2012年10月25日木曜日

「小倉百人一首」は宇都宮の殿様の発案で出来ました。

 私たちは通常、格段の事もなく「小倉百人一首」に慣れ親しんで来ておりましたが、何と過日の下野新聞にて驚かされました。知っている人も少なくはないのでしょうが、しかし(浅学といえばそれまでですが)知りませんでした。「小倉百人一首」が宇都宮城の五代目の殿様の発案によって出来た、何てことは。
 

 「百人一首、誕生秘話」、「言いだしっぺは殿様」との見出しで紹介されておりましたが、もう少し肉付けした書き込みをさせていただきます。しかし、栃木には平安時代以前に遡っても由緒ある文化人を輩出して来ていたのですね。しかも鎌倉時代頃の武士の台頭による、各地での戦が続くなかでも。

 初代の宇都宮城主は藤原宗円、平安時代の人です。
 氏族としては、藤原北家道兼流宇都宮氏となります。この五代目、「宇都宮頼綱(1178~1259)」が主人公となるのですが、戦乱の時代にありながら、父譲りの歌人としても高名でした。
 1205年六月畠山重忠の乱が起きます。
 この時、頼綱は北条氏側に与し功を上げますが、同年八月、重忠の共謀者とみなされ(この辺は何故なのか、調べる必要を感じてます)、鎌倉幕府三代将軍源実朝(北条家の説も)から謀反の嫌疑をかけられ、謝罪のためと、服従の意をこめて出家します。当時頼綱二十七歳でした。
 そして、実信房蓮生(又は宇都宮蓮生)と号し京都嵐山北側に建てた中院山荘、別名「小倉山山荘」にて隠居生活を送ります。そこで、当時の歌壇における実力者「藤原定家(1162~1241)」と親交を結びます。蓮生(頼綱)の娘と定家の息子為家との結婚もなり、縁戚となります。
 当時、貴族や神社などの襖絵に和歌の色紙を張ることが流行したそうです。そこで蓮生は定家なら素晴らしい襖絵が出来ると考え、高齢にして病を患っていたのを承知で懇願します。定家、承諾します。そして出来上がったのが、飛鳥時代の天智天皇から、鎌倉時代の順徳院までの中から百首を選び、色紙を贈られた、それが「小倉百人一首」の由来という次第です。
 京都、鎌倉、宇都宮は当時の三代歌壇とも言われました。頼綱さん結構やるではないですか。
 新装成った宇都宮城の写真ですが、周辺がとても整備されまして、ちょっとしたデートコースにもなりました。ただし、新しいためか綺麗ですが重みがいまひとつですね。時間が必要かもしれません。


 こちらは自宅前で昨晩撮りましたライトアップされた公園と土曜日に迎える少し前のお月様です。しかしこのライトアップですが、もう少し暖色系の色が入るととても素晴らしいといつも感じます。今はまだよいのですが、寒さが厳しさを増してきますと、通行人も夜は殆どおりません。ただただ、寒々しい光景となっていると思いませんか。私個人の意見ではなく、この界隈の皆さんの評価です。ライトアップの関係者には申し訳ないが、センスがなさ過ぎです。
 


 自室のシクラメン、まだまだ花芽を沢山つけております。
  

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