2013年1月26日土曜日

「権記」私的にその5、の続きです。

 「ままならぬ ものを引き継ぐ 後白川」という、苦笑してしまいそうな川柳が「朝日川柳」にございました。作者は芦屋市の片岡邦雄様と言う方ですが、どうも景気は持ち直しそうな気配もありますが、一方で私を含めて庶民には生きずらい世の中になりそうな気もします。何しろ2パーセントのインフレ目標です。物価が上がるということです。これで景気が良くならなかったらひどいことになります。

  《その4》では朝保二年のお話でしたが、勝手ながら今回は遡らずに、朝保四年に逆戻りいたします。前回、中宮藤原定子崩御の事等をカキコミいたしましたが、行成の奥様が長保四年十月十六日に誕生したばかりの女児と共にお亡くなりになっております。あの時代の一つの典型的な事例かとも思い、ご紹介いたします。
 私事乍ら、実は暮れから友人、知人の告別式が続いております。
 今月これで四度目の、葬儀参列が明日ございます。
 先週水曜日は日頃、我がままを言わせていただいております、栃木現市長のご母堂様の葬儀が盛大に行われました。ご本堂に通常よりも大きく仕上げました薯蕷まんじゅうを飾らせていただきました。という話はともかく、悲哀をしみじみと感じる日々でございます。
 「権記」でございます。
 「早朝、お経を書写していた頃、(略)誕生した女児が、たった今、夭亡(ようぼう)したという事を伝えられた。『甚だ非常です。産婦(行成室)の病は甚だ重くいらっしゃいます。』(略)病者を見舞った。辛苦は頗る慰められた。ただし甚だ無力の様子である。尼となることを請うた。平生、許容を約束していたので、順朝阿闍梨を招請して戒師とした。名は釈寿である。その後、釈迦牟尼仏の名号を唱えた。(長くなりますがお許しください)尼(釈寿)が常に念じ奉っていたものである。その後、阿弥陀の名号を唱えた。尼もまた、これを唱えた。尼がまた、語って云ったことには『殲法(せんぽう)を聞きたいのです』と。直ぐに(略)行わせることを伝えた。丑剋、気はだんだんと絶えた〈年は二十七歳である〉。悲慟の極まりは、何事がこのようであろうか。臨終を示した頃には、心神は乱れていなかった。去る永延三年八月十一日以後、今まで十四年、母子の命は、一日で突然に没した。(略)生んだ子は合わせて七人である。三人がすでに夭逝した。」と。記しております。
 その後、葬儀の後、三条の河原に散骨する行成の日記が続きます。残念ながら、極めて事務的に。

 悲しみは薄れることはあっても、身辺の瑣事一つに、唐突に、そして痛切に、ある一コマが想いだされることがあります。この寒風の中に於いて、故人を偲ぶ日々には、きな臭くなっての鼻水か、涙なのか思わず戸惑うおのれを再発見いたします。 

 どうにも何時になっても、書きたき事に進まない日々でございます。

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