2012年10月11日木曜日

「山縣有朋記念館」訪問

 目白にあります椿山荘は山縣有朋の屋敷跡だそうでございます。江戸時代後期に長州の藩士として、松下村塾にて学び、高杉晋作らと騎兵隊を結成、軍監となり明治維新に大活躍をし、以後も大正時代まで生き、元老として活躍なさいました。晩年、小田原に別邸古希庵を建て、この建物に主要な元老、重臣、閣僚が連日集い、国政を論じました。  
 大正12年の関東大震災で壊れたこの古希庵を、翌年栃木県の矢板市に修理、移築されたものが現在の「山縣有朋記念館」だそうでございます。
 一月以上前ですが、閑静な、誠に閑静な場所に、お屋敷が山懐に抱かれるように建っており、コーヒーつき(これはどうでもよいのですが)にて内部を拝見することができる、との記事を読み、ずうっと気になっておりました。すぐ近くには「住友ミュウジアム」というこれまた、大変な美術品のコレクションが展示された場所もあると知り、よくは知らぬまま昨日の定休日に訪れてみました。半月いや一ヶ月、早すぎましたか。楓の林の中にありますが、未だ全て深緑の中でした。
 
 

 東北道、矢板ICを下りまして北に向かいますが、パンフにありますような簡単ところではありませんでした。田舎道に入り、どんどん狭くなるばかりの緩やかな山道を、しかも、何でと聞きたくなるようなクニャクニャと実に細かく曲がりくねった道を登って行きます。あまりに方向が転回されるために、スマホのナビが混乱しちゃっています。たどり着くまでに二度も同じ道を行き来しました。道を聞くにも人家はまばらにして人を見かけません。しかも、山側から車が下りてきたらどこでどうしようなんて考えるほど、道幅が狭くなってまいります。私以外にもう一人、先客がおりましたがご苦労様と言いたくなります。
 流石に年代物の建物です。敷居を踏まないようにお静かにご観覧ください、とありましたがギシギシと足音のする二階では当時のワイングラスなどが陳列されております。一度に沢山の観覧者がこのそばを通ったらと考えると少々心配になります。でも、こじんまりとした建物の中で、往時を偲んでいますと、同じ人間でありながらそのスケールの違いを思い知らされます。失礼して外に出ますと、入るときに気になった狛犬が時代を感じさせる落剥振りながら、可愛いお顔で見送ってくれます。しかし、一匹、しかも阿吽の阿のお顔だけの狛犬なんですね。戻りましてお聞きしましたら、「こちらの狛犬は阿形のみでして、皇居を向いてのポーズとなり、陛下のお住まいの方に吽形の狛犬が鎮座しております。」
 納得です。
 約200m程更に上りました所に、こちらも又、唐突に、しかも、何でこんな山深き所にという場所に「住友ミュウジアム」がございます。流石に天下の住友財閥でございます。なんとも奥ゆかしいかぎりでございますが、その陳列品たるや、今思い出しても寒気がするほどにまさに驚くべき美術品の宝庫でございました。
 画家、尾形光琳と陶芸家、尾形乾山がご兄弟であったこと承知してはおりましたが、このご兄弟が残せし作品群の中の一部を拝見してまいりました。
 両人の美術論などとても私にはできませんが、少なからず、なんとも乾山の陶器には地味ながら魅入らされます。穏やかな中に、派手さはないのですが深い味わいのある作品群でした。光琳の「白梅図屏風」は見飽きることがありません。
 そして小道をはさんだ反対側にもうひとつ住友様の美術館がありまして、こちらには明治以降の、お名前を見ただけで卒倒するような芸術家、主に絵画を中心とした作品が、展示されておりました。学芸員さんとお話している中で収蔵品の数を、お聞きしましたが「一千三百点余程ございます。」とのことです。誠にさすが住友、でございます。
 栃木市内にも某食品会社の記念館があり、沢山の美術品が収蔵、一部展示されておりますが、率直な話、下世話なじい様の推量ですが、金額に換算するとしたら一桁、いや二桁違うと感じましたですね。いわゆる美術年鑑等により、この画家のこの時期の作品なら、一号幾ら位という金額はある程度推定されます。しかしそれは画廊や、大きな絵画展等で公表された、年鑑や作品集に出てくる作品に対してであり、未公表に近い作品となると金額のつけようがない、と言えます。
 このような細い山道の奥に、お金ではない、好きで集めた美術品が眠っている。驚きの矢板行でした。

 ところで、矢板ICを降りるとすぐに、次から次へと立て看板がいや実に沢山、それも今回のミュウジアムの近くにも立てられておりました。いわく「産廃処分場の受け入れ断固阻止」という趣旨の看板群です。今日の新聞には茨城県高萩市の市長さんと矢板の市長さんが握手をしている写真と共に「瓦礫の処分場設置には共に断固反対していきましょう、と約束」とありました。
 
 栃木市は東北道と北関東自動車道との接点にあります。
 日本国民が等しく分かち合わなければならない例えば米軍のオスプレーにしても、いざ我が町に来るとしたら、私たちはどうしますか。沖縄だけに押し付けてよしですか。瓦礫とは同列には論じられることではない、と、頭では理解できます。東北の瓦礫が片付かないで日本の将来はない、というのも理解できます。しかし、交通の便がよく、国有地もある栃木に、又、現在の処分場を国家予算にて数倍の規模にしてくれて尚、予算の配分を・・・となったらどうしますか。
 それでも、オスプレーも瓦礫も近づけさせることに反対しますか。今、喫緊の重要事項として考えておかねばならない問題だと思います。宇都宮には自衛隊の駐屯地、軍用機の滑走路もあるのです。到底無関心ではいられません。
 しかし、今回のすべては自由民主党が推し進めてきた原発政策や、対アメリカへの軟弱外交にあるともいえます。そして何よりも、国民や地元への根回しとはいやな言葉ですが、少なからず民主党政権の配慮のなさが事態を更に悪化させても居ると思います。
 ところで「アジェンダ・アジェンダ」と叫んでいた男が居りましたが、彼は県北が地元なはずです。その地元が大騒ぎしている中でこの件に関し、彼の口から何らかの発信がありましたでしょうか。私にはどのマスメデイアからもそれを検分することが未だ現在、見つかりません。確かに大変難しい問題です。しかしそのために政治家が存在するのではないのでしょうか。この件に関しては、栃木県民として大きな憤りを併せ持ちつつ、大きな関心を持ち続けるべきです。

 来週水曜日には、宮城県名取市に参り、藤原実方朝臣献詠会に出席いたします。あの大震災以来始めての東北行きとなりますが、遅すぎますし、何もできない己を恥じつつ報告しお詫びしてまいります。どうにもこの世はそうは思うようには参らぬと、頭では理解できるのですが、色々と複雑にて、この歳にして悩みの尽きない日々でございます。
 
 

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