2013年1月20日日曜日

「権記」私的にその4。

 前回、保二年(1000)十二月の藤原定子崩御の事を「権記」からの抜粋で書きました。
 少し遡ります。同年六月二十日の日記には「近頃、疫癘(えきれい)が徐々に延蔓している。この災厄毎年、々として絶えることは無い。」(中略)として過去の治世や庶民の動揺を記してゆきますが、「の者の定は、まさに見えるところが有るのであろう。主上(一条天皇)は寛仁の君であって、天暦(村上天皇)以後では、好文の賢である。万機の政務の余には、ただ叡慮を廻らし、期するところは清である。」と一条天皇を高く評価しております。
 確かに、村上天皇は賢帝として名声は高いものがありました。
  24年間の在世中に承天慶の乱後の財政逼迫状態を倹約をとし物価を安定させる他、 その一方で歌人としても、また、琴や琵琶にも精通していた、つまり平安時代の文化を開花させた天皇ともいえます。その後の天皇は冷泉、円融、花山と続き、そして一条帝になりますが、いささか問題を抱えた天皇達であったことも事実です。 
 そして、一条天皇に抜擢された行成は、道長との間を優秀な官吏として、そして驚く程の忠勤ぶりで二位権大納言にまで昇進します。主上を見守る立場としては当然のことかもしれません。が、天皇も、権勢を今を盛りとした道長との間にあって、流れに抗されることなく自分の意志も貫いた教養あふれる天皇であったといえます。
 しかし同年八月、 敦康親王ご分娩のため生昌三条第へ移られる中宮定子の行啓を妨げる目的にて、公卿殿上人を率いて宇治の別業に遊びに出かける、という嫌がらせを道長はいたします。
 権勢をわが手中の基に置く。男女を問わずその向上心を否定するものではありませんが、出自や実の兄達の早逝を見てきた道長が取った行動は理解できなくはありません。でもね。
 そこで行成は奔走し僅かながらも二名の上卿を供奉させ、行啓の体裁を整えます。一条天皇と中宮定子の御為を思ってのことでした。
 しかし、道長が、より強固な権勢を得るために道長の実娘彰子をわずか十二歳ながら入内させます。遡りますが、中宮定子が前年の長保元年十一月七日に敦康親王を出産するのですが、道長はその日に、彰子を女御として出仕させるのです。更に親王御百日の儀から間もない十一月二十五日には、彰子立后して中宮とし、定子を皇后と称して二后並び立つという事態になります。
 その流れの中で、定子に付き従う清少納言の心中は目の前が真っ暗になる思いだったでしょう。その一方、の行動は、清少納言にとって精神的動揺を随分と鎮静させはずです。彼女の「枕草子」には、中関白家の凋落を一切書き残してはおりません。 この辺りのことは更に、詳しく後日カキコミの予定です。
 が、今は「権記」です。
 長保二年八月五日の彼の行動はそこまで動くのか、と思わせられます。この日に限らないのですが。つまり「所(かたなしどころ)に参ろうとして、束帯を着していた頃(中略)、の下に至った時、心地が宜しくなかったので、宿所に帰って帯を解いた。
暫くして籐中納言が参られた。召しがあった。また束帯を着して拝謁した。(略)皇后宮定子)が内裏に御入(ぎょにゅう)するということを伝えた。右中弁(源道方)と左府(道長)の許に参った。(略)
そこで弾正宮(為尊親王)の許に参った。次に東宮(居貞親王)の許に参った。帰宅した。」
 多少の体調不良では休まないどころか、あちらこちらと移動を繰り返しています。偉いと言えばその通りです。
   
 「権記」についてはもう少し書き込みしますが、歴史上における事実の中で、平安王朝期の中での行成の、そして見えてきた一条朝の中での清少納言、藤原実方達の出会い、触れ合いについて焦点を少しづつ移してまいります。

 ご存じの方には、又、ご興味を感じられない無い方には退屈な書き込みかもしれません。
 でもお許しください。少なくとも「平清盛」や平家物よりも、実方、清少納言、一条天皇、行成に深い思い入れを持ってしまったのです。過去にたわいもなき本を自費出版致しました。「源氏物語」と紫式部、藤原道長に代表される平安時代ですが、傍流をより注目して今も昔も変わらない、この世の儚さを(人偏に夢、と書いて{はかない}とは日本語の美しさを再認識します)、そして無常を、空なる世をこの歳だからこそ、いささか書きたいのです。

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