2013年1月8日火曜日

「権記」私的にその3。

 長保二年(1000)十二月十六日、皇后宮・定子が逝去いたしましたことを前回書きました。その前日、十五日「権記」の記述に「或云、月巳時許、白雲互東西山、二筋夾月」、
「『ある者が云ったことには月が巳剋の頃、白雲が東西の山に亘って、二筋が月を夾(はさ)んだ。俗諺に云うには、歩障雲(ほしょううん)である』と。また云ったことには『不祥雲』ということだ。『月は后の象徴である』ということだ。」。
 凶変の前兆とされていた雲が出現していた、ということを記しています。
 「枕草子」第百四十六段に「名恐ろしきもの」として、次の如く出てまいります。
 青淵。
 谷の洞。
        ・
        ・
 雷(いかづち)は、名のみにあらず、いみじう恐ろし。
 疾風(はやち)
 不祥雲。(以下略)
 「強盗・生霊・薔薇・・・」等が記述される中、この雲が鮮明に思い出されたのかもしれません。
 定子、崩御前に書き残したとされる遺詠がございます。
 後拾遺和歌集の哀傷巻頭歌として収められており、小倉百人一首の原撰本「百人秀歌」にも採られています。
 『夜もすがら 契りし事を 忘れずは こひむ涙の 色ぞゆかしき』 

 清少納言がひたすら尊崇し、愛し、定子からも同様に可愛がられた(少納言の方がずっと歳上なのですが・・・)彼女の悲痛な叫びが聞こえてきそうです。しかし、「枕草子」には定子の痛烈にして激変するその落魄と哀愁、憂愁、悲嘆、暗澹とせざるを得ない事実は、何一つとして書かれてはおりません。
 敢えて、それらのことを避け、思い出せる限りの素晴らしかった宮廷での、そして定子との出逢いからを書き残した、というべきことなのでしょう。

「権記」と「枕草子」を半端ながら読み進めている中で、結局は内裏内での権力争いが、そこに登場する人物に多大な影響を与えていたことを知ることとなりました。
 私が平安王朝期に大変な興趣を持ったきっかけはこれまでこのブログ上で書いてきた事とは若干離れて来たかもしれません。

 どないしましょ。和菓子屋のオッチャンには無理がある。そして誤りがありまっせ、とのことでしたらぜひご指摘ください。素直に訂正致します。
 ただ、書きたき事はやっとわかってきた、と思っています。
 もうしばらくお付き合いください。そして和菓子の事についても、もっと書き込みいたします。
 1月十日(木)から「季の上生菓子」の販売を再開する予定です。ご期待ください。

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