2011年9月8日木曜日

「県歴史文化研究会」20周年

 栃木県立博物館が母体となって「県歴史文化研究会」という会がありまして、一応、
会員になっています。私なんかは会報を購読する程度のものですが、中々、其々の分野でご活躍なさっている方が大勢いらっしゃいます。特に、古代、中世期の街道を丹念にご研究なされている大学の先生達が少なからずおり、大いに勉強させてもらっています。
発表会が結構こまめにあるのですが、常に、土、日の昼間に開催されますので
先ず、出席は殆ど無理です。この「歴文会」ですが20周年を迎えまして、「日本史の中の栃木」というテーマで記念講演とパネル討議が8月の末に開かれました。  
勿論、土曜日でしたので参加出来ませんでしたが、その梗概が今日の下野新聞に掲載されておりました。
「古代下野国は律令国家最前線」とのタイトルで書かれています。
拙著をご覧の方はお分かりかと存じますが、古代の街道としての「東山道」には
とても関心を持っています。
記念講演の中で下野国が、「陸奥へのフロンテイヤ」とか、「地理的に陸路(東山道)の要衝」、「律令国家が東進するために重要な役割を担った」等の文字には心躍らされます。
当時の栃木市には下野国庁舎があり、現在の下野市には日本三大、薬師寺の一つとして東日本で僧侶となるためには受戒しなければならないのですが、そのための三戒壇の一つとしてこの薬師寺が設けられていました。国分寺、国分尼寺もすぐ近くにありました。この地点を通過して、東北に限らず、各方面への古道が開かれたわけです(話がそれますが、熊野古道がこの度の台風で被害が出たと報道されていました。人命への被害もかなりな規模となっています。どうにも地球全体が悪い方向へと向かっているようでいやになります)。
つまり、誠に下野の国は各地を結ぶ街道の要衝であったわけです。
そして現在、北関東の交通の要衝は栃木市が担っていると言っても、過言ではないと言い切れると思います。東京まで車でも、電車でも一時間、東北自動車道と北関東自動車道が交差しています。
ま、現在の話はいずれ書き込みますが、親鸞が残した足跡や、その高弟達の下野の国での偉業、更に遡って「大宝律令」を編纂した下野古麻呂(しもつけのこまろ)等の活躍は、もっともっと県民のみならず、悠久の歴史の一部として埋もれさせてはいけないし、勿体無い事として広く紹介すべき事柄だと感じています。
「藤原実方」は995年に陸奥の国の国主として陸奥へ京の都から下向しますが、彼も東山道を利用し、下野国庁舎へ立ち寄っているはずです。そんな事を調べていると、時の経つのを忘れさせてくれます。

一寸、今回は堅い話になりました。この辺のことは書き出すときりがないのでここまでにします。

ところで、上記の記事の隣に、向田邦子さんの妹の和子様が「没後30年に寄せて」として執筆されています。何かの縁を感じざるを得ません。

四国から、秋の和菓子が届いています。
見ているだけでも楽しくなるお菓子です。

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