2013年1月7日月曜日

「権記 藤原行成」私的にその2。

 昨年二月に現代語に訳されました「権記」(倉本一宏著)についてカキコミいたしましたが、その続きでございます。 
 平安王朝期の具体的な事実が日記という形で藤原行成により残されていた訳ですが、972年生、1027年56歳で亡くなっています。995年に時の一条天皇の御代に蔵人頭(天皇のお側に仕える筆頭)として、又、能書家として日本三隻にも選ばれた人物が、その几帳面さゆえに天皇の信頼を得ながら、日々の彼の行動や、宮廷における儀式や作法がよみとれます。1027年に没と書きましたが、同日、藤原道長もなくなっております。決して後追い心中なんかではありませんが、何故か後を追うように亡くなります。
 今回は,この辺りのことを書きたいのではなく、皇后定子について彼の日記から裏付けられた事柄、そして「月の輪草紙」ではありませんが清少納言に付いても触れていきたいと思います。
 長保二年(1000)十二月十六日の日記から。
 「急いで内裏に参ろうとしていた時、下人が云ったことには『皇后宮(定子)の御産は□、既に非常です』と云うことだ。」で始まります。直ぐに左府(道長)の下に参るのですが、勅使が大僧正を召して加持祈祷を奏させ、甚だ頼りになったと聞いており相違している、と。「奇怪に思った」。内裏に向かい「御前に参った。天皇がおっしゃって云ったことには『皇后宮がすでに遁逝したことは、甚だ悲しい。左大臣(道長)に、参るよう、今すぐ仰せ遣わすように』ということだ」として天皇の非常なる嘆きと、その一方で道長は未だ信ぜず、行成が右往左往する混乱状態を活写しております。
 その間に、藤典侍(繁子)が邪霊に取り憑かれた件を阿部晴明を召して云々・・。とゴタゴタが続きます。そして、その日の日記の最後に「皇后諱(いみな)〈定子〉は、前関白正二位藤原朝臣(道隆)の長女、母は高階氏(貴子)。正暦元年春に入内し、女御となった。冬に立って皇后となった。年は十四歳。長徳二年に事件が有って出家した。その後、還俗した。所生の皇子女は、合わせて三人。敦康・脩子、また新たに生まれた女皇子(媄子)である。后に立って十一年にして崩御した。年は二十四歳。」と備忘録のごとく書き残しています。
 その後しばらくは定子の葬儀のこと等が綴られますが、途中、「一条天皇『心中、忍び難いものであった』。」とあり、その熱情が伝わってきます。
 時に定子二十四歳、一条天皇二十一歳、藤原行成二十九歳、清少納言三十五歳、花山院三十三歳、藤原実方二年前に陸奥国にて没、生きておれば三十九歳(?)、藤原道長三十五歳、同娘一条中宮・彰子十三歳、紫式部二十二歳の時代でございました。

 かくして中宮定子サロンは終わりを告げ、清少納言も深い嘆きの中、宮廷を離れます。
 私の好きな平安王朝の話はこの辺りから遡ってカキコミしてまいります。

 

 

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