2012年7月20日金曜日

「源氏物語の時代」山本淳子 著 (1)

 本日、80歳を過ぎたかと思われるお客様が、いらっしゃいました。栃木県真岡市からとのことでして、拙著をお求めにわざわざ出かけてこられた、とのことです。誠に恐縮の極みというか、汗顔の思いでございます。一月ほど前には、宮城県名取市の「藤原実方朝臣、墓前献詠会」の実行委員をなさっていらっしゃる方からのご依頼で、残り3冊の内の一冊を謹呈し、従って残り2冊になっておりました。しかし、又しても差し上げてしまいました。「2年ぶりで、やっとこの本を買い求めに来ることが出来ました」と、おっしゃられてはいけません。しかし、流石にこれで終わりです。せめて、自作本一冊は手元に置いて置かねばなりません。

 その、拙著のあとがきで、「DIG」というジャズ喫茶店の事を書きました。そこに通う中で先輩から「DIG」とは「掘る」という意味だが、ある地点を人力だけで直径1mの穴を掘るとしたら、周りの土が崩れ、目的の1mを掘り終えたときには、同じくらいの広さの穴が出来ているはずだ、と。
 「一つのことを探求して行くと、それに従って色々と知識が増えて行くものなんだよ」ということでした。
 平安時代に関する本を色々と(自慢するほど沢山読んでいる訳ではありませんが)拝読していると、脇道に、とも思いませんが、本来の目的とは違うけれども、実に興趣に溢れた歴史の事実、人物達に出会います。

 今回のカキコミは、24歳で亡くなるまでに、女性としての最高位を得ながら、余りにも浮き沈みの激しい、余りにも短命での生涯を送られた「定子」について、でございます。
 一条天皇と花山院の周辺を調べていく中で、浮き沈みの激しかった、そして、かくも一条天皇から愛された「定子」という女性の存在を、赴くままに書いて参ります。ただし、私しめの書くことでございます。余り期待はしないで下さい。

 花山天皇が、はかりごとの結果として、剃髪、出家し退位なさったために、一条天皇の御世となりましたが、そのとき一条天皇、数えで七歳、現在の満年齢で言うなら六歳の誕生日を迎えたばかり。即位された天皇として、この時点では最年少記録となるそうです。この一条即位を図った中心人物は「蜻蛉日記」の作者で有名な道綱母の夫、藤原兼家です。
 
 一条天皇は正歴元年(990)正月、元服。満で九歳と六ヶ月の成人男性となり、その月末に兼家の長男道隆の娘、定子と結婚します。一条最初のキサキとなります。一条の母は道隆の妹なのでいとこ同士にあたりますが、時に十四歳。厳密には一条より三歳年上でした。
 この結婚は、まさに政略結婚そのものでした。しかし二人の歳の差がそうさせた面もあるでしょうが、姉さん女房として、勿論二人の性格や資質が第一ですが、純愛小説さながらの一途な仲の良さでした。二人の結婚期間は十年しかありませんが、その間は勿論、定子の死後までも一条の想いは続きます。「彼にとって、憧れ、悲しみ、引き裂かれても求め続けずにいられなかった女性、それが定子だった。」
山本淳子様は「源氏物語の時代」で以上のように、そして又、以下のように描いております。我流に略しておきますが。)
 定子を育てた家庭は、藤原摂関家の道隆と国司を歴任した高階成忠の正妻、貴子の当時としては最上層貴族で有ったといえます。感性、品性、教養、知性と美貌、いい意味での奔放さを持った、明るく開放的な両親に育てられた、といえます。それらの環境の中で教えられ、育ち、キサキ史上まれにみる漢文素養を持った女性が定子でした。
 


 正歴四年(993)冬、定子付き女房に清少納言が加わります。新米の彼女を期待を持って育て上げます。とはいえ、清少納言、推定年齢二十八歳になりますので、色々と気後れする面があったと推察します。しかし「わずか十七歳の女主人だというのに、『枕草子』を見るかぎり定子には女房指導の基本精神が一本しっかりと通っていて、ぶれがない」。「いうなれば、清少納言は定子に認められ自信をつけて才能を伸ばし、ここからやがて『枕草子』作者になっていった・・・』。

 まだまだこれからが本題というか、私の「定子」感に入っていくのですが、長くなりそうです。少しづつ(でもないか)
書き続けさせていただきます。


0 件のコメント:

コメントを投稿