりか、他の芸術に対する態度についても殆ど何も分からないのである。」と。そのような中、150年前ですからなんとか調べ上げたのでしょう。それでも「彼は多くの人から称賛され愛されていたが、友人はごく僅かだった。表面的には社交的で陽気に見えたが、本当は誠に内気で、思索好きで自己にこもるタイプの人物だった。」と記しています。
 それにしても《成就》における幾何学模様の表現には圧倒されます。本文中に、この作品に関し「クリムトは、明らかに、象徴的な力をもたせようとした装飾によっても、肉体的愛、精神的愛、そして期待や願望を達成しているのである。」
 彼の素描家としての偉大さも有名ですが、「彼は絵を書いている最中にも、絵を描く手を休めては、まるである種の気休めをするかのようにその絵とまったく関係ないものをデッサンした。アトリエの床には山のようなスケッチと習作が散乱していた。彼は絵を描く準備としてだけではなく、手と頭脳のためにデッサンをした。」とありますが、手がまさに踊るように書きつけられていたことがわかります。ただしポルノまがいのようなものもたくさんありますが。

 




 もう少し書きたいのですが、宇都宮の作品展を見てからにしましょうか。