2012年7月21日土曜日

「源氏物語の時代」 (2)

 昨日の続きとなりますが、少しづつカキコミしていく予定です。

 「権記」。藤原行成の、実にこまめに記された、彼の日記ですが、長徳元年(995)八月二十九日に、彼は「藤原輔公(すけきみ)が召しに応じて一条天皇の御前に参った。還り出た。『あなたが蔵人頭に補されました』ということだ。すぐに畏れ多いということを奏上させた」。
 そして「九月十三日、蔵人頭に補されてから、初めて内裏に参った。」と記され、彼の仕事が一度に増えていきます。
 行成二十四歳、一条天皇十六歳、藤原道長三十歳、藤原詮子(一条の生母)三十四歳、藤原定子二十歳の時です。

 この年、政治向きの話としても、内裏内での権力争いにしても、貴族同士の反目も甚だしいと言えるほどに、色々な事件、事態が出来します。細かくは記しませんが、そのような中で一条天皇は「かつて摂関家の天皇には政治的実権は無かった、と言われたことがあった。今も何となく彼らを『お飾り』と見る眼が残っているように思う。だが一条は、それが違うということを私達に教えてくれる。彼は明らかに、政治的判断を下す天皇だった。そして定子の兄であり、私的にはあれほど心を許している伊周に対しても、公の問題では決して馴れ合い的ではなかった。私情に引きずられること無く、峻厳な態度で公務に当たろうとしていたのだ。」
 山本淳子様ご指摘の如く、かくも若き一条天皇の英明さが伝わってきます。
 その一条のキサキ、定子。一条からの一途な愛を受ける中で、後宮での清少納言を含めた定子サロンにも、華やかさが溢れていたことが、この時点ではまだ、書き始められてはいませんが、「枕草子」の随所に登場してきます。
 清少納言の知性は、この時期に新たな感性をプラスされ「枕草子」に繋がったといえます。例えば書き出しの「春は曙・・・」で表わされるような新鮮な、そして鋭くも柔らかい感性の表現(一般的には桜を愛でたりしそうなものです)は、この時期に定子や伊周などの影響を、濃厚に受け継いだ結果であるといえます。
 しかしその一方で、道長を含めた権力争いも激しさを増します。当時、疾病が京の都の中を吹き荒れており、公卿の中でも上席を勤めていた者や、その席に近いもの達が、次々と亡くなっていきます。関白道隆は持病ですが四十三歳で、左大臣源重信、右大臣道兼、大納言朝光、同済時、権大納言道頼は二十五歳で亡くなっています。
 そんな中、生き残った次席程度に相当する人物が、伊周と藤原道長の二人です。「道長は平安貴族として最も有名でもあり、最高権力者になるべくしてなったように思われている面がある。しかし実際は、こうした異常事態があったからこそ浮上した幸運の男だったのだ。」
 伊周と道長の闘争は、花山院に起こった事件を、又、一条天皇の生母詮子を巻き込んでのこととなり、清涼殿の栄華の中にいた定子の運命に暗い影を落としていきます。
 

 ところで話が少しそれます。
 本日、書き出しの「権記」長徳元年八月に行成が蔵人頭となると書きました。その翌月、九月二十七日にあの、そうです、「陸奥守藤原実方、罷申(まかりもうす)」として出てまいります。「戌剋、陸奥守実方朝臣が、赴任するということを奏上させた。(中略)別に天皇の仰詞(おおせのことば)があり、また正四位下に叙された。禄を下級され、また仰詞を承って退出した。(以下略)」
という次第です。
 実方の件は、この続き物の中では最後に触れる予定ですが、そんな訳で本日は実方登場で終わりでございます。しかしこんなにカキコミしている私は、実に暇な奴だなあ、と、思われているはずです。でも、自宅で鉛筆を舐めはしませんが、下書きをしてのカキコミであること、付記しておきます。
 

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