誠にご無沙汰でございます。
多忙を理由にするのは感心いたしませんが、自ら進めた道でございます。相変わらず繁忙期ということも重なり、体を壊さずに、一先ずよく働いております。本日は定休日ですが、朝の内、ひと仕事して、いったん自宅で朝食後、再度ベットインしましたら、目覚めたのが午後になっておりました。
お客様から随分と声をかけられます。「あちらでも買えるから便利になったわ」と。つまり姉妹店が出来たようなものです。少量パックでのお求めは、確かに便利かと思います。
どちらにしましても、しばらくは体力勝負と決めました。出来るところまでやらせていただきましょう。
丸谷先生の追悼特集版が発行されました。単行本未収録コレクションとしまして、「古典と外文と作家・批評家」の第一人者としての評価は定着していることですが、更に、沢山の方と対談しております。山口瞳先生とも。
何処かで、多分、山口先生の対談特集号がございましたが、その中で一読していたような気がします。
それにしても迂闊なことでございました。
「日本語と国語」をテーマに対談なさっていますが、数多いる作家さんたちの中で文中の言葉の表記には、とてもうるさいと言っては失礼ですが、その様なお二人でございました。
〔きらいなことば〕、としまして
丸谷 僕が一番いやなのは「生きざま」とか「死にざま」とか。
山口 「怨念」なんていうのはどうですか。
丸谷 同じなんですね。
つまり何かことばですごむみたいな感じ。
「生き方」、「死に方」でいいんじゃないか、そのほうが耳に
快いんじゃないかという気がするのですけれども、それを「生
きざま」、「死にざま」というと、何かきたならしくなって、そのき
たない感じにうっとりするんじゃないでしょうか。
「怨念」というのもやはりそれでしょうね。
山口 「恨み」でいいところを「怨念」というわけですね。
丸谷 何だかすごむ。
という出だしで日本語・国語に関する対談が続きます。その中で日本語のアクセントや、標準語、方言等多岐にわたり論じ合うのですが・・・。
山口 つまり、「大雪」といわずに「豪雪」という感覚、とてもいや
です。
丸谷 「豪雪」なんて。だれもふだん使わないことばですね。
大体新聞の見出しのつけ方のセンスが、日本語をまた乱
している。
ところが、前回の書き込みにて「嗚呼、何たる豪雪」との表題で書いてしまいました。大した話ではないようですが、いささか恥じ入っております。ただ、日本海側の方には申し訳ないのですが、それでもあれだけの大雪でして、農業等の被害だけで数百億円だそうです。今も倒れたカーポートがそのまま放置されているのをあちこちでお見受けします。部材が間に合わないのですね。そして野菜類の高騰はやむを得ないのでしょう。栃木県特産のいちごにも、そのビニールハウスが相当潰されてしまったようです。
ともかく、湿った大雪でした。残雪が消えるまで半月も掛かったのです。
昨日から今日と、雨が降り続いています。激しくはありませんが降り出すと、いつ止むのか、と聞きたくなります。
それにしても、話は変わりますが、かのこ庵の買掛金はすべて月末締めなのですが、ということは郵便ポストに恒例の先月分の請求書が、どっさり届いています。それは仕方ないのですが、どの封筒も開封しますと、4月からの消費税増税の対応のお願い文書が同封されております。
他業種にて、駆け込み需要で繁盛している話も随分と聞きますが、逆に4月になったらどうなるか、おおよその見当は付きます。
そのことを考えると頭が痛くなりそうです。しかし、ガツガツと、とは思いませんが、こつこつと商品を作り続けていくこと以外に何等の手も打てないのも事実です。
やはり、働きましょう。仕事があることに感謝しつつ。
卒業式や、入進学、受験の季節でもあります。3月3日は県立高校の卒業式がございました。市内の県立高校の大半から来賓用のお茶菓子のご注文が入ります。全て納品時間が8時半という次第にて、桃の節句の日に、早目の納品なら問題ないだろうということで、量販店の納品も含めての大忙しの朝でした。
何よりも相変わらず「開運、勝栗まんじゅう」のご注文が途切れません。朝の内の完売もちょいちょいございます。ご予約は全てお受けし、仕上げております。一個からご予約は営業時間内、必ずお取り置きしております。勝手ながら、ご予約が間違いございません。先程もお電話のご注文、お問い合わせが二件ございました。この季節、受験前にお召し上がりいただき、桜咲くことをご期待します。上の写真は一昨年の母校、県立栃木高校の合格者発表板です。
2013年、ノーベル文学賞を受賞した、カナダ生まれのおばさまというよりおばーちゃんです。全米批評家協会賞他たくさんの受賞作がございます。短編小説の名手として、その名が知られています。なぜ今回この作品をご紹介する気になったかは、じつはマンロー様曰く、「この作品が最新最後の短編集」ということでして、もう新たな作品は書かないそうです。
誠に惜しいことでございます。いずれはリタイヤの時期は必ずやってまいりますが、これほど惜しまれつつたくさんの賛辞を贈られている作家も少ないのではないでしょうか。
裏表紙に彼女の作品の性格が端的に、そして的を得て批評されております。「チエーホフ以来もっとも優れた短編小説家が、透徹した眼差しと眩いほどの名人技で描き出す、平凡な人びとの途方もない人生の深淵。」と。
以前、リンボー先生謹訳の「源氏物語」を丸谷先生が評して、紫式部が意図してか、描かなかった箇所をわかりやすく丁寧に書き足してくれている旨の事を書きました。女性だからそうなのかとも思いませんが、マンロー様の作品を読むと、長編の作品を珠玉の短編に見事に仕上げているのがわかります。光源氏の後朝をさりげない感じでさらりと書き残した式部ですが、マンロー様にも同じような表現が感じられます。本書の一作目における男女の出会いを、寝台列車のコンパートメントの中でのセックスシーンを、わずか数行にておさめてしまうテクニックは、紫式部を思わせられます。それでいながら、2~3ページ分の濃密なものを感じさせてくれます。勿論、厳密には全く別次元での話ですが…。
引用はあえていたしません。ともかくもそのような素晴らしい作品に出合うことは、私の残り少ない人生に、癒しと活力を与えてくれている感じがします。
大変な叔母様であることに間違いはございません。
ところで話題は変わりますが、よく読書の時間が見つけられるものと、自分でも感心しております。つまり、正直なところ仕事の方がハチャメチャに多忙を極めております。毎朝の早出は、さらに暗夜の内からとなってしまいました。そんな中、誠に有難いことではあるのですが、昨年秋に取材に来ていた「下野新聞社」さんの取材記事が唐突に(忘れておりました)1月26日(日)に掲載されました。その日の朝、「新聞で見たんだけれど…」のご予約のご注文で新聞を開いて気付いた次第ですが、電話と来店客とが団子状態での朝になってしまいました。
来週一杯、すでにご予約がきております。なぜか県外からも。
ブログへの書き込みもせねばと、焦ってはおりましたのですが、今日、ようやく書き込みしてます。
カラーにて、さらに文章もよかったのでしょう。誠に有難く、又、お客様には随分とご迷惑をおかけしてしまっております。何しろ、手間暇のかかる商品なのです。一日100個を限度に販売してきましたが、毎日その数をはるかにしのぐ数量を製造しております。それでも午前10時頃には売り切れてしまいます。
何しろ、かのこ庵はこの商品だけを製造販売しているわけではございません。ご法事や、特別なご注文もありますが、今までお受けしてきたものをお断りはできません。この苦衷をご察し頂ければと思います。
ともかく、斯くの如き次第にて、更に毎日の量販店さんへの納品も、数量が日増しに増えております。まさに「どないしまひょ」状態でございます。
体調管理だけは徹底して注意しつつ、しかし私個人では出来ることには限度もございます。
それでも、いささか急激な忙しさにも慣れてまいりました。あとはできる範囲のところまで働かせてもらいます。
誠にこのご時世の中でボヤキは慎むべきでしょう。
「おかげさまで 今日無事 ありがとう」でございます。
リンボウ先生こと、林望様の作品を続けて読んでいます。
古典物を中心に。その古典物を味わう楽しみ方を随分とお教え下さいました。私にとって未知の分野でもある「方丈記」や、「平家物語」の面白さ、読みどころ、味わい深いところを詳述しております。
「平家物語」が戦記物語とばかり思っておりました私には、目から鱗の、さらに、「方丈記」においては、爺様のお坊さんの手による堅苦しい作品かと思っておりました。つまり、学校では教えてくれない本当の着眼点がよくわかりました。だから、現代にも、つまり私個人にも通用する、人間の諸相をこの歳にて知恵を授かったような気がします。更に書くなら、励まされてもいるかなと感じます。
「平家物語」における主要な登場人物の、それぞれの死にざまを味わい深い表現で、しかもわかりやすく解説してくれた『往生の物語』。いつ往生したとしても不思議ない歳でございます。
西方浄土にお導き頂けるか、それともお前は懺悔の気持ちが薄い、として地獄に行かされるのかわかりませんが、そんなことを踏まえて、逆にいかに生きるべきか、教えられます。残された人生を。
ただし、リンボー先生が本書のあとがき「書のしるえに付す」にてお書きになっています。又しても長くなりますがすみません、引用いたします。
「恥ずかしながら、私自身、これまでもう何度も通読したにも拘わらず、滅びゆく平家群像のうちの人々の、その一人一人の細かな相貌や人柄までは、ついぞ見えていなかった気がする。」
そして「個々の人物に腑分けして、(中略)その『死』を意識しつつ読み直してみると、何ということだ、今まで自分は一体何を読んでいたのだろうかと呆れざるを得なかった。
ともかく、今まで馬鹿殿だとばかり思ってきた宗盛が、・・いや馬鹿殿であることは間違いないのだが・・・、じつは小心で非常に平凡な、しかし無類に家族思いの人間的な男であったことが理解されたのなど、その好箇の一例である。日常の生活のなかでは見えていなかった宗盛の人間臭さが、死というのっぴきならない『非常』の時を目前にして初めてわかりやすい形であらわれていたということである。げに、死は生を映す鏡なのである。(中略)
思えば、この物語は、大きく見れば『平家一門』が全体として死んでいく話であった。その圧倒的な流れのなかに(中略)その死は、驚くほど多様で、ハッとするほどの個性とともにえ描き分けられている。みなとりどりに個性的に死ぬのである。(中略)いずれは死ななければならないということは、平家の公達も現代の私たちも全く変わるところがない。生きての未来はまったく不確定で、その命がいつ終わるのか誰にも図りがたい。その死がやってくるということだけは、絶対の確定的未来である。(中略)だから『平家物語』をば、我々の生活とは無縁の『昔のお話』だと思って下さるな。私たちは、重衡の哀しみや、維盛の未練、あるいは、教経の自暴自棄、宗盛の惰弱、それらをみな我が事として胸中に思い浮かべることができる」。
更にリンボー先生著による「恋の歌、恋の物語(日本古典を読む楽しみ)」にも「平家物語」は「もののあわれ」の物語であるとして、日本語の美しさを追求しつつ、哀れ深い情話を綴っている、と書いています。
本書の中では、「万葉集」、「古事記」、「伊勢物語」、「源氏物語」、「平家物語」を料理しておりますが、あとがき(好んであとがきを重視しているわけではないのですが…)にて「徒然草」にかなりのページを割いております。原文ではなく先生の訳文を紹介します。「なにごとにも優れているとしても『色好み』でない男は、ものたりない・・・。(中略)夜露や霜にぐちゃぐちゃになるほどあちこちと女のところへ通って、親の意見も、世間の非難もなんのその、ああでもないか、こうでもないかと、ただもう恋の煩悶に心乱れて、それでもまた結局ひとり寝をかこったりしつつ、恋しさ、さびしさに寝られぬ夜を過ごすなんてのは趣がある。
そうはいっても、まったくの色狂い一方ではなくて、ああ、あの方はご立派な方だと女たちから安からず思われるなんてのが、男の理想というものだ。」
「世の人心を惑わすものは、『色欲』である。」
なんてことを、すでに出家している兼好法師は書き残したわけです。先生曰く「兼好自身の若い時分のありようであったろうか。いかに世を捨て、仏道に帰依したところで、そういう色の惑いばかりは、消えやしないよ、と内心自得しているのであろうと思われる。」
最後に私の(?)清少納言を「隅に置けぬ、とはこのことである。もうかなりの年増であったろう少納言が、こともあろうに・・・。(中略)老いも若きも、昔も今も、男も女も、高きも低きも、そんなことは何も関係がない。みな、男は女が恋しく、女は男が好きで仕方がない。いやむしろそんなふうに男と女が互いの足らざるを補い、よく和し、またはその違い故に恨み言を言い合ったりしつつも惹かれあって、それをこうやって正直に赤裸々に書いてきたのが日本の古典文学なのだ。」「世界的に見てももっとも豊かな古典を持つこの国に生まれて、その片端も読まずに死ぬるのは、いかにも心残りだ、と思うからである」。と締めくくっています。
引用が長すぎて、書き込む時間が無くなりました。
大手量販店さんとの取引も来週から始まります。それでも、何とか合間を見つけてはリンボー先生の作品をご紹介したいと考えてます。中途半端ですが、本日はここまでです。
誠に一年の月日の速さに圧倒されます。
年々歳々、せわしなさが身に沁みます。
来春で山口瞳先生がご逝去なさった、年齢に達してしまいますが、庵主はそれなりに健在でして、もう少し働き続けさせていただきます。
本日の餅つきは11臼でしたが、明日はその倍以上とだけ書いておきます。よくぞ力仕事をこなしてます、と自分を褒めたくなります。昨日は体調が思わしくないというか、持病に近い胃のもたれが残る中での今日よりも多い餅つきでした。
これだけお餅に付き合っていながら、ちゃんとお正月にはお雑煮をいただきます。見飽きるほどなのですが、美味いものは美味いのです。
お店には三日前から、「春華 花びら餅」と、一個で紅白に仕上げました「笑窪薯預万寿(えくぼじょうよまんじゅう)」がメインの場所に並びました。お正月用ですが、お客様から「お作りになっていたのですね」と以前仰られまして、それ以来クリスマス以後にはそんなにまだ売れませんが、顔見世として披露興行(?)をしております。
この「花びら餅」ですが、本来は宮中でのみ供されてきたお菓子ともいえない形での縁起物でございました。それも平安時代の新年行事「歯固めの儀式」にて供された誠に伝統あるお菓子なのです。当時の形態は何よりも長寿を願い、お餅の上に赤い菱餅を乗せ、さらにその上に山海の猪肉や大根、塩漬けの鮎、瓜等を乗せて包み込み、お公家さんたちに配られた、という記録が残っております。
長い時代を経て、かなり簡略化され、明治時代に入ってようやく私たち庶民も新年の縁起菓子として食べることがかない、現在の形になりました。でも、その明治時代では、初釜といわれるお茶席で裏千家のみに許された和菓子でした。
しかし、かのこ庵でも決してお安い和菓子ではありませんが、デパート関係での価格を拝見しますと、価格が倍以上になっています。確かに手間のかかった品物ですが、いいですね、本当うらやましい限りです。かのこ庵の価格は、それなりに原価計算をした、適正な価格だと申しておきます。
羽二重粉で作りましたお餅の中には、白味噌あんと、蜜漬のごぼうが入っています。その時にもよりますが、1月15~20日頃までの商品です。未だお召し上がりになったことがないお方には、ぜひ一個程はお味を見ていただきたい商品です。全国どこの和菓子店でも取り扱っている商品ではございません。
断定はできかねますが、市内でも製造販売しているお店は決して多くはありません。多分2~3店かと思います。更に量販店さんでは、恐らく取扱いきれないはずです。逆に食べ比べいただいてご評価いただけないのが残念ですが、価格が倍以上する「花びら餅」に決して負けていないことだけはお約束いたします。
今年最後の書き込みとなります。
それにしても、最近の日本丸の操船はかなりいけない方向に向かっている、としみじみ思わせられます。普段の私たちの生活には関係なさそうですが、オッとドッコイでございます。
まだ私たちの年代での、年金受給者は幸いなのかもしれません。それでも年金は減るは、介護保険料他は上がってくるは、消費税も、でございます。そして何等の反省もなく、原発や、特定(?)秘密保護法や、近隣だけでなく諸外国からの非難をあびての参拝等々、少なからず右傾化が甚だしいとは思いませんか。
時々、長生きしていくことの薄幸を、いえ、あまりいいことなど益々なくなりそうな世の中に、焦燥感を感じる年の瀬ではございませんか。
そんなことを書いておきながら、おかしいかもしれませんが、ですから尚更、皆様の新年が、少なからず幸多かれと、そしてウマく行く年となりますこと、ひたすらご祈念申し上げ、2013年シャットダウンでございます。(大晦日は夕方5時まで仕事してますが。)
かのこ庵は元日だけ休みにて二日からちゃんと営業いたしております。お年賀品は「花びら餅」同様、和菓子が原点なのですね。
成人式もございます。お赤飯等のご予約はお早目にお願い申し上げます。
お待たせしました。
庵主自慢の「招福・金箔草餅」と「春香・さくら餅」、「道明寺製・さくら餅」の販売が始まりました。
今月に入ってから、お客様からまだですか、と結構お問い合わせがございました。不思議ですね。寒さが厳しくなると同時にお召し上がりになりたくなるようでございます。
「日本の伝統ある食文化」の一翼を担っていると思いますが、この商品作りが始まりますと、和菓子屋は繁忙期となります。
その一方で残念ですが、今年もよく売れました「新栗たっぷり栗蒸し羊かん」が終売です。何しろ小さな店です。ショーケースの上も限りがございまして、ただ何でも構わず陳列すればよいとはまいりません。
しかし、大手量販店さんへの納品も商品が選定され、一月からスタートとのことです。他人事のようですが、どうもどれほど売れるのか見当もつかず、結果、現状では何とも想像が出来ませんのでこのように表現させてください。
バーコードというのはご存知だと思いますが、個々の商品に添付しなければなりません。幸いシールの発行機はございましたのですが、手間取っています。かのこ庵のお店だけで販売しているだけでしたら、表示シールも「生菓子は原則として不要」なのですが、これらも含め、シール機との格闘が続いております。
お正月用お餅の注文も毎日入ってきてます。
ともかく、体力勝負の月でございます。特に本日は木枯らしと言いますか、冷たい風が吹き荒れています。皆様も体調維持にくれぐれもご配慮ください。
山口瞳先生から頂いた色紙の中に「冬の夜 風が吹く」というのがございます。暖かいうちは気にはなりませんが、凍てつく寒さの中の強い夜風は、いささかの恐怖感を運んでくるような気がします。
年賀状も斯様な次第で、自宅に帰ってからの作業となり、予定の3分の1も終わりましたか。住所録を見るたびに溜息が、何てことではいけませんね。当初は、全て手書きでと思っておりまして、インクジェット用ではない年賀は葉書を必要数買い求めたのですが、断念しました。こればっかりは、来年時間が取れたら書きましょう、という代物ではないですからねー。
本当は喪中ハガキをいただいた方に「寒中お見舞い」と思い、無地の葉書も用意したのですが、ごめんなさい。どうもそこまで時間が取れない、というかもうすでに遅すぎますね。
この場を借りまして、改めてお悔やみ申し上げつつ、寒中お見舞いもさせていただきます。
何度か、喪中ハガキを出したこともありましたが、年に一度だけ、消息を伝え合う方達もおります。そんな方とのつながりが切れるのは寂しいものです。
自室のシクラメン、夏の間は葉っぱの一枚もなかったのですが、ご覧の通りです。愛着以上のものを感じます。さらに「君は偉い」と褒めたくなります。
さて、今年の書き込みはもう一つだけ後日、書き上げて終了の予定です。「春華・花びら餅」について、多少の薀蓄を添えて書き上げます。読んでやって下さい。