2012年10月22日月曜日

「建礼門院徳子」に関して

 私が追いかけている「一条天皇と定子、彰子」からですと約180年後の話に、今回だけ飛ばさせていただきます。
 全く気が多いんだから、と言われそうですね。
 丸谷才一先生が今月十三日にお亡くなりになったのはご承知の通りです。その先生の数ある作品の中から「恋と女の日本文学」というエッセーの様な、考察本がございます。前半は中国には恋愛小説の類が全く見当たらないが、日本は中国から漢字を含め色々と受け入れてきているのに、日本独自の文字文化を進化させた。その中で日本にはなんと万葉以前から「恋」の歌や、小説がかくも多数、誕生した、ということに関して書かれております。
 本居宣長の悪戦苦闘ぶりを中心にその真相に、深層に迫っております。宣長は西欧には恋愛文学がちゃんとあることを知らない中で、何故、日本にはこれほど恋歌や恋愛小説が書かれたかについて、考察した最初の偉人と言えます。
 丸谷先生は「日本文学では、代表的作中人物をじつに簡単にあげることが出来る。光源氏ですね。『源氏物語』を読んだことのある人も、ない人も、まづ彼の名をあげるでせう。これは何と言っても物語といふジャンルの位置が高いし、そのなかでも『源氏物語』が圧倒的に有名だからかうなるわけだ。」(先生は旧仮名使いが本来である、そして美しい日本語として表現できる、としております。故に原文に従って掲載しておりますことご承知ください、)「それにあの人は人気がありますね。男も女も好意を持ってゐます。谷崎潤一郎みたいに三べんも翻訳をしたあげくあの男は嫌ひだなんて言う人もゐますが、特殊な例外ですから無視してかまはない。
 しかし、一体、光源氏とは何をした人か、といふことになるとちょっと困るんです。別に何か特別の事業をしたわけぢゃない。ただ、ほうぼうの女と関係して、死んだ、それだけのことです。(中略)つまり光源氏は恋愛の名人だった。われわれの文学の代表者は恋が専門でした。」
 と、面白い話が続くのですが、前置きが長くなりました。
 NHKの清盛もいよいよ渦中に入ってきたようです。実は殆ど見てはいないのです。どうも登場する役者さんたちが好きになれないの一言ですが、昨晩は巨人中日戦との掛け持ちでチラチラと拝見しました。源義経が初々しかったですね。さて、建礼門院徳子(のりこ)については、私が云々する必要がないくらい有名ですが、本書の中で「女の救われ」とのタイトルで登場してきます。簡単に彼女の生涯を紹介します。
 平清盛の娘で高倉天皇の中宮。安徳天皇の生母です。 
 1185年三月二十四日、壇ノ浦で平家は滅亡するわけですが「このとき建礼門院の母、平時子は八歳の安徳天皇を抱いて入水(というのは『平家物語』によるもので、『吾妻鏡』によれば按察局)。そして女院は錘として懐に温石と硯を入れて身を海に投じたにもかかはらず、源氏の兵が熊手を髷にかけて引上げました。死ぬにせよ、生きるにせよ、不憫なことである。(中略)
 普通われわれが読む覚一本系統(略)のもので灌頂巻を読むと、大原御幸つづく六道之沙汰のくだりがどうもよくわからない。(略)衆生がこの世でした行為に応じて、死後におもむく六つの世界、すなわち地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道のこと。
 大原の寂光院にある建礼門院を後白河院が訪ねてゆく。花摘みに行っていた女院が帰って来て、法王に対面し、やがて自分は生きながらにして六道を体験した身だと語る。
 まず昔の栄華、春夏秋冬の楽しみは天上の果報に相当 
 する。(引用が長くなりますがすみません)そして都落ちと  
 西海流浪は天人五衰の悲しみだから、双方を合わせて
 天上道。
 大宰府落ち、秋の末の月見(10月27日は十三夜です)、    
 清経入水、これは人間道。
 海上をさまよって食事にも事欠き、飲み水にも不自由す
 る。これは餓鬼道。
 室山、水島などで勝ち、一の谷で大敗する合戦の日々。 
 これは修羅道。
 壇ノ浦での先帝入水。残りとどまる人の叫喚。これは地 
 獄道。
 ここまでは納得がゆくのですが、このさきがわからない。
 竜宮の夢が畜生道の体験だというのはいかにもこじつけ 
 がましい。(ここは水原一様の注釈)
 この謎は『源平盛衰記』(略)を読むと解ける。
 『盛衰記』では、ここで建礼門院は、「人はみな死後に六道を見るものですが、あたくしは生きながらにしてまのあたりに六道の苦楽をへめぐりました」と述べる。すると後白河院はいぶかしんで・・・・・」つまり、畜生道について院も納得いかないのです。
 そこで丸谷先生『盛衰記』や、『延慶本平家物語』を基に、兄弟の宗盛、知盛との船上での近親相姦、好色でも有名な義経との関係、さらには実は後白河法皇とも。この辺りの解明はさすがと感心します。
 「わたしが思うに覚一本『平家』の終わり方は、エンデイングの名品として、日本文学史上最高のものかもしれません。一体に日本人は構成の才が乏しいのか、うまく終わるのが苦手なやうな気がする。『源氏物語』にしても、果たしてあれでいいのだらうか。(略)
 父、清盛には阿弥陀仏の迎えのなかったことが強調されてゐる。父の救いのない死に方が、娘のしあはせな死の引立て役となる。かうして覚一本『平家』は、あまたの罪を犯した女でも極楽にゆけると語って、まことに巧みに女人往生を説くのである。これが覚一本『平家』のメッセージであった。」

 なかなかに私の勉強になりました。丸谷先生へのお別れのメッセージの巻でした。
 ところで、色々と写真を勝手に使用しておりますが、差しさわりがありましたらご連絡ください。即、削除します。
 

2012年10月18日木曜日

「第十五回藤原実方朝臣墓前献詠会」

 嗚呼、なんて阿呆な親父だ。と笑ってやってください。
 昨日は定休日でしたのに早起きしまして、宮城県は名取市まで出かけてまいりました。以前からカキコミしておりましたので、ご承知の方も多いと思いますが、「藤原実方朝臣墓前献詠会」のご案内をいただいておりましたので、日にちも良し、エイや、てな思い、での旅となりました。写真は秋空の名取駅西口です。
 しかしあほな話です。いただいた案内書は一昨年の昨日(十月十七日)の案内状でした。よく見ればわかるのですが、開催年が平成22年となっておりまして、毎年、十月の第三日曜日に開くのだそうでございます。以前に拙著を寄贈したことに対し、名取市長様から感謝状のお手紙も頂戴しておりましたことと、今回ご案内頂いた方が、実行委員さんをなさっていらっしゃるのにそのお名前を失念しておりまして、名取市の市長室秘書課の女性の方と二度ほどお電話にてやり取りを致しました。しかし、肝心なところがすっぽりと抜け落ちたまま、出かけてしまいました。
 午前九時半に名取駅西口前よりマイクロバスが出ますので、それに間に合うようお出掛けください、とのことでした。
 当然ですよね。九時四十五分まで待ちましたが、バスなんか来るわけありません。おかしいなあ、と思いつつタクシーにてお墓に向かいました。当然ですよねー。人一人、誰も居りませんでして、案内状をもう一度よく見て気付いた、てな次第です。
 がっくり墓前でうなだれちゃいました。そもそも、この種のイベントは通常日曜日に開催される訳ですよね。ただ、てっきり実方中将のご命日に開催するんだと、一人合点していたのです。
 でもこれで二度目の墓参となりましたが、前回は手ぶらで訪れてしまいましたので、あまりにも静かな秋晴れの中、準備していったお花とお菓子をお供えし手を合わせてきました。これはこれでいいんだ、と納得させまして。
 秘書課の女性にどじな話とタクシーの手配をお願いいたしました。それはそれは、ということで「どうか市役所にお立ち寄りください」との事でして、応接室の人となりました。秘書課の渡辺様、教育委員会の佐伯課長様、お忙しいでしょうに太田副市長様までご同席くださいまして、間抜けなオッチャン振りを披露してまいりました。震災のお見舞いを申し上げ、実方の話題に少し触れまして、汗顔の中、渡辺様が大通りまでお見送りいただきながらの、退出でございます。
 実は今回お伺いする前から決めていたのですが、名取市に三代続く老舗の和菓子店「たこうや」様がございます。 
 綺麗な素敵なお店でした。かのこ庵は負けています。
 「実方まんじゅう」が有名でして、これも何かのご縁、と感じ訪れてみました。社長様は残念ながら外出中との事で、奥様とお話しをしてまいりました。
 外壁が剥がれ落ちたそうですが、思ったほどには被害は少なかったそうです。それよりも「電気も、テレビは勿論、電話も何も連絡が取れず、本当の名取市の被害状況がわからない日が続いたのに困りました」。数日して、仙台在住の娘さんがおにぎりを食べながら徒歩で、無事を確認に来てくれたそうです。そしてぼんやりしている私たちに「ある物、作れる品を作り本当の被害者にお配りし、こんなときだからこそお店を開くべき」との説得に目が覚めました。
 という話には正直、鼻の奥がキナ臭くなりました。

 斯様な次第で予定よりも早く墓参も済んでしまいましたので、仙台市にて歯科医院を開業している同級生と昼食を共にし、早々に帰ってまいりました。
 今回の事はカキコムかどうするか、昨晩はかなり悩んだのですが、どちらにしても「阿呆なオッチャン」は私の一つの売り(?)にもなっとるや無いかと思い書きました。
 笑ってやってください。
 でも被災地の現状は、あの時からそれ程には回復していないし、何よりも心的外傷はそう簡単に消えることない大変な現況であることも、併せてご報告しておきます。今回お会いした方たちは皆様とてもよい方ばかりでした。何一つ、そのご苦労を強く訴えてくださった訳ではありませんが、逆にそのことが心に強く残りましたドジな、旅でございました。 
 

 丸谷才一先生が八十七歳にてお亡くなりになりました。
 
 十六日の「天声人語」にはその「濃密な『余生』を完結させた」とありました。更に文中、山口瞳先生の名前も出てまいりますが、私二度、拝見しており、一度は山口先生を偲ぶ会でのスピ-チをお聞きしました。「本音を語って、誰も傷つけない、スピーチの名人」と書いてありましたが、その通りでした。お歳を考慮すれば止むを得ないのかもしれませんが誠に残念です。

 ところで、このブログの閲覧者がかなり以前に一万人を突破しております。恥ずかしながら誠に、今回の如きことまで書いております。一年ちょっとでのこの手のブログとしては素晴らしいことだそうでして、実は名古屋に熱心な読者がおり、必ずチエックをしてくれていることを教えてくれる方が居りました。嬉しくも、冷や汗ものでもございます。
 日々研鑽、には少し歳を取ってしまいましたが、これからも宜しくお付き合いください。

2012年10月13日土曜日

「別れる」 山口瞳

 それ程のことではないのですが、昨日のカキコミの中での山口瞳先生の箇所、一部訂正させていただきます。
 つまり、女性との別れ方について、山口先生が仰ったかの如く書きましたが、間違いでした。高橋義孝先生のお言葉を山口先生がご紹介している、というのが本当です。すみません。
 高橋先生曰く「女と別れる時はね、(中略)いきなり、パッと別れちゃ駄目ですよ。パッと別れると出刃包丁です。あるいは毒薬のまされたり・・・」。「いちばんいいと思うのは、畳の目ほど離れていくんです。少しずつ少しずつさがってゆく。(中略)畳のひと目ずつ・・・」。が極意、ということです。
 「女はこわい。特に美人はこわい。その美人が三十歳にちかづいて焦ってくると、いよいよこわいことになる」。
 「相手の女が、すこしずつすこしづつ悟るようにしないといけない。すると、自分で納得するのだろう。『そうだわ、私は振られたんじゃないわ。私のほうが嫌いになったんだわ』そう思わせないといけない。『しかし、先生・・・』と私は言った。『きれいさっぱり別れたつもりでも、そこでまたヤッとつかまっちまうんじゃないですか。』高橋先生は笑っていた。そうして、こう言われた。『焼けぼっくいには特別な味がありますね。なくなっていた万年筆が出てきたような。ああ書ける。そういう感じがありますね。焼けぼっくいの場合にはスラッと書けてしまう。』
 「誰かが、女と別れる時はふりむいてはいけないと書いていた。和田芳恵さんであるような気がするが。」
 「土岐雄三さんは、また『霜が朝日に合うように』という・・・(略)。
 ある人がある人を評して『出来上手の別れ下手』だといった。女にはヤタラにもてる。あるいは口説いてモノにするのがうまい。しかし別れるのが下手で、いつまでも女を背負い込んでしまう。あるいは面倒を見てしまう。
 こういうことは、結局は妻子を泣かすことになる。相手の女も不幸にする。二年か三年ならいいけれど、十年も経つと、相手の女も女房同様になってしまって、いよいよ別れにくくなる。女も齢を取る。誰かと結婚するということによって解決するという道も困難になる。男は、また別の若い女をもとめる。その女とも別れられない。これが『出来上手の別れ下手』ということであるらしい。
 だから、あるときは、それがいかに残酷であっても、いかに危険であっても、思い切って別れてしまわなければいけないと、ある人が言ったのだ。」(以下略)
 

 光源氏様に読ませたき内容となりました。
 ところで、何故に「源氏物語」から暫く離れようかと思ったかは、どうやらこの辺りにあるといえます。四十、五十になっても、如何に権力も、暮らしにも困らないからといって、どうにも相変わらず女性問題で、しかも因果応報で連綿と続く話に少し辟易してきました。シルバーグレーのオッチャンやないかと、言いたくなります。当時の五十歳は今なら六十歳を越えている、と思います。どうにも我が身と比べてしまうのを感じてしまうのです。ほんま、わてやったらもう少しうまく立ち回りまっせ、と。上の「源氏絵巻」からは「雨夜の品定め」つまり十七才の頃、左側は紫の上が重病になり見舞う源氏、五十歳前後のことと思います。作者は違いますが、その年齢の違いがわかります。
 色々なところからの抜書き、抜粋ばかりのカキコミとなりました。いいたきことはご理解の程お願い申し上げます。

 今朝お届けの栃五小様、体育館入り口付近、永野川にて見つけた小さな秋です。高橋治様は「倒れ伏してまで美しい花は少ないが、そうとなってもコスモスには風情がある。」と、仰っておりますが、和名「秋桜」とは名付け親を知りたくなります。

2012年10月12日金曜日

「六条御息所 源氏がたり」林真理子

 (全て敬称を略、と致しますことの失礼をお許しください)
 結構この著書を読むかどうかについて悩んでおりました。
 失礼ながら、林真理子よりも瀬戸内寂聴、円地文子、谷崎潤一郎、田辺聖子等のいわば大御所の「源氏物語」を読んでもいないままでございます。まともなところで林望さん程度でして、あとは失礼な表現ながら傍流とでもいうべき山本淳子や、週間源氏物語絵巻、内館牧子、高木和子、池田亀鑑(古いですか)という方々が取り上げた、源氏関連の書物を拝読し、もうこれでいいではないか、とも感じてました。
 でも最後と思い、取り寄せました。
 流石に林真理子、と書かせていただきます。
 内館流「弘徽殿女御」のご解釈に対し、「六条御息所」に乗り移っての林流「光源氏」のご解釈でした。生霊として
夕顔の髪の毛にて夕顔の首をお締めになる六条御息所の「夕顔」の場面。そして光源氏十七、八歳、御息所二十二、三歳。こんな二人が閨を共にしたら、それこそ朝が来ても二人の肉欲は尽きることはないでしょうね。  
 その激しさがあるが故に、別な女性を追い求めてしまう光源氏。それを怨霊として浮遊し自在に源氏を追い、その全てを知ってしまう御息所の苦悩。
 弘徽殿女御がクールな知性派美女なら、御息所は熱情溢れる(溢れすぎなんです)肉感的美女といえますか。
 本文中から少しだけ抜粋します。
 『不幸というものは、そんなものではありません。不幸というのは、自分が持っていたものを失うことを言うのです。夫に死なれ、恋人に去られた私にはよくわかるのです。
 なくても済むものをどうしても欲しいと願い、それが得られないと言って悲しむのは不幸とは申しません。しかし十八歳になっただけのあの方に、そんな道理がどうしてわかるでしょう。』と、光源氏を恨みますが、いっそのこと別な男、新たな恋人でも作ればよいものを、又、それが可能な女御でもある立場と、後ろ盾があったのに。何て思ったりもするのですが。

 永遠に男は男、女は女。遥か昔から人は其々に密度の濃淡はあれども、この男女間の悩みは尽きない、そして人それぞれですが、ある人にとっては大きな悩みの一つのようです。
 ところで、この本の活字の大きさが単行本としては小さいながら、一行の文字数が少なく感じます。あっという間に読了してしまいました。又、林さんのことですから御帳台(今で言うところの寝室です)における結びつきの表現にはもう少し激しい書き方をなさると思っていたのですが、ごく自然な表現でした。何しろその本の表紙を拝見しただけでは、そんな感じでございましたが、面白い造りであるとも言えます。つまり半透明の表紙といいますか、カバーの下に
腰巻といえるのかどうかわかりませんが写真が半分以上の大きさでついています。
右の写真ですが、これをもってして六条御息所に関する本だとは、どうでしょう。

 しかし、もう少し六条御息所のため、光源氏のために抜書きします。
 『あの方への恨みごとばかり申し上げていたような気がします。いくら輝くように若く美しい男だからといって、いくら皇子(みこ)だからといって、あまりにも薄情な仕打ちをなさったと、くどくどとお話しし過ぎたような気がいたします。それならば、どうしてそのような男に惹かれ、ここまで魂をさまよわせているのかと問われるかもしれませぬ。
 このたびはあの方のやさしさについて、お話しなくてはなりません。あの方は淋しいお育ちのせいか、老いた者や弱いものに対しては、格別のやさしさやいたわりをもっていました。
 あの方が、ある女性(にょしょう)に抱かれた気持ちというのも、愛情というものとはかけ離れたいたわりというものでございました。』
 
  山口瞳先生の作品の中で、女性からの別れ方が書かれた文章がございます。『畳の目、その細いひと目、ひと目ずつに、離れるが如く、後ずさる感じで離れていく・・・』とあります。
 別れる事はいつの時代でも大変な努力が必要なのです。
 如何に時代が違うとはいえ、又、所詮は創作の物語でもあります。大変な恋の大遍歴小説「源氏物語」ではございますが、暫く遠ざけることにしました。飽きたのではなく、学者でもない作家でもない和菓子屋の親父にしては深入りし過ぎでございます。
 何よりも、事実としての一条天皇と定子や、彰子との事が気になります。そちらに戻り、又、小倉百人一首についても、新聞だけの記事をもう少し膨らませて書き込むべく調べております(ひまですね)。更に、実方献詠会の報告もいたさねばと思っております。私同様、お暇な方はこれからもお付き合いください。
 ブログ上で。



 
 

2012年10月11日木曜日

「山縣有朋記念館」訪問

 目白にあります椿山荘は山縣有朋の屋敷跡だそうでございます。江戸時代後期に長州の藩士として、松下村塾にて学び、高杉晋作らと騎兵隊を結成、軍監となり明治維新に大活躍をし、以後も大正時代まで生き、元老として活躍なさいました。晩年、小田原に別邸古希庵を建て、この建物に主要な元老、重臣、閣僚が連日集い、国政を論じました。  
 大正12年の関東大震災で壊れたこの古希庵を、翌年栃木県の矢板市に修理、移築されたものが現在の「山縣有朋記念館」だそうでございます。
 一月以上前ですが、閑静な、誠に閑静な場所に、お屋敷が山懐に抱かれるように建っており、コーヒーつき(これはどうでもよいのですが)にて内部を拝見することができる、との記事を読み、ずうっと気になっておりました。すぐ近くには「住友ミュウジアム」というこれまた、大変な美術品のコレクションが展示された場所もあると知り、よくは知らぬまま昨日の定休日に訪れてみました。半月いや一ヶ月、早すぎましたか。楓の林の中にありますが、未だ全て深緑の中でした。
 
 

 東北道、矢板ICを下りまして北に向かいますが、パンフにありますような簡単ところではありませんでした。田舎道に入り、どんどん狭くなるばかりの緩やかな山道を、しかも、何でと聞きたくなるようなクニャクニャと実に細かく曲がりくねった道を登って行きます。あまりに方向が転回されるために、スマホのナビが混乱しちゃっています。たどり着くまでに二度も同じ道を行き来しました。道を聞くにも人家はまばらにして人を見かけません。しかも、山側から車が下りてきたらどこでどうしようなんて考えるほど、道幅が狭くなってまいります。私以外にもう一人、先客がおりましたがご苦労様と言いたくなります。
 流石に年代物の建物です。敷居を踏まないようにお静かにご観覧ください、とありましたがギシギシと足音のする二階では当時のワイングラスなどが陳列されております。一度に沢山の観覧者がこのそばを通ったらと考えると少々心配になります。でも、こじんまりとした建物の中で、往時を偲んでいますと、同じ人間でありながらそのスケールの違いを思い知らされます。失礼して外に出ますと、入るときに気になった狛犬が時代を感じさせる落剥振りながら、可愛いお顔で見送ってくれます。しかし、一匹、しかも阿吽の阿のお顔だけの狛犬なんですね。戻りましてお聞きしましたら、「こちらの狛犬は阿形のみでして、皇居を向いてのポーズとなり、陛下のお住まいの方に吽形の狛犬が鎮座しております。」
 納得です。
 約200m程更に上りました所に、こちらも又、唐突に、しかも、何でこんな山深き所にという場所に「住友ミュウジアム」がございます。流石に天下の住友財閥でございます。なんとも奥ゆかしいかぎりでございますが、その陳列品たるや、今思い出しても寒気がするほどにまさに驚くべき美術品の宝庫でございました。
 画家、尾形光琳と陶芸家、尾形乾山がご兄弟であったこと承知してはおりましたが、このご兄弟が残せし作品群の中の一部を拝見してまいりました。
 両人の美術論などとても私にはできませんが、少なからず、なんとも乾山の陶器には地味ながら魅入らされます。穏やかな中に、派手さはないのですが深い味わいのある作品群でした。光琳の「白梅図屏風」は見飽きることがありません。
 そして小道をはさんだ反対側にもうひとつ住友様の美術館がありまして、こちらには明治以降の、お名前を見ただけで卒倒するような芸術家、主に絵画を中心とした作品が、展示されておりました。学芸員さんとお話している中で収蔵品の数を、お聞きしましたが「一千三百点余程ございます。」とのことです。誠にさすが住友、でございます。
 栃木市内にも某食品会社の記念館があり、沢山の美術品が収蔵、一部展示されておりますが、率直な話、下世話なじい様の推量ですが、金額に換算するとしたら一桁、いや二桁違うと感じましたですね。いわゆる美術年鑑等により、この画家のこの時期の作品なら、一号幾ら位という金額はある程度推定されます。しかしそれは画廊や、大きな絵画展等で公表された、年鑑や作品集に出てくる作品に対してであり、未公表に近い作品となると金額のつけようがない、と言えます。
 このような細い山道の奥に、お金ではない、好きで集めた美術品が眠っている。驚きの矢板行でした。

 ところで、矢板ICを降りるとすぐに、次から次へと立て看板がいや実に沢山、それも今回のミュウジアムの近くにも立てられておりました。いわく「産廃処分場の受け入れ断固阻止」という趣旨の看板群です。今日の新聞には茨城県高萩市の市長さんと矢板の市長さんが握手をしている写真と共に「瓦礫の処分場設置には共に断固反対していきましょう、と約束」とありました。
 
 栃木市は東北道と北関東自動車道との接点にあります。
 日本国民が等しく分かち合わなければならない例えば米軍のオスプレーにしても、いざ我が町に来るとしたら、私たちはどうしますか。沖縄だけに押し付けてよしですか。瓦礫とは同列には論じられることではない、と、頭では理解できます。東北の瓦礫が片付かないで日本の将来はない、というのも理解できます。しかし、交通の便がよく、国有地もある栃木に、又、現在の処分場を国家予算にて数倍の規模にしてくれて尚、予算の配分を・・・となったらどうしますか。
 それでも、オスプレーも瓦礫も近づけさせることに反対しますか。今、喫緊の重要事項として考えておかねばならない問題だと思います。宇都宮には自衛隊の駐屯地、軍用機の滑走路もあるのです。到底無関心ではいられません。
 しかし、今回のすべては自由民主党が推し進めてきた原発政策や、対アメリカへの軟弱外交にあるともいえます。そして何よりも、国民や地元への根回しとはいやな言葉ですが、少なからず民主党政権の配慮のなさが事態を更に悪化させても居ると思います。
 ところで「アジェンダ・アジェンダ」と叫んでいた男が居りましたが、彼は県北が地元なはずです。その地元が大騒ぎしている中でこの件に関し、彼の口から何らかの発信がありましたでしょうか。私にはどのマスメデイアからもそれを検分することが未だ現在、見つかりません。確かに大変難しい問題です。しかしそのために政治家が存在するのではないのでしょうか。この件に関しては、栃木県民として大きな憤りを併せ持ちつつ、大きな関心を持ち続けるべきです。

 来週水曜日には、宮城県名取市に参り、藤原実方朝臣献詠会に出席いたします。あの大震災以来始めての東北行きとなりますが、遅すぎますし、何もできない己を恥じつつ報告しお詫びしてまいります。どうにもこの世はそうは思うようには参らぬと、頭では理解できるのですが、色々と複雑にて、この歳にして悩みの尽きない日々でございます。
 
 

2012年10月5日金曜日

「新栗たっぷり『栗蒸し羊かん』」

 昨日から販売を開始いたしました「新栗たっぷり『栗蒸し羊かん』」のご案内です。
 如何ですか?
 おいしそうでしょう。
 今年の栗は、猛暑にめげず何とか、なかなかにいい栗が実りました。栗蒸し羊かんの下に敷いてあるのは本物の栗の葉です。この葉っぱに毒はございませんので食べられますが、美味しくは、というか、固くて食べられません。あくまでも飾りでございますが、雰囲気が醸し出されて又、一味違う栗蒸し羊かんになっていると思います。一個づつをこの葉っぱで包み仕上げました。お皿にてお客様に供する際この葉っぱを下に敷くと、とても秋の雰囲気が満喫できるものと確信いたします。

 しかし朝晩はともかく、日中は残暑の余韻が残っておりまして、今日もお店はエアコンを動かしています。今年の暑さには誠に苦しまされました。二度も点滴を受けるなか、冷蔵庫のトラブルや、個人的な問題の抱え込み等、早く忘れさせてくれる本格的な秋、いやいっそのこと初冬を待ち受けたき気分でございます。実は先程までコピー機の不調修理のために、メーカーのメンテの人が色々とやっておりました。家電量販店等で販売されているような簡便サイズの機種ではなく、本格的な事業所用の機種でして、修理代としての経費がふくらむばかりです。
 
 本日は得意のぼやきにておしまいです。

 

2012年10月4日木曜日

「名を捨てて十七八の恋もせむ」麻生路郎

 ご無沙汰でございます。
 少々、訳ありでして正直な所、カキコミをする気持ちになれなかった、という皆様にはどうでもよい事柄なのですが、連続してございました。  
 気の滅入ることや、いささかショックな出来事もあり、パソコンを開いても、何するでなく「悩み事」といえば多少は格好はつきますが、そんな日々を過ごしてしまいました。
 「又、誰ぞに振られんたんとちゃいまっか」とは、本当の私というものを知らない人の感想です。人間、誰でもバイオリズムの悪い、或いはメランコリックになる時があるものでして、更に、ここでご紹介する話ではないので書きませんが、厭世感に陥らせてくれる事などがございました。
 「それにしては今回のタイトルは何やねん。」といわれそうですね。ま、話題を変えましょう。
 
 九月三十日(日)は十五夜でしたが、誠にあいにくの暴風雨の襲来でして深夜まで強い風が吹き荒れていました。
 しかし、午前二時頃にふと目覚めまして、窓のサッシを開けて夜空を見ましたら、風に飛ばされたのでしょうか、雲一つ無い夜空に煌々と青白く輝くまん丸のお月様が拝見できました。あまりの神々しさに涙がポロりでございました。本当に偶然眼が覚めた僥倖を素直に喜ばせてもらいました。
 「月の川とぼとぼ歩き親不孝」時実新子。
 「月ばかり冴えてプロポーズが言えず」樋渡義一
 「月蒼く少し婦道にそれてみる」清原理川
 

 今年の暑さは異常で、というか毎年こうなるのかは分かりませんが、漸く夏バテの解消と共に、少しだけ気力が戻ってきたようです。ついでながら、今年の十三夜は十月二十七日(土)です。
                     お忘れなく。
 しかしそれにしても、内部も外部も思うようにはなかなか参らない時代なのでしょうか。個人の問題もさることながら、新聞を広げてもなんとも良い話題が余りにも少なすぎますね。
 「不幸にも気も狂わずに首相いる」麻生路朗 
 昔も今も変わりないようでして。

 そんな中、「とちぎ朝日」の一面トップにカラーで、県立田沼高校の川島校長先生が紹介されておりました。実は私が「出来る事なら、素晴らしい話だから記事にしないか」、と記者に連絡しておいたのです。記事になるまで時間が結構掛かりまして、少し諦めかけていたのす。
 川島先生は生物がご専門で、県立栃女高在籍中に創立百周年を迎えておりまして、それに併せて『栃女百花』という写真と、エッセーを加えたご本を自費出版しております。 
 今回、田沼高校様が今期にて閉校となりますことから、
又、田沼高校様が万葉時代にゆかりがございますことから、植物の写真とそれにちなんだ万葉和歌を所収し併せてご解説も入れられた、というしかもかなりの装丁にお金が懸かっていると充分に思わせられるご本を出版なさったという次第です。お問い合わせは田沼高校様までお願いしますが、『栃女百花』については、かのこ庵にてかなり部数は少なくなりましたが、実費にて取り扱っております。先生のご好意でして、栃女生として関心がございましたら、誠に残数が少なくなっております。お早めにお求め下さい。

 昨日は定休日でしたが、大平の大中寺様で曹洞宗のお集まりがございまして、81人分のご注文が、又、快気祝いのご注文ももう一口あり、共にお届けでした。菓子組合の年会費の集金もあり、殆ど一日仕事でございました。忙しいのは良いことです。

 実は本日より「新栗たっぷり『栗蒸し羊かん』」の販売も開始しました。詳しくは明日、ご紹介いたします。
 大中寺様お届けの際に、撮りました写真です。実はコスモスの上空を沢山のトンボが飛び交っておりましたが、デジカメ不調にて、携帯での撮影となり、画素数が足りず、ご紹介できないのが残念です。そばの花は一部、実が付いておりました。