2013年3月11日月曜日

「知る人もなき別れ路に今はとて心細くも急ぎたつかな」中宮定子

 「江分利満家の崩壊」という、私にとりましてはショッキングな内容の、ご本の書き込みをいたしました。
 私淑する、直木賞作家「山口瞳先生」のご子息、正介様がお書きになったお母様のご逝去までの顛末が、淡々と細やかに記されております。
 その書き込みの中で、山口先生とは懇意な中であった池波正太郎先生が残せしエッセイ文を書きました。
 再掲します。
 『人間は生まれでた瞬間から死へ向かって歩み始める。
  死ぬために生き始める』と。
 こんな時代というか、世の中です。何時、何処で、どの様な死に方をするかを想像することは困難なことです。がしかし、丸二年が経過いたします。病を得て死を間近に感じ、辞世の詠を残せるものならば、残して死にたいものです。
 しかし、唐突に己の死への覚悟をする暇もなく、もがき、苦しみ、命を奪われる、絶たれる。ただただひたすら、安らかに、としか表現できません。そして残されし被害に遭われた方たちの心情。
 また、少なからず日本中の人も何がしかのトラウマを背負わされたはずです。
 しかしここ数日、震災関連の報道が続いておりますが、どこまでハード面での復旧は進んだのか(その進捗状態には憤りを感じます)。残されし人たちへのケアはどうしてこれほど進まないのか。
 話は少し変わりますが、数日前に栃木県から「栃木県産食材の安全、安心について」というタイトルのアンケートが送付されてきました。その中に、放射能に関する風評被害についての項目もありました。「栃木県産、食材の安全性は、全てチエックされており心配はありません。」とあります。最後に何かご意見は、ということで書かせてもらいました。「通販での売り上げはわずかですが、中部地方以西の国民にとって、栃木県は北関東の最北、つまり福島県民には失礼ながら、お隣の県でもあります。さほど大差ない所、として見られておるはずです。もっと、東京より西の方たちへの発信を強めるべきです」と。
 それにしても確実に原発の再稼働はタイムスケジュールに組み込まれてきています。地震国日本、どこもかしこも活断層のこの国で、それでいながら、誰ひとり責任を取るわけでなく、その一方記憶の薄れることの早い日本人。
 この国民性あっての現状、とは理解したくありません。
「梅一輪二輪三輪千万輪」一晩で満開です。
 忘れてはならない心の傷を日本人すべてが背負い込んだ、今回の大災害です。と書きながら、何も出来ないでいる自分に少々苛立ちすら覚えます。せめて、「ならぬことは、ならぬ」と忘れずに発信し続けることが、重要にして私ができることだと思います。

 栄華物語鳥辺野巻に中宮定子の遺詠が三首出てまいります。
 その評論を私がここで書く事は場面としても、器としても自分で疑問を感じてしまいます。いずれ少しは別な角度から書きたくは思っておりますが・・・。

 3.11。忘れてはいけない日にちです。
 「季をひろう」高橋睦郎様は3.11忌として、正確には季語にはなりませんが『この場合の無季は季を超えているというべきか。』として、お二人のまさに絶唱とでもいうべき俳句を
掲載しております。
 宮城県在住の高野ムツオ様という方の俳句には
  「みちのくの今年の桜すべて供花(くげ)」、
  「春天より我らが生みし放射能」。言葉を失います。

 なんとも固有名詞の多い割には内容がバラバラの書き込みでした。すみません。

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