2012年7月26日木曜日

「源氏物語の時代」 (3)

 少し涼しかった一週間前が、懐かしい遠い日の出来事であったような気がします。
 昨日は定休日でしたが、起き出して来ますと、既に小6の孫プラス2人の友達が待っておりまして、殆ど強引にプールへと出かけさせられました。しかし何はしなくとも、流れるプールというのは、ただ身をゆだねたままのようでいて、これが結構、疲れが残りますね。

 藤原定子の続きでございます。
 それにしても、本日の「天声人語」には、源氏物語の夕顔が引用されておりました。「心あてに それかとぞ見る 白露の 光添えたる 夕顔の花」(もしかして、その方ではないかしら、とお見受けいたします、置く白露にいっそう光を添えた夕顔の花、夕ぐれのそのお顔はもしや光源氏様では)。「寄りてこそ それかとも見め たそがれに ほのぼの見つる 花の夕顔」(もっと近くによってこそ、誰なのか確かめられるでしょう、「誰そ彼」という、誰とも見分け辛い夕ぐれに、ほのかに見た花の夕顔を・・・」。
 儚くも激しく燃えて、光源氏の用意した二人だけの隠れ家で悲劇は起こります。六条御息所の怨霊により、夕顔は朝には冷たい身となってしまいます。掲載させていただきました絵巻は、室町時代の土佐光信筆による「夕顔」の場面でございます。

 花山天皇(当時)に於ける「忯子」、激しく愛され最初に妊娠したキサキですが、その愛の激しさゆえに息を引き取ります。その時の花山天皇は一途でありすぎました。これが花山院としての出家の理由の一つともされる訳ですが、以前にカキコミした如く、いささか奇矯な振る舞いもあり、その一方で仏道への帰依も半端ではなく、熊野参詣を始めとして、西国三十三箇所霊場めぐりの礎を作っています。しかしその一方で風流を旨とし、詩歌の世界でも、また、恋の道でも沢山の浮名を流します。
 ところで、ネット上に花山院についてのカキコミが結構多く見受けすることが出来ます。その一部に「平安時代の好色一代男」とのブログのカキコミがあります。どうも一方的な決め付けではと感じます。ご落胤を含め、その血脈を残すことは当時の皇族や貴族にとっても、いわば一つの仕事(?)でもあった、とは、私個人の意見では有りません。多くの先生方が書き残しています。何人もの女御を孕ませた先人も、後の世でも、その名は数え切れないはずです。
 それも淫行はあり、不倫、近親相姦あり、男色ありの世界が現在よりは堂々と行われてきた、ということでしょうか。
花山院だけが、好色とはいささか抵抗があります。
 定子の話の前書きが長くなりました。
 といいつつ、まだ花山院の話が必要なのです。実は「花山院暗殺未遂事件」が起こります。
 藤原実資の日記「小右記」には、長徳二年(996)正月十六日、「花山法王・内大臣伊周・中納言隆家が故一条太政大臣の家の前で出くわし、乱闘事件発生、法王側の童子二人が殺害され、首を持ち去られた・・・」とあります。
 何故ここでこの話が必要かは、藤原伊周が現場にいたことにより、回りまわって定子にも大きな影響というか悪しき方への出発点にもなるから、と書いておきます。

 この事件の発端は、女性をめぐる勘違いが起こした事にて、さほどの問題になることではなかったのですが、伊周がいけません。本来なら、道長と争ったとして、摂関家長男筋の正統性の有る、そして現、一条天皇との繋がりや、懇篤な間柄(漢詩を介しての仲の良さなど)から、このような事態を引き起こさなければ、そして騒ぎ立てなければ、なんらその地位に問題は無かった事件でした。が、これ以前からの小さないさかいもあり、さらに藤原実資が現在で言うところの、警視総監役のごとき検非違使の長官をしており道長の命により事の処理に当たります。結果として、流罪となってしまいます。その間にも、一条天皇生母の詮子が伊周による(?)呪詛にて死を覚悟するほどの自体も出来します。定子は折りしも懐妊することができており、そんな中での一連の流れは、しかも仲のよかった伊周の失脚は彼女を出家へと気持ちを動かしてしまいます。
 自ら鋏を取ってのことでした。
 平安時代の都人に自殺、自害という概念はありませんでした。その意味で出家は心の自殺とも言えます。「しかし一条の待ちに待った第一子は、女ではなくなった妻、名ばかりの『中宮』と呼ばれる尼によってうまれることになった」。
 
 
 その間、清少納言は定子つきの女房達の陰口もあり、出仕をせずに鬱々たる日々を過ごしていたのですが、定子は山吹の花を添えた手紙を秘かに送ります。
 「山吹の 花色衣 ぬしや誰 問えど答えず くちなしにて」(古今和歌集より 素性法師)(くちなしでこたえられないのね)。「心には 下行く水の 湧き返り 言はで思ふぞ 言うにまされる」(心の中には秘めた思いが湧きかえる。口に出さずに想う気持ちは口にするより強いのよ)という意図がこの歌への連想となります。
 定子の清少納言への信頼は厚かった、といえるこの話は「枕草子」に出てまいりますが、いい話です。往時の栄華は見る影もありませんが、定子サロンは健在でした。
 

 妊娠しているとはいえ、定子の立場はあくまでも出家の身です。いつまでも後継のいないままでの天皇とは問題が有りますが、定子別離後二カ月で義子入内します。
 定子は相変わらず不幸が続きます。母貴子を冬になくし、流罪中の伊周が定子のもとに上京、隠れていたのですが密告され再逮捕されます。度重なる心労のために出産は遅れに遅れますが、何とか皇女を産みます。
 脩子と名づけられますが、詮子にとって初孫となります。
 尼の子ではありながら詮子の胸は祖母としての愛情が湧いたことは想像されます。そのような時間の経過の中で、伊周への恩赦が何とか決まり、一方で定子と幼子との対面が行われ、出家の身の定子を一条は復縁してしまいます。定子は内裏外側、道一つ隔てただけの「職御曹司(しきのみぞうし)」という建屋に人目を忍びながら住まわされます。定子は、清少納言達との宮廷での、窮屈ながら生活が戻ります。

 さて、もう少しこの話は書き続けますが、今回はここまでとします。ただし、書いていて思うことは、賢帝、聖帝等と呼ばれた過去の、例えば村上天皇にしても全てとは言いませんが、こと女性に関してやはり我慢が出来ないというか、自らを律することが難しかった。いや、時代の要請が有ったとしても、これは許容されることなのでしょうか。
 一条には三人のキサキが存在するのです。愛情の濃淡はあれ。
 
 

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