2012年11月7日水曜日

「月の輪草紙」瀬戸内寂聴

 「一人で生きてゆける女になりなさい」。
 一条天皇の寵愛を一身に受けるなか、仮の身の出家の形で剃髪、肩までの髪のまま一男二女をなしながら、三人目の子を産み落とすと同時に亡くなります。
 皇后定子の波乱に飛んだ二十五歳での短き生涯でした。
 その定子に仕えた清少納言に、定子は冒頭の言葉を残します。定子の運命は短いながらも哀楽をすべて背負い込んだような人生でした。そこに「定子サロン」と言う言葉が残るくらい華やいだ、教養なくして存在し得ない舞台の中で清少納言は生き、随筆「枕草子」を残しました。

 その清少納言に乗り移ったかのごとく寂聴様が新たにご本を出版なさいました。彼女の生没年は不詳にて、本文中には九十歳になられた、という想定で、と言うか寂聴様が九十歳になられたそうでして、清少納言への想いを回想するのです。内館牧子流「弘徽殿女御」、林真理子流「六条御息所」のご解釈もありましたが、九十歳での書き下ろしによる清少納言の生涯。まずはこの執筆への情熱に素直に頭が下がります。
 あとがきにも出てまいりますが、次から次へと平安時代物が出版されております。
 『平成二十四年(2012)の今年は、「古事記」編纂千三百年、「方丈記」が書かれて八百年に当たる。昨年の「源氏物語」千年紀に続いて、古典文学に対する人々の関心が高まってきた。その結果、十一月一日を「古典の日」とすることが法制的に決定を見た。(以下略)』。そしてこのご本の出版日(勿論初版本)がその日であります。
 誠に慶事と嬉しくなります。
 「枕草子」を残した清少納言のことは私が云々する必要性を感じませんが、シャイにしてまさに感受性豊かな女性であったといえます。定子サロンへ出仕しだした時の初々しさ、そして道長とのつながりから出仕をはばかってしまう清少納言。皇后定子より八歳も年上ながら、周囲の目を気にしてしまう、一人の女性として。
 でもこの見解は紫式部の清少納言評とは正反対になりますが、贔屓目もあり私はそう感じます。
 「月の輪草紙」には紫式部や和泉式部、赤染衛門達も登場しますが、清少納言とつながりが想定される男性として藤原実方を始めかなりの数の名前が登場します。平安時代における男女間のことは私たちの想像を超えた次元での世界でした。これ以上は是非本書をお読みください、とお薦めしておきます。
 ところで恥ずかしながら「枕草子」全段を、原文から現代活字にだけ直されたものを読了しておりました。しかしどうもぼんやりと読み進めていたのだなと言うことを悟りました。始めから読み直しますか。でも、一〇三段だけ書かせていただきます。
 『はるかなるもの 
  千日の精進はじむる日。半臂の緒ひねりはじむる日。
  陸奥國へゆく人の逢坂の關こゆるほど。うまれたる兒の
  おとなになるほど。(以下略)』
 実方の陸奥下向を偲んでの一行です。
 

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