2013年3月5日火曜日

「権記」藤原行成、これが最後の巻。

 著者、倉本一宏先生は「国際日本文化研究センター」の教授をなさっております。平安文化に誠に造詣の深い方でございますが、藤原道長の「御堂関白記、上・中・下」、全三巻の現代語訳も出版なされております。何とも、私如き浅学の者には正直、驚きと共に少なからず、かなりの熱情が無ければ成し得ぬ事と感心いたします。

 長徳元年(995)九月二十七日、行成の日記です。長くなりますが、お許しください。  
「季御読経結願/陸奥守藤原実方、罷申(『本朝世紀』にもあり)
舞人としてのかざしを忘れ、笹の葉を使うという實方です
季御読経が結願を迎えた。戌剋、陸奥守《藤原》実方朝臣が赴任するということを奏上させた。先ず殿上間において酒一、二巡を勧めた〈内蔵寮が肴物を準備した。重喪人であるので、精進物を準備した。〉。その後、天皇は昼御座に出御された。蔵人(藤原)信経が、天皇の仰せを承って実方朝臣を召した。実方朝臣は召しに応じ、孫廂の南第一間に伺候した。       
 次に蔵人頭(藤原)斉信朝臣を召した。(中略)別に天皇の仰詞があり、また正四位下に叙された。禄を下給され、また仰詞を承って退出した。重服であったので、拝舞をおこなわなかった。」
 陸奥国の国司として、当時、現在の宮城県多賀城市にあった陸奥国庁舎の最高責任者の立場として都を離れる藤原実方を記しています。行成とはそりが合わないはずの二人ですが、几帳面なる行成の性格故に天皇との直接の謁見の記録が残されました。
 実方の父定時はその定時の弟、斉時が侍従となっており、定時も侍従になっていたはずですが、それ以後の記録がなく没したと考えられます。実方の出生年次は正確にはわかりませんが、天徳二、三(958~9)年頃と思われます。正直、沢山の研究者がおられるのですが、推測の域をでません。母は左大臣源雅信女ですが、やはり父同様早世してしまいます。小一条家の大将でもある斉時の養子となりますが、祖父は師尹であり藤原四家の内の小一条流の祖であり、娘芳子は村上天皇に入内、寵愛を受けます。正二位摂政左大臣を勤めた師尹、斉時、そして定時と良家の母を持つという、血筋としては相当な家系の出自となります。唯、早くに両親を亡くした経緯から、実方の人生に少なからず屈折した影響を及ぼしたのではないかと、実方を探求なさる先生方のご意見が多く拝見されます。
 「権記」からは離れてしまい、実方の事が中心になっておりますけど、行成はもういいでしょ。行成が残せし「権記」からの抜粋でもお分かりと思いますが、何しろ実方のことが書きたくて正直ウズウズしていたのです。ただし、行成の人物像も、結構ご紹介は出来たと思います。実方への書き込みへの伏線として必要であった、ということです。そして漸く、とはいきません。陸奥に赴く実方を、そして同時代に生きた清少納言や、中宮定子に関する知り得た知識の中での書き込みを暫くさせていただきます。

 実方の和歌には、何とも言えないリズムを感じさせるものがあります。武人として、舞人として、歌人として、何よりもいささか影をもった貴人というべきでしょうか。紫式部の源氏物語の中の「青海波」を舞ったモデルこそ、実方であったと勝手な憶測で書きます。イケメン貴公子、實方。
三月七日の梅一輪二輪のかのこ庵でございます。

 『恋しとも えやはいぶきの さしも草
     よそに燃ゆれど かひなかりけり』
 徳植俊之先生の「実方の和歌」との評論文に、「実方は既成の歌句を転用しながらも、それを単なる模倣の歌で終わらせずに、独自の表現として再生しようとしていたのであり、『えやはいぶきの』は、そうした実方の試行錯誤の痕跡をとどめたものと、見ることもできるのである。」
 さて、ここまで専門的な事柄の書き込みは、正直、私も疲れます。まして何等関心のない方には、又、私を知る人達には、もっと和菓子に打込みなさい、と、叱られそうです。
 
 しからば、有難きことでございますが、過日のお茶会における「お雛様」の上生菓子が何とも好評だったようでして、直接、間接に大変なお褒めのお言葉を頂戴していること、自慢話として書かせていただきます。
 須らく、「手抜きです」と書いた手前、これからもお勉強致します。

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